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5-3 死ぬのにもってこいの日

 目が覚めた場所は、どこかの民家の一室だった。全身が重怠い。砂が詰めこまれたようだ。両足が拘束されている。史狼は後ろ手に縛られ、ベッドに背中をもたれる姿勢でまぶたを上げた。女の二つの目が史狼をのぞきこんでいる。その目を知っているような気がした。不安と恐怖と迷いにゆれる――彼の母親と同じ目だ。史狼は顔をしかめた。そんな目をするぐらいなら、最初からしなければいい。


 部屋に視線を這わせてみる。


 和室。広さは八畳。左手の窓の横には木目調のタンス、正面に押し入れと引き戸。目の前にはローテーブル。小型の時計やティッシュ箱、マグカップが置かれている。右手の白い漆喰の壁には、ハンガーに吊るされた夏物のジャケット。部屋は生活感にあふれている。この女の自室だろうか。


 時計は午前八時を示していた。


「俺を騙したんですね?」

「……ごめんなさい」

 女がうつむくと、陰った目も見えなくなった。



 女の車に乗りこんだのは、二時間ほど前のことだ。彼女は運転席に座り、史狼を助手席にうながした。


「どこか行くんですか?」

「ええ、橋を渡ってカフェにでも」

「……大丈夫」

「えっ?」

「いえ、何でもないです。あなたと一色はどういう関係なんですか?」

「一色さんとは、わたしが勤めている病院で知り合ったんです。それから、たまにお会いするようになりました」

「それで一色さんに頼まれて、俺を轢き殺そうと?」

「いえ、あれは……ただの偶然です。あの辺りは気分転換でたまにドライブしているんです。本当にすみませんでした」

「へえ、偶然ですか。あの時間に俺をあそこに連れてこいって、一色さんが指定したって聞いてますけど」

「それは……あの時間に埠頭公園からながめる海がきれいだって、わたしが前にお話したことがあったので、それで」

「ぼんやり俺が海をながめている間に、うっかり薬を飲んだあなたが轢き殺してくれたらいいのにって思ったんですかね?」

「そんなことは……っ」


 左手をふる女に、史狼はどこか憐れみをおぼえた。あくまでしらを切りとおせと、一色に命じられているのだろうか。


「あなたは何でそんなに一色をかばって……」


 ちく、と右腕に違和感が走る。

 女がじっと史狼を見つめている。

 なんだか見覚えのあるまなざしだ。

 史狼はすがるように女の腕をつかむ。

 不安。

 恐怖。

 迷い。

 胸に湧き上がってくる。

 全部、吐き出してしまいたい。

 煮えた油を飲まされているようだ。

 気持ちが悪い。

 逃げなければ。

 いや……違う。

 賭けてみると決めたのだった。


「ごめんなさい、ごめんなさいね……」


 女の声が頭に響く。

 薄れていく景色のなかで、なぜか母親の顔が頭にうかんだ。



 史狼の現在地は、八王子市の一角――看護師の女の自宅で止まっている。

 最上は黒いスマホを見つめた。一時間と少し前、このインカムがオンになった。


『……一緒に一色を捕まえようか?』

『了解』と返事をした。

『大丈夫か?』と尋ねると『大丈夫』と返ってきた。


 しばらく女と史狼の会話が続き、にわかに静かになった。最後に聞こえたのは、女の謝罪の声だった。GPSを目で追うと、やがて車は首都高速都心環状線に乗り、八王子西インターで降りた。それからしばらく移動を続け、数分前から動いていない。




 今朝は徹夜明けである。溜まった書類を片づけておきたかった。朝の七時半とはいえ、一課の席の半分は埋まっている。隣では兼森が惣菜パンをかじり、パソコンを隔てた向かい側では、宮川がキーボードを叩いていた。


 胸ポケットでスマホが震える。最上はじっと画面の名前を見つめ、耳にあてた。


「はい、最上です。ご無沙汰しています……一色さん」

「お久しぶりです。すみません、朝っぱらから。最上さん、いまお時間少々よろしいですか?」

「ええ、もちろん」

「もう職場ですか? まだご自宅に?」

「職場ですが構いませんよ」

「すみません、あの、よければ屋上に出ていただけませんかね?」

「屋上ですか? うちの?」

「はい、警視庁の」

「……いいですよ。少しお待ちください」


 兼森と宮川をちらと見て、最上は一課をあとにした。エレベーターで屋上に上がる。扉を開けると、風が強く吹きこんでくる。前方のヘリポートから後方のアンテナ塔までを、ぐるりと見まわす。人の気配はどこにもない。ただ風が吹き荒れている。


