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4-7 一本くれないか?

 暗い部屋にバイブ音が響く。

 史狼はサイドテーブルに手をのばした。スマホはマナーモードにして、充電ケーブルに繋いである。光る画面を見つめ、タップして耳にあてる。


「……はい」

 小声でささやき、隣のベッドを見る。

 最上が動く気配はない。

 首を反対側にむけ、もう一度呼びかける。

「大上ですが……どなたですか?」


 沈黙。

 数秒の後、通話は切れた。

 ツー、ツー、ツー。

 無機質な音が耳に残る。


「……どうした?」

 史狼は上体を起こし、最上を見下ろした。

「悪い。起こした?」

「いや、起きてた。大丈夫か? こんな夜中に無言電話が?」


 スマホの時計はたしか、深夜二時半だった。史狼は首を横にふった。しかしすぐに、暗くて見えないだろと思い直す。


「大丈夫。一色とか、そういうんじゃないから……たぶん母だと思う」

「史狼くんの?」

「そう。去年こっちを離れてから、たまに掛かってくるようになった。非通知でなにも喋らなくて……最初の一、二回は俺も無言で切ってたけど、三回目のときかな。たまたま聴こえたんだ……居間の柱時計の鳴る音が。うちの。それからひと月ぐらいは掛かってこなくて、でもまた二ヶ月後ぐらいから掛かってきて……だから一応、名乗るようにはしてる」

「……母親に、きみの声を聴かせるために?」

「俺が勝手に思ってるだけで、単に寝ぼけてんのかもだけど」

「違うだろ。きみの声が聴きたいんだよ」

「……身勝手だよな」


 コト、と硬い音を立てた。スマホをサイドテーブルに戻し、史狼は天井を見上げる。エアコンの作動音が低く室内に響いている。


「母親は元気なのか?」

「調べたんだろ? 俺のこと」

「ざっくりとだよ。きみが小学校に上がる前、ご両親が離婚した。高校生のときに、母親が入院してた。それぐらいだ」

「今は落ち着いてる……昔よりは。入院したのは、別れた父が再婚して子どもが生まれてたって知ったときで……手首を切って。今は通院と投薬だけで済んでるから」

「母親と上手くいってないのか?」

「上手く……いや。俺が一方的に嫌ってるだけ……ってのも違うか。分からない。嫌いじゃない、たぶん。でも好きとも言えない。俺はあの人に嫌われてるから」

「……嫌ってる相手の声を聴きたいとは思わないだろ?」

「面とむかって言われたんだ。高三の、卒業まぎわの頃だった。あんたなんか産まなきゃよかった。そしたら今もお父さんはあたしの傍にいたのに、って。じゃあ産むなよって話だよな。俺に言われても知るかよ。なんて答えりゃいいんだ?」


「そうだね」


「ほんとは分かってる……そういう心の状態だったんだって。いつも思ってるわけじゃないって……でも口に出すってことは、それも本音の一つってことだろ? 言われた時は、大したことないって思ってた。ただの暴言だ、やり過ごせばいいって。でもどんどん心が重くなるんだ。母が笑っててほっとしても、ああこの人は俺がいなきゃいいって思ってるんだって……思い出したら、心がすっと冷えていった。高校を卒業したら、ほんとは地元で就職する予定だった。母を助けようって。でももういいって思ったんだ。もう実家も地元もはなれて、誰も俺のこと知らない場所に行きたいって……それで東京に出てきた」


「月島に?」


「そう。もっと家賃が安い街もあったけど、上京したての頃、たまたまあの辺を歩いてて……春の暖かい日で、潮風が気持ちよくて、もんじゃの匂いがして。ビルがそびえ立ってて、隅田川がきらきら光って、橋がでかくて、おまけに地名が月島って……なんか未来都市って感じでわくわくしたんだ。こんな所に住みたいって思った。ちょうど格安アパートを見つけて、その日のうちに申しこんだ」

