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5-2 目力があるネコだ、うん

 梅雨が上がった。途端に夏が猛威をふるい、早朝からもう、じりじりと空気が熱い。仙台から戻って一週間。七月も下旬となり、すっかり夏らしくなった。

 玄関を開けると、下駄箱の上に小箱が置かれていた。宅配便の伝票が貼られ、依頼主は最上の伯母となっている。ガムテープが剥がれ、開封された跡がある。


「ただいま、最上」

「おかえり、史狼くん」


 居間のソファを横目にして、史狼は冷蔵庫を開けた。グラスに麦茶を注いで一気に飲み干す。駅からマンションまで徒歩十分。歩くだけで汗をかく。もう一杯グラスに注ぎ、居間にむかった。


「玄関のあれ、なんだ?」

「ああ、お土産だよ、バリ島の。昨夜届いた」

「なんだったんだ? お菓子かなんか?」

「見てみなよ」


 史狼はグラスを置いて、玄関に戻った。箱をのぞきこみ……ぽかんと口を開けた。可愛いのか奇抜なのか分からない、何とも言えない表情をしたネコである。木彫りの人形は二つ入っていた。


「一つは史狼くんの分だよ」

「…………い。……や、どうも」


 いらない、と口走りそうになる自分を押しとどめる。木彫りと目が合った。呪われそ……いや、目力があるネコだ、うん。


「飾らないのか?」

「一応職場に持っていって調べるから。盗聴器とか小型カメラとか付いてたら嫌だし」

 史狼はぎょっとしてネコの目を見つめた。

「付いてないけどね、たぶん」

「なんだよ。びっくりした」

「そのセンスは伯母だよ。伯父は機器の細工をするタイプじゃないし、念のためね。まあ僕ならそうするだろって言う理由で」

「……盗聴するのか?」


 最上は新聞から目を上げて、にやりと笑った。


「前にも言っただろ? 僕は手段を選ばないって……まあ、仕事の時はめったにないよ。組織的な犯罪がほとんどだし、令状も取るし。伯父や一色さんにもしてない。もう少し動きを見せてくれないと、こっちも動きづらいから。バレたら犯罪だし……でもやれるもんならやってみたいね、スパイ映画みたいなことも」


 カサカサと音を立て、最上が手元に視線を戻す。史狼はじっとネコを見つめた。


 今のところ、伯父も一色も動く気配はない。一色のまわりで人が死ぬのは、数年に一度のペースだ。二ヶ月前に予備校の講師が死んだ。これまで通りなら最上の殺害は、まだ猶予があるのかもしれない。東京に戻り、二人はそう結論づけた。四月に、最上が線路に突き落とされた。六月に、一色がマンションに引っ越してきた。最上の車がパンクさせられ、史狼は車に轢かれかけた。また来月辺り、接触してくるかもしれない。「しばらく泳がせてみようか」と最上は言った。差し迫った危険を感じないからだろうか。命を狙われているにも拘わらず、最上の様子は普段と変わらない。感情を確かめてはいないから、その穏やかな顔の下は分からないが。