「出ましたよ?」

「今日はいい天気ですねえ」

「そうですね。風は強いですが」

「はは、18階建ての屋上ですからね。どうです? 朝からこの青空ですよ。死ぬのにもってこいの日だと思いませんか?」


 最上は頭上をあおいだ。たしかに青だ。いつも吸っているあの紙巻き煙草の色だ。最上は目をすがめ、加熱式たばこを取りだした。スティックを挿してボタンを押す。


「……どういう意味でしょうか?」

「そこから飛び降りてくれませんかね? 最上さん」


 ゆっくりと首を動かした。右。左。背後。誰もいない。屋上の際に近づいてみる。桜田通りを見下ろした。まるで一色が立っているかのように思え――なぜ、と考え数秒後に合点がいく。車の走行音、クラクション。スマホ越しの音と景色が重なる。地上のどこかにいるのだろう。


「冗談は止めてください。飛び降りたら死んでしまいますよ?」

「死ぬのは嫌ですか?」

「まだ嫌ですね」

「オレもあなたが死ぬのは嫌だなあ」

「……どういう意味ですか?」

「あなたのことは気に入ってるんです。むざむざ死なせるのは勿体ない」

「それはどうも」

「だから選んでくれませんかね?」

「……なにをですか?」

「最上さんと、大上さん。死ぬのはどっちがいいですか?」


 スティックの先をくわえ、蒸気を吸いこむ。口の中に乾いた渋みがひろがる。


「どうして大上さんが出てくるんです? 関係ないでしょう?」

「オレはあなたと組みたいんですよ」

「……僕と?」

「この春からあなたを観察してました。どうもオレは、あなたが赤の他人という気がしないんです」

「おや、僕たちは実は血が繋がってましたか?」

「……そういう意味じゃありませんよ。分かって言ってるんでしょう?」

「はは、大上さんと一緒にいて、性格が似てきたのかもしれませんね」

「……ほんとに邪魔だなあ。まあいいです。最上さん、あなたもオレも親が教師で、子どもの頃に身内を亡くしてますよね? 刑事に予備校講師、どっちも社会的に信用され得る肩書きです。加えて、誰からも好感を持たれやすい性格と容姿――どうです? オレたちは似てると思いませんか?」

「そうですね。言われてみれば、そんな気もします」

「でしょう? そんなオレとあなたが組めば、無敵だと思いませんか?」

「無敵……ですか? もしあなたと組んだとして、じゃあどうするんです?」

「そうだなあ。まずは手伝ってあげますよ、最上さん。消えてほしい人間がいるんじゃないですか?」

「何のことです? 一色さん、あなたは誰に命じられてるんですか?」

「あなたがオレと組んだら話してあげますよ。ねえ、最上さん? あなた、人を殺したことがあるでしょう?」


「嫌だな……一色さんの冗談も性質が悪いですよ」


「ま、いいです。それはあとで。とにかく、僕はあなたと組みたいんですよ……あなたを殺すよりは。だから選んでくれませんか? 大上さんとオレと、どっちと組むか」

「あなたと組んだら、大上さんを助けてくれるんですか?」

「まさか。言ったでしょう? あなたが死ぬか大上さんが死ぬか、どっちかに一つです。オレと組むなら、大上さんには消えてもらいます。バディは二人も要りませんから」

「……じゃあもし史狼くんと組むと言ったら?」

「そのときは……残念ですが最上さん、あなたに飛び降りてもらいます」

「困ったな。僕もまだ死ぬ気はないんですが」

「なら大上さんですね」

「捕まえてほしいんですか? 一色さん。この電話は犯行の告白ですか?」

「まさか。ご近所の刑事さんとのただの世間話ですよ。オレが突き落とすわけでもないし、大上さんを殺すわけでもない。それとも冗談の罪で捕まるのかな?」

「世間話の冗談ですか。だったら僕は忙しいので……」

「正午まで時間をあげます」


 最上は左の手首をねじった。あと十数分で午前八時だ。


「正午までにあなたが飛び降りれば、大上さんは助かります。それまでにあなたがオレと組むと言えば、大上さんとはサヨナラです。ああ、最上さん、あなたが正午までに飛び降りなかった時も……ですけど」