「僕もあの街は気に入ってるよ。風通しがよくて海が近くて、独特の雰囲気がある。交通の便もいいし」

「正直あんたとの同居は嫌々だったけど、あのマンションはいいなって思った。俺の安アパートと違って眺めがいいし、隅田川も一望できるし……初めてバルコニーに立ったとき、気持ちよかった」

「史狼くんはバイトだよな? 正社員にはならないのか? 週六で入ってるなら社員のほうが稼げるだろ?」

「髪を切ったら正社員にするぞって、今の職場はチーフに圧かけられてる」

「切らないの?」

「……額に稲妻の傷があるもんで」

「……寝てる間に切ったげようか?」


 史狼は唇をゆがめ、一点に目を凝らした。眼筋にぐっと力をこめる。なんだか余計なことまで色々と思い出してしまいそうだ。どうせ暗くて、最上には見えやしない。


「もしかしたら……母が呼び戻すんじゃないかって。やっぱり俺にいて欲しいって。必要だから傍にいてくれって……そう思ってたんだ。そうなったら、バイトの方が身動き取りやすいだろ? でもま、掛かってくるのは無言電話と、叔父からの生存確認だけだったけど」

「泣きたいなら泣きなよ」

「は? 泣くかよ。てか暗いし見えないだろ?」

「見えるよ。僕は夜目がきくし、もう目も慣れたし」


 史狼は掛け布団に突っ伏した。旅先の、真新しい糊の匂いがする。硬いリネンは非日常の象徴のようだ。



「……一本くれないか?」



 ぼんやりと部屋が明るくなる。サイドテーブルの明かりを点けて、最上は煙草の箱とライターを寄こした。一本取りだし、口にくわえて火を点ける。ゆらりと煙が立ち上がる。口中に煙の味がひろがった。


「そんな美味いもんじゃないな。もらっといて悪いけど」

「いいよ。貸して」


 煙草とライターを重ねて、最上の側のサイドテーブルに置く。カチ、とライターが鳴り、灰皿が二人の真ん中に移された。


「…………二、三歳の頃からおぼろげに記憶があるんだ。その頃はまだ、自分の感情と母や父の感情とが混ざり合ってる感じだった。楽しいと思ってたら急に悲しくなったり、嬉しかったのに突然腹が立ったり……なんとなく毎日落ち着かなかった。だんだん、その湧き上がる感情が他人のものだって分かって、それがわかるのは俺だけなんだって気づいて……幼稚園に入って他の子どもと話すようになった、四、五歳の頃のことかな」


 灰皿をたたく音がした。史狼も手元を見て、同じ動作をする。煙草はだいぶ燃えていた。黒い陶器にぱらぱらと灰がこぼれ落ちる。


「父は俺に関心がなかったみたいで、気にしてたのは母だった。五歳の頃かな。笑ってる母に抱きついたら、激しい嫉妬を感じたんだ。その日は父が休日出勤で……後から思えば、浮気相手と会ってたんだよな。俺はつい『お母さん、なんでそんなに怒ってるの?』って聞いてしまった。その瞬間、嫉妬から恐怖に母の感情が一気に変わった。どうやら俺は人の心がわかるらしいって、避けられるようになった」


 静かな室内に、とん、とん、と硬い音が響く。史狼は耳をすませた。空気が生温かくなり、またエアコンの作動音が聞こえはじめる。


「でも六歳の、小学校に上がる直前だったかな。まだ寒い時期で……母が真夜中に突然、俺を起こしたんだ。異様に輝いた目で、『お父さんがお仕事から帰ってきたら出迎えてあげて』って言われた。お父さんがどんな気分なのか教えて、とも。母に頼られたのが嬉しくて、俺は明け方ぐらいまで起きてた。父が帰ってきた。びっくりしてた。そりゃそうだよな、六歳の息子が玄関で待ってるんだから。俺は父に抱きついた。『お父さん、お仕事お疲れ様。どんなお仕事だったの? 大変だった?』って、母に言われたとおりに尋ねた」