 ネコの目を隠すように、史狼はそっと箱を閉じた。



 翌日、仕事から帰ったら、下駄箱の上に木彫りのネコが二つ並んでいた。

 どうやら無罪となったらしい。史狼はそそくさと目を逸らし、スニーカーを脱いだ。




 居間に入り、ふとテーブルに目を留めた。黒い機器が二つ――スマホと小型のイヤホンのような物が置かれている。


「なんだこれ? 仕事用か?」

「史狼くんの物だよ」


 最上は白いシャツを着て、ソファで煙草を吸っていた。手をのばし、スマホとイヤホンを史狼の前に置き直す。


「インカム用のスマホと超小型イヤホンだ」

「……は?」

「日向から仕入れた改造品だ。一度オンにすれば、オフにするまで会話が続けられる」

「あのキャバクラのオーナーの?」

「そう。しばらく身に付けててくれ」

「……俺が?」


 目の前で、濃い茶色の髪がかき上げられる。最上の左耳をよく見れば、イヤホンが嵌められている。


「……早速スパイごっこか?」

「似たようなもんだね」

 最上は髪を下ろし、すっと目を細めた。

「昨日の昼、伯母に電話したんだ。土産のお礼に」

 とん、と灰皿が叩かれる。とんとん、と灰を落とし、最上は散らばる灰を見下ろした。白い灰皿に積もるグレーの灰は、季節外れの溶けかけた雪のようだ。

「それで?」

「伯父の様子がおかしいそうだ」


 受話器の向こうで迷ったあと、伯母はこんな話を聞かせたという。



 ツアーでお昼を食べたとき、現地に住む日本人の方と知り合ったの。お父さん、すっかり意気投合してね。夜もホテルで待ち合わせて繁華街に行ったりして。帰国してから、その方の紹介で、今度は別の男性と知り合ったみたいなの。一昨日の夜に一緒に出かけて、帰ったのは明け方近くで。お父さん、顔が真っ青だったのよ。ベッドに入っても寝つけないようで、お昼頃、書斎で怒鳴るように電話していたの。お相手は一色先生じゃないかと思って……何度かお名前が聞こえてたから。午後になって、堅気には見えない男の人が二人やってきてね。お父さん、玄関でずっと頭を下げてたの。何があったのか聞いても「大丈夫だ。近いうちに解決する」ってそればっかり。ほんとは内緒にしてくれって言われたのよ。でも辰彦くんの耳にも入れておいた方がいいかと思って。



「……伯父さんが一色に電話を?」

「話は見えないけど、何か仕掛けてくるんじゃないかと思ってね」

 最上はスマホを持ち上げた。「GPS付きだよ」と言い、軽く振ってみせる。

「まじか。あんたに24時間、居場所を知られるって?」

「どうせうちと職場しか往復してないだろ?」


 さらりと言われ、史狼は不承不承うなずいた。まあ、そのとおりである。


「僕一人なら別にいいけどね。きみは以前、車に轢かれかけてるし。一色さんに嫌われてるって言ってただろう? 念のため……ただの保険だよ。それに一度こういうの使ってみたかったし」

「……あんたか俺の命が狙われるかも、ってか?」


 最上は煙を吐きだして、煙草を灰皿に捨てた。白とグレーが混ざり合う。どろどろに溶けた雪はいつか消え、やがて春を迎える。最上をめぐる過去と今の事件も、すべてが解決する日は近いのだろうか。



 翌日はなにも変わりなかった。その翌日も。


 三日も経てば、インカムは身体の一部のように慣れてしまった。うっかり外さないまま、史狼はシャワーを浴びたぐらいだ。防水仕様でよかった。

 四日目の早朝のことだ。夜勤明けでマンションに戻ると、エントランスに女が一人立っていた。


 見覚えのある女だ。


 忘れるわけがない。車で轢かれかけたのだから。彼女は史狼に気がつくと、深々と頭を下げた。史狼も軽く会釈をかえした。


「おはようございます。大上史狼さんですよね?」

「はい」

「先月は大変失礼いたしました。あらためてお詫び申し上げます」


 あの事件から一ヶ月以上経っている。今さら謝罪に来たのだろうか。史狼はじっと女を見つめた。長い髪を後ろで結び、顔には薄い化粧をしている。白いTシャツにチノパン、水色のスニーカー。どこにでもいそうな女である。少なくとも殺人鬼とは結びつかない。


「あの、実はお話したいことがあるんです。その……一色さんのことで」

「一色さんの?」

「はい。お知らせしておいた方がいいかと」

「やっぱり、あなたはただの顔見知りではなかったんですね?」

「……はい、すみません。事情があるんです」

「分かりました。教えてください」

「すみません、ここでは難しくて……よければ私の車で」


 史狼は女の視線を追いかける。道路の端に白のセダンが停まっていた。あの日と同じ車である。意図せず呼吸が速くなる。左手で耳の奥にふれる。インカム――まさか本当に使うことになるのだろうか。


