4-8 淡い紫がチラチラと
クリーニング店の軒先にのぼりが立っている。ホテルから車で約十分、住宅街のなかに店はあった。日曜の朝で、店内には数人の先客がいる。彼らが去るのを待ち、最上は店員に声をかけた。
一色先生ですか? と店員は目を丸くした。
三十代前半ぐらい、明るい茶髪をボブにした元気のいい女性である。最上が警察手帳を見せると、カウンターの奥に声をかけ、女性は二人と店の裏手に出た。
「立ち話でもいいですか? おじいちゃん最近、膝が悪くて、あんまり長く接客を任せられないんです。すみません」
「いえ、こちらこそ。お仕事中に失礼します」
最上は愛想よく会釈して、手元のメモをながめた。
「あなたのお嬢さまは三年前、一色先生のクラスにいましたね?」
「はい、小五のときでした」
「人気があったようですね」
「はい! すっごくいい先生でした! 新卒の先生が五年生の担任なんて、ってみんな心配してたんですけど、教え方も上手いし、すごく親身だし、それにかっこいいし……って、ははっ、それはともかく、子どもたちもすごく懐いてたんです。今までで一番いい先生でした」
「そうですか。ところで……あなたのご主人は当時、事故で亡くなられていますね?」
「はい……そうなんです」
女性は声の調子を落とし、長い睫毛を伏せた。
史狼はその肩に手をのせた。
「大丈夫ですか?」
「はい、もう三年近く経つのに……へへ、ダメですね。しっかりしなくちゃ」
ちらと史狼の指先を見て、最上は質問を続けた。
「交通事故だったとか」
「そうです。真冬で……雪道でスリップして……」
「一色先生もずいぶん心配されたのでは?」
「はい、お通夜にも四十九日にも来てくださいました。うちの子は中学生になった今でも、『先生どうしてるかなあ』って懐かしがってるんですよ」
「ご遺体の確認のときも、先生が付き添われたたそうで?」
「ああ……署の方から聞かれたんですか? そうなんです。旦那を一人で見る勇気がなかったものですから……へへ、つい先生に泣きついちゃいました」
「小学生のお嬢さまはともかく、おじいさまではなくて?」
最上の言葉に誘導されるように、女性は店の裏口に目をやった。すうっと目をすがめ、またすぐに笑顔になる。
「おじいちゃんはもういい歳ですから。びっくりして心臓に負担がかかっちゃダメですもん。ね? 刑事さんもそう思いません?」
「そうですね……それで、一色先生はその年に退職されたんですね?」
「はい、東京に引っ越して……たしか予備校の先生になるって仰ってました。生徒さんたちの夢を叶える手助けがしたいって。素敵ですよね! どうですか? あっちでもいい先生だって評判なんじゃないですか?」
「ええ、ほんとうに。あなたはそれ以来、先生にお会いしてないんですか?」
「はい。退職されてからはもう連絡は取ってないんです。お忙しいみたいだから」
「そうですか」
最上は微笑して、史狼に横目で合図した。そっと手をはなす。女性から一歩はなれる。
「ご協力ありがとうございました」
裏口に女性を残し、二人は角を曲がって通りに戻った。
のぼりが風に煽られて、威勢よくひるがえっていた。
◆
「これから聞き込みに行くよ」と言われたのは、今朝のことだった。ホテルの朝食バイキングで、史狼がオムレツを頬張ったときだ。
この夏に一度、こっちで聞き込みをしようと思ってたんだ。一色さんの担任クラスの元保護者、大学時代の教授、それから母親。いずれも彼が傍にいた時期に、身内が亡くなった人たちだ。
「ちょうどいいから、東京に戻る前に寄っておこう。史狼くんもいるしラッキーだね」
最上はそう言って、機嫌よくフルーツサラダをつついた。そうだ、しっかりビタミンを摂っとけよ。あんたかなりのヘビースモーカーなんだからな。史狼はあきれて内心でぼやいた。唐突に予定を告げられるのも、もういいかげん慣れたものだ。
◆
工学部の研究室の扉をたたく。顔をのぞかせたのは、快活に笑う男子学生だった。なかに招き入れられ、テーブルに並ぶ椅子をすすめられる。二人が腰かけると、目の前にカップが二つ置かれた。
教授は物静かな男性である。痩せぎすで線が細く、中性的な面立ちだった。年齢は四十歳前後だろうか。窓際の席から立ち上がり、おもむろに学生に頷いてみせる。学生は心得たように、二人に礼をして研究室をあとにした。
教授はふわりと笑みをうかべた。
「……一色くんですか。ええ、覚えてますよ。教育学部のキャンパスから、わざわざこんな研究室まで足を運んでくれて……西洋の建築について、楽しく語らせてもらいました」
「お気に入りの学生、といったところですか?」
「いやいや。そりゃあ気に入ってはいましたけどね。なにしろ学部も違いますから。教授と学生……というより、ただの建築おたくの蘊蓄に、付き合ってもらっただけですよ」
「そうですか。ああ、ところで……先生は奥様を亡くされていましたね? たしか四年前、一色さんが四回生の頃でしたか」
「ええ、さすが刑事さんだ。よくご存じですね。そうです、妻が亡くなって……おっと、大丈夫ですか?」
床にコーヒーが数滴垂れている。手が滑って、と史狼は謝った。ティッシュを持ち、テーブルの下にもぐる。わざとである。教授の革靴にそっと触れてみる。