 煙草の先を灰皿に押しつける。初めて吸ったそれは、ただの煙としか思えなかった。ライターが音を立てる。最上が二本目をくわえていた。


「……初めての感覚だった。からだの奥が燃えるみたいで、ぞわぞわして気持ち悪いのに、気持ちいい……どうしていいのか分からなかった。廊下から母が近づいてきた。どうだった、と尋ねられて、俺は正直に答えた。『お父さん、お仕事辛くなかったみたい。すごく気持ちよかったみたい。よかったね、お母さん』って。はは、父は蒼ざめてたな。母は父に掴みかかって、携帯を無理やり奪って履歴を見て、相手の女にかけ直して……修羅場だった。明け方に近所迷惑だよな」



 やけにのどが渇く。でもなにも飲みたくはない。口寂しかった。史狼は左手を差しだした。ぽん、と箱がのせられる。一本くわえてライターを鳴らす。


 やはり煙の味しかしない。



「今から思えば……俺が生まれた頃から父は浮気してて、母はもうその頃から不安定だった。でもあれが決定的だった。母は心療内科に通いはじめて、叔父も間に入って協議して、父との離婚が決まった。父は俺の親権を拒否したんだ。まあ気持ちは分かるけど……俺のせいで浮気を言い当てられたんだし」

「史狼くんのせいじゃない。自業自得だろ」

「はは、正直、俺もそう思うけど。でも……俺の能力がなかったら、ああはならなかったかもしれない。少なくともあんな形には……母の心が壊れそうにはならなかったかも。とかまあ色々考えて。母を助けなきゃ、と思うのは罪悪感からだった。初めのうちは……でもだんだん大人になって、母が俺を利用したことも分かってきて腹も立った。だからもう意地なんだよな。稼いだ金を送ってるのも、あの人もパートはしてるんだし、叔父も力になってくれるだろうし、ただの自己満足だ」


 ゆらぐ煙を見ていると、不思議と心が安らいだ。

 かたちの定まらない煙は、まるで自分の心のようだ。


「だから自分の顔を隠して、能力を隠してた?」

「そう。なにも考えず、ひっそりと生きてくつもりだった」

「ずいぶん日常が様変わりしたな」

「ああ……でも思ったより悪くなかった」

 静寂。

 史狼は首を横にむけた。

 二つの眼が彼を見つめている。

「自分のことが嫌いなのか?」

「……分からない」


 以前にも、似たようなことを聞かれた気がする。あのきつね顔の、キャバクラの店長だ。あの時はなんと答えたのだったか。


「祝福だと思えばいいよ」

「……なんの話だ?」

「きみの能力も、ま、ついでにその顔立ちも」

「はあ?」

「そんな顔するなよ。いい話なんだから。持って生まれたものは変えられないだろ? まあ顔立ちなら整形できるか……でもきみの能力は、ある日突然消えたりしない限り、一生付き合ってかなきゃならないものだろう?」

「ああ……そうだけど」

「ずっと呪いだと思って生きるのは辛いよ」

「呪い……だろ? こんなの。祝福だとは思えない」

「どっちも同じなんだよ」


 史狼は眉間にしわを寄せた。最上は軽く微笑んでいる。ふざけているわけではなさそうだ。


「同じじゃないだろ?」

「同じだよ。きみの能力は、きみが望もうが望むまいがすでにある。それを呪いと思うか祝福と思うかは、きみ次第だ。別にどっちを選んでもいい。でもどうせなら、呪いより祝福のほうがよくないか?」

「あんたなら祝福だと思うって?」

「そうだよ。言っただろう? きみがうらやましいって。きみにとっては呪いでも、僕にとっては祝福だ。感情がないのも僕にとっては呪いじゃない。祝福だったよ。感情があれば人間は迷う。嫉妬する。騙される。罪を犯す。感情がない僕は、その場の最適解を考えて、合理的に判断できた」

「じゃあ感情が呪いじゃないか。その感情と記憶を取り戻したおかげで、死にそうになったくせに」

「そうだね。でも死ななかっただろ? きみの能力のおかげで。だからほら、やっぱり」


 祝福なんだよ、と言って、最上は煙のむこうで笑った。

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