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5-4 手を握っててくれませんか?

 宮川のボブの髪が風に舞い上がる。黒い目がじっと彼を見ている。唇がなにか言いたげに動き、また引き結ばれる。その横で兼森が片手で顔をこする。大きな肉厚の手に顔が半分隠されている。残り半分の目が最上を見つめる。半分でも威力は十分だ。真っ直ぐな、逃げ場を与えない目だ。そのまま片手で髪をかき上げ、兼森は口を開いた。


「主任、一色さんですか?」

「ああ、そうだよ」

「何かあったんですね?」

「まあね」

「話してくれませんか?」

「大丈夫だ、仕事に戻って……」

「おれたちじゃ頼りないですか?」


 最上は口をつぐんだ。いつもは穏やかな兼森の目が、刺すように向けられている。


「僕は上司だ。きみたちに頼られるならともかく、頼ってちゃだめだろ?」

「そういうんじゃないんです! 主任が一色さんを疑ってるなんて、全然知らなかったんです……宮川が大上くんから教えてもらうまで。おれたちは大上くんみたいに身内でもないし、石田管理官みたいにキャリアでもない……だから信用できないっすか?」

「まさか。そういうんじゃないよ。それになんで石田さんが……」

「管理官と喋ってるときの主任は……なんか楽しそうっす。主任もキャリアになれた人だから、やっぱりそういう人といる方が……いや違う。そんなことはどうでもいいんです、今! すいません! 嬉しかったんです。あの日、おれたちに頼ってくれて……主任があんなふうに話してくれたの、初めてだったんで……だから」


 兼森にぐっと覗きこまれる。背丈は最上の方が高いが、兼森は筋肉質だ。身に覚えのある被疑者なら、思わず自白しそうな威圧感である。


「おれたちにも頼ってください! 抱えてる仕事は疎かにしませんし、出来ないことは出来ないって言います。いや、あの、でも……無理にとは言わないっす……」

 だんだん声が尻すぼみになる。目を伏せる兼森の背中をたたき、宮川が顔を上げる。

「主任が話されたくないことは、話されなくていいんです。なにも事情を教えてもらわなくてもいいです。指示してください。その通りに動きます。わたしたちを使ってください。主任のことを信頼してますから……主任のどんな指示も信頼しています」


 なるほど、と最上はまばたきする。一色もこうして人を動かしているのだろうか。


「じゃあ宮川、もし僕が人を殺せと言ったら……その通りに動いてくれるか?」

 兼森がぐっと息を呑み、そろそろと左をむく。

「は? 無理です、主任! わたしは警察官ですので」


 ウサギのような愛くるしい目で、きっぱりと言いきられる。兼森が息を吐き、最上は二人の前で吹きだした。


「えっ? え? 主任、どうされました?」

「いいよ……いい、宮川。それなら大丈夫だ」


 最上は微笑みをうかべた。

 信用してなかったわけじゃない。頼りにならなかったわけでもない。

 ただ……踏みこませたくなかっただけだ。

 人を殺したかもしれない自分を。記憶と感情を失くしていた自分を。誰に見せたいとも思わなかった。踏みこませれば、いつか誰かが気づいただろう。だから誰とも距離を置いていた。それなのに踏みこまれてしまった――史狼くんに。

 そして今となっては――僕は自分が人を殺せると知っている。

 だからこれまで通り、関わらせるべきではないのだ。関わらせるべきではないのに……嬉しい、と最上は思う。そんな自分に笑ってしまう。嬉しがってる状況ではないだろう、と冷静な自分が突っこんでいる。


 ふと左耳の奥から、馴染んだ声が聞こえてくる。


『俺を騙したんですね?』

『……ごめんなさい』


 首をぐいと真上に反らせる。

 青空。

 ゆっくりと視線を下げる。

 兼森と宮川。


「……じゃあ、頼まれてくれるか?」

 最上は足を一歩踏みだした。



「警察官を待機させてほしい? 突入しなくていいのか?」


 石田管理官は声を潜め、デスクに両手をついた。

 前のめりに最上を見上げてくる。


「一色さんに気づかれたくないんです。史狼くんを確保できるまでは。女性の自宅から一㎞圏内に待機させてください」

「その男はそこにいないんだろう? 緊急配備でそいつを捕まえたらどうだ?」

「一色さんを捕まえれば大上くんは殺されます……おそらく。彼女は一色さんから指示を受けたとは言わないでしょう。殺人罪で捕まるのは彼女だけです。それに……時間を稼ぎたいんです」

「時間? なんのだ?」

「史狼くんが説得する時間です」

「説得って……その看護師の女をか?」

「はい。そのために話に乗ったんだと思います」

「そんな……無茶だろう。大上くんは素人だぞ」

「史狼くんは説得が得意なんですよ。ほら、麻薬の密売事件のときも、キャバクラのキャストに自白させてたでしょう? それに史狼くんとの面会で、被疑者たちも自供したじゃないですか」


 う、と声を詰まらせ、石田はあごに手をやった。


「それで? おまえはどうするんだ?」

「今から現場に向かいます」

「一人でか?」

「いえ……」


 最上は後ろを振りかえる。視線の先に、兼森と宮川が立っていた。



 女の足元にバッグが置かれている。A4サイズの布製で、赤と黄とピンクの花模様だ。彼女の持ち物にしては可愛らしすぎる。娘がいると言っていたから、その子の物だろう。

 女はバッグを引き寄せ、なにかを取りだした。


 史狼は息を詰めた――透明な円筒形で先端が尖っている――注射器だった。


「……それは?」

「カリウム製剤です」


 思わず唾を呑みこんだ。そうだ、この女は看護師だ。薬物を手に入れることなど容易くできるだろう。


「正午までに、最上さんという方が自殺されなければ……この薬をあなたに注射します」

「最上が自殺? ……なんで?」

「そういう取り引きなんです。最上さんが亡くなればあなたが助かる。最上さんが拒否すればあなたが亡くなる。そのどちらかなんです」


 なるほど、と史狼は唇をゆがめる。失敗だっただろうか。もし自分を助けるために最上が死を選んだら……いや、と首をふって打ち消した。


『一緒に一色を捕まえようか?』

『了解』

 意図は伝わっているはずだ。

 今この女を捕まえても一色を庇うだろう。一色を引きずりだして、伯父の関与を認めさせるためには――彼女を説得しなければ。そのために賭けに出たのだ。


「いいんですか? これは犯罪ですよ?」

「分かっています」

「……後悔してるくせに」


 史狼のつぶやきに女がすいと目を逸らす。史狼は薄く笑う。ほんとにこの女は……母親を思い出させて嫌になる。


「手を握っててくれませんか?」

「えっ……?」

「最上さんが死ななければ、俺が代わりに死ぬんですよね? あの人は俺のことなんて見捨てますよ、きっと。薄情な人なんです。そしたらあと四時間後には死ぬんでしょ、俺? 怖くて堪らないんです……だからせめて手を握っててくれませんか?」


 史狼は肩を震わせた。

 女はじっと彼を見つめ、右手の注射器を見つめ、コトリ、とテーブルに置く。

 目の前から立ち上がり、彼の隣に腰を下ろした。

 右手にやわらかな手がふれる。

 史狼はその手をつかんだ。

 不安。

 恐怖。

 迷い。

 殺意。

 罪悪感。

 そして言葉にならない感情の数々が――湧き上がる。

 湧き上がる。吸いこむ。吸いこんで。

 ……………………説得しなければ。

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