「どれも嫌だと言ったら?」

「さあねえ。オレには何とも。ああ、警察のお仲間に言うなんてのは勘弁してくださいね。オレはあくまであなたと交渉したいんです。不審な動きがあれば、その時点で大上さんは死にますんで。助けたいなら、せいぜいあなた一人で足掻いてください」

「……史狼くんはどこにいるんです? 無事なんですか?」

「さあ、どこでしょうね。まだマンションで寝てるのかな? それとも今頃はもう仙台かもしれませんねえ」

「正午までに、僕が史狼くんを探して助ければいいと。そういうことですね?」

「……まあ、足掻きたいなら止めませんけどね。残念だなあ……せっかく交渉の余地を残してあげたのに」

「僕も残念ですよ、一色さん。あなたはもっと賢い方だと思ってました。じわじわと追いつめてくれるかと思ったのに、こんなB級映画ばりのアクションだなんて……前に史狼くんと観たゾンビ映画みたいなお粗末さです。がっかりだな」


 スマホのむこうで、気色ばむように一色がうなった。

 だいぶプライドを逆撫でされたようだ。


「……誰のせいだと思ってるんですか。オレだってこんなやり方は好みじゃない。仕方ないでしょう、急かしてくるんだから。これはイレギュラーですよ。オレの本領じゃない」


 最後にひと吸いし、最上はスティックを抜いた。蒸気を少しずつ吐きだしていく。

 仕方ないでしょう、急かしてくるんだから。

 やはり伯父に何かあったのだ。

 急に金が必要になった?

 ……退職金が入ったばかりなのに?


「分かりました。じゃあ僕はせいぜい足掻いてみるとします」

「残念ですねえ……気が変わったらいつでも連絡をどうぞ」




 ぷつ、とハサミで切るように静寂が落ちる。最上は道路を見下ろした。ミニカーのような車が行き交っている。あと一メートルも前に歩けば――簡単に事は終わるのだ。


 死んでもいいかな。

 ふと最上は思う。

 このまま自分が落ちて史狼が助かる。

 そうすべきなのかもしれない。

 自分は刑事で史狼は一般人なのだから。

 どちらか一方が――というのなら、自分が殉職するべきだ。

 一歩足を前に踏みだす。

 ふいに無性に煙草が吸いたくなった。

 ポケットに手を入れ、首を横にふる。

 これではない。

 空を見上げる。

 そう、この青と同じパッケージの紙巻き煙草だ。

 ふっと息を吐く。

 どうかしている。

 死んでどうする。

 伯父も一色も罪を裁かれず、史狼だって言葉どおり助かるとは限らない。

 怖い。

 最上は睫毛をはためかせる。

 怖い?

 僕は…………怖いのか?

 死ぬことが?

 僕が死ぬことが?

 史狼くんが死ぬことが?

 最上はインカム用のスマホを見下ろす。

 現在地は、数十分前から変わりない。


 史狼の所在を知られていると、あの電話の様子では一色は知らない。ここから八王子市までは約一時間。今はまだ八時手前だ。十分間に合う。一色に仲間はいるのだろうか。あの看護師の女の他に――可能性はゼロではない。だがこれまでの傾向では、組織的な動きをする男ではない。五、六人を相手にする――というわけではないだろう。ましてや相手はプロではない。ただの……シリアルキラーだ。ただし自分で手は下さない、という。


 最上は髪を撫でつけた。左耳の奥をコツ、コツ、とたたく。

 何も聴こえない。

 どうした?

 どうして会話が止んでいる?

 息を吸う。

 おそらく睡眠薬か麻酔薬だろう。殺されてはいないはずだ――おそらくは、まだ。

 冷静に考えれば勝算は十分にある。

 感情だ。

 感情のせいだ。

 感情があるから、怖がり、余計なことまで考える。

 だけど感情があるから――。

 最上は動きを止めた。

 眉尻を下げ、ゆっくりと背後を振りかえる。


「……大丈夫、飛び降りたりしないよ」


 視線の先に、兼森と宮川が立っていた。

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