「俺がこのマンションに住んでること、なんでご存知なんですか?」

「刑事の兼森さんに教えてもらいました。どうしても直接謝りたいとお願いして」

「へえ、そうですか」

 女の肩をつかむ。自分の鼓動が脈打っている。なりふり構っていられなかった。

「あの、なにか……?」

「兼森さんが俺のマンションを?」

「はい、そうですけど」


 史狼はほっと息を吐いた。よかった。兼森が話したわけではない。この女が……嘘を吐いているのだ。


「一色さんの何を教えてくれるんですか?」

「わたし……知ってるんです、一色さんの秘密を」

「どうして俺に? 兼森さんに話せばいいでしょう?」

「刑事さんに話したとバレたら、わたしが殺されるかもしれません。だけど……大上さんはあの人に命を狙われています。だから、あなたにだけは教えてあげたくて」

「……そうですか」


 つかまれた腕を、女は振り解こうともしない。自分に手一杯で注意が向いていないようだ。


「一色さんが俺を殺そうとしてるんですね?」

「はい。あの、大上さん。ここでは人目もありますし、もし一色さんと鉢合わせたら困りますし……よかったら」


 女は車を振りかえる。史狼は目をすがめた。まめに洗車をしているのだろう。朝陽に白が映えてまぶしい。

 左手をカーゴパンツの隠しポケットに突っこむ。この三日間、インカム用のスマホがバレないようにと、このダンサーみたいなカーキのパンツを履いている。もちろん史狼の私服ではない。最上がネットで買ったのだ。


 インカムをオンにする。

 どうしようか。

 史狼は迷った。

 この女には殺意がある。

 最悪の事態になれば……殺されるかもしれない。

 断わってこのまま見送ろうか?

 また次の機会に。

 次の機会?

 それはいつだ?

 線路に突き落とされるのか?

 それとも屋上から背中を押される?

 タイヤがパンクして交通事故に?

 車で轢き殺される?

 史狼は右手の先を見つめた。

 女の白いTシャツにしわが寄っている。

 この女にも迷いがある。

 あの飛び降り事件の女子生徒とも、仙台のクリーニング店の女性や教授や母親たちとも違う。

 迷いがある。

 感情が揺れ動いている。

 殺意と罪悪感がせめぎ合っている。

 史狼は目を閉じた。

 どっちだ?

 どっちに傾く?

 殺意か?

 罪悪感?


 エントランスの自動ドアが開く。ジョギングのウェアを着た若い女性が、二人にぺこ、と頭を下げる。史狼は半端にうなずいた。女はようやく気づいたように、自分の左肩を見る。


「あの、どうかしましたか?」

「あ……すみません、つい気が焦ってしまって」


 史狼は惜しい気持ちで手をはなした。とはいえ、このままでは自分のほうが性犯罪者になってしまう。


 死ぬのかな。

 史狼は思った。

 いや……死ぬ気はない。

 殺されるのは真っ平だ。

 ふっと唇を片側上げる。

 そうだ。

 自分は負けず嫌いなのだ。

 一色に怯えて逃げまわるのは嫌だ。

 最上の言うとおりだ。

 俺はばかなんだろう。

 だから、と史狼は思う。

 この女の罪悪感に賭けてみよう。


「……分かりました。車に移動しましょう」

 女の顔があからさまに安堵でゆるむ。

 史狼はにっこりと笑みをうかべた。


「じゃあ、これから……一緒に一色を捕まえようか?」


 女が戸惑いの表情をみせる。

 史狼は構わず前髪をかき上げた。

 左手で耳の奥にふれる。

 コツ、とたたく。

 逃げるより勝負に出てやる。

 …………だから。

 一緒に一色を捕まえようか?


『了解』


 インカムの奥で低い声が応じた。

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