「大丈夫ですよ、彼に任せてください。それよりお話の続きを……奥様はベランダから足を滑らせたとか」
「そうです……少し飲み過ぎた夜でした。ぼくが止めてやればよかった。残念でなりません」
「自死なさったと……」
「いや、いや……あれは事故ですよ。妻に死ぬ理由なんてない。ぼくたちは仲の良い夫婦でしたから。あれは不幸な事故でした」
「お子様はいらっしゃらないんですね?」
「そうです。自然にはなかなか授からなくて……だからその分、二人の生活を楽しもうと話していました」
「ご遺体を引き取られたとき、一色さんもご一緒だったとか」
「ああ、本当によくご存じですね。そうです。ぼくは免許がないもので、警察署までバイクで送ってくれました。優しい子ですよ。卒業してから会ってませんが、元気にしていますかね?」
「ええ、お元気そうですよ」
最上がコツ、と踵を鳴らす。それを合図に史狼は立ち上がった。ティッシュを丸め、ごみ箱に捨てる。
「ご協力ありがとうございました」
教授は柔らかく微笑んで、二人を研究棟の廊下まで見送った。
◆
一色の実家は高台の住宅街にある。玄関のチャイムを押すと、初老の婦人が扉を開けた。最上が事情を説明すると、すんなりと玄関に通された。「お上がりください」と勧める彼女に、最上は微笑して首を横にふる。
「いえ、こちらで結構です。短い時間ですから」
「そうですか。ではお言葉に甘えまして」
婦人は白髪を後ろで結わえ、淡い紫のワンピースを着ている。きりっとした目に引き結んだ唇と、整っているが厳しい印象の顔つきだ。明るく陽気な一色とは、まるで雰囲気が違う。その隔たりに史狼は内心で驚いた。
「十夜さんは一昨年の春まで、こちらに住んでいたのですね?」
「ええ、私に気を遣ってくれてたんです。一人になるからと。ご近所さんもいるし大丈夫って説得して、やっと納得してくれたんですよ。ほんとは大学を出たら、すぐ東京に行きたかったんでしょうに、ねえ」
「一色さんも亡くなられたご主人も、先生でいらっしゃるんですね。十夜さんはご両親の背中を見て、教師になると決められたんでしょうね」
「どうでしょうか。たしかに主人は真面目な人でしたから、影響されたのかもしれませんけど。私はお手本になるような立派なものじゃないですよ」
「ご主人は八年前に亡くなられたんですね? その二年前にはお嬢さま……十夜さんの妹さんも。大切なご家族を続けて亡くされて、とてもお辛かったでしょう。お二人とも事故だと伺っておりますが」
「ええ、ほんとうに。そうです、あの子は交通事故で……夫は転落事故でした。ほら、」
あの、と婦人は上体を後ろにひねり、廊下の先の階段を指さした。
「あの階段です。酔って、踊り場から落ちて……」
史狼はさっと彼女の痩せた腕をとらえた。
「すみません。お辛いことを思い出させてしまって」
「いえ、もう八年ですから。幸い保険金も下りて、なんとか十夜と二人で暮らしていけましたし」
保険金という単語に、最上の眉がわずかに動く。しかし一瞬の後には、また穏やかな顔で婦人をながめた。
「ご主人が落ちる姿をご覧になったのですか?」
「いえ、夜中に大きな音がしたんです。一階の寝室を出てみたら、あの人がそこで倒れていて」
「十夜さんは?」
「二階の寝室にいました。私と同じように、音に気づいて部屋から出てきて……」
「そうですか。お二人ともずいぶんショックを受けられたでしょう」
「ええ、ええ……ほんとうに」
婦人が静かにうなだれる。
「お嬢さまは十三歳で……十夜さんが高一のときに亡くなられたのですね?」
「そうです。公園に行こうとして、車に撥ねられて……」
「十夜さんは優しいお兄さんだったのでしょうね?」
「もちろんです。いつも登下校に付き添ってくれて、公園にも連れていって……」
「亡くなられた日も一緒に?」
「いえ……あの日はいませんでした」
婦人は有無を言わさぬ調子で、最上をじっと見据えた。
「刑事さん。息子は……十夜は、何かの事件で疑われてるんじゃないですよね? 東京で何かあったとかじゃ。仕事が忙しいとかで、一度も帰ってこないものですから」
「はい。最初に申し上げたとおりです。十夜さんの職場で同僚の方が亡くなられたので、形式的に調べているだけですよ。被疑者として疑っているわけではありません。たまたま別件で東北に用事があったので、お訪ねしただけですから」
微笑する最上に、婦人もぎこちなく笑う。史狼は腕をはなそうとして、ふと手を止めた。
「あの」
「はい? なんでしょう?」
「一階の寝室から出てきたんですよね? ご主人を見つけたとき」
「ええ、そうですけど……なにか?」
いえ、と史狼は口をつぐみ、今度こそ手をはなした。隣で最上が礼を述べ、史狼も一緒に頭を下げる。扉が閉まったあとも、淡い紫がチラチラと目についた。
■読者の方へ■
今話で第四章が終わります。ここまでご覧いただきありがとうございます!明日からの2日間で五章、六章をまとめて投稿します。明後日(1/6(金))夜に完結予定です。史狼たちがどんな結末を迎えるのか、皆さまに見届けていただけましたら幸甚です。




