4-5 手料理を食べたりしなかったんですか?
菅生パーキングエリアで、最上は実家に電話を入れた。40分ほど走ると、仙台宮城インターを降りて仙台市内に入った。最上の実家は、青葉区の住宅街の一角にある。ホームドラマに登場しそうな庭付きの一戸建てだ。
「もっと早く電話をくれたら良かったのに。もうお夕飯を終えちゃったのよ」
「義母さん、ちょっと顔を見に寄っただけですから。仕事で東北に来ていて、思ったよりも用事が早く片付いたんです。このあと史狼くんと居酒屋にでも行きますから、気にしないで」
「ええと……大上さん、でしたね?」
「はい。大上史狼と申します」
最上は彼のことを、警察官志望の青年だと紹介した。
「東京で知り合って、よく仕事のことで相談に乗ってるんです。真面目で気のいい青年ですから、ぜひ刑事になってほしくて。しかも地元が仙台なんです、奇遇でしょう? この週末は、史狼くんも別件で帰省していたそうなんです。せっかくなら夕食でもと、僕が誘ったんですよ。でも義母さんたちの顔が見たくて、ここまで付き合ってもらいました」
「まあまあ、そうなの。大上さん、どうぞ上がってくださいね。辰彦くん、簡単な物でよければ拵えるけど」
「義母さん、玄関でいいですよ」
「なに言ってるの、大上さんもいらっしゃるのに。辰彦くんも半年ぶりでしょう? せめてコーヒーぐらい飲んでいきなさい。ね? 大上さんも」
史狼は笑みだけで応えた。会話の主導権は最上に任せるつもりである。最上は同居にも触れていない。余計なことは喋らない方がいいだろう。
「お父さんも居間で待ってるのよ。ね、ほら、上がって」
「そうですか。じゃあ……お言葉に甘えようかな」
無邪気に笑って、最上は上がり框をまたいだ。伯母の後ろを歩きながら、そっと史狼を振りかえり……獲物を狙う獣のように唇を上げてみせた。
◆
居間のソファに初老の男が座っている。白い革製の三、四人は座れそうな横長のソファだ。男は背中をもたれ、どっしりと踏ん反るような姿勢だった。短く揃えた白髪に、ポロシャツとチノパンという風貌はスポーツマンを彷彿とさせる。いや、若かりし頃はと言うべきか。腹やあごにはたっぷりと肉がのっている。サイドボードに並ぶトロフィーや盾が、かつての姿を物語るように飾られていた。
男はおもむろに立ち上がり、最上の肩をばんばんと叩いた。
「おお、辰彦! よく来たなあ!」
「義父さん、ご無沙汰しています。昨日の電話でホームシックになってしまいました」
「ははは、そうだぞ! 東京から三、四時間で来れるだろう。もっと帰ってきなさい」
「なかなか時間が取れないものですから」
「働きすぎじゃないのか? こっちに来たのも仕事だって? ああ、そうだそうだ、ええと……きみは警察官志望だそうだね?」
「はい、初めまして。大上史狼と申します」
史狼は笑って手を差しだした。伯父は戸惑う様子を見せながら、その手を握りかえしてくる。史狼は笑顔を作ったまま、そっと手をはなした。
伯母がトレーを手に居間に入ってくる。史狼と最上は、伯父と向かい合わせのソファに腰を下ろした。横長のソファと共布で、こちらは一人掛け用が二つ並んでいる。目の前にコーヒーが置かれ、伯母が伯父の隣に腰を下ろした。
「出発は明後日ですか? 海外旅行なんて初めてですね」
「そうなんだ。平田さん……ああ、県警の本部長の方でね、公安委員会で知り合ったんだが。彼が勧めてくれたんだ。ずっと家のことは家内に任せきりで、申し訳なかったとぼやいたらね。せっかく定年退職されたんだし、お二人で記念にいかがですか、と。母さんも乗り気だし、あっちは気候も良さそうだし。なあ、楽しみだね」
「ええ、そうですね」
伯父に微笑んで、彼女はカップを持ち上げた。
史狼もひと口含む。軽い酸味とコクがある。豆の種類は分からないが、美味いと思った。いつものエスプレッソマシンとは、また違う味わいだ。
「やっぱり、義母さんのドリップは美味しいですね」
「あら、東京なんて美味しいお店がたくさんあるでしょう?」
「義母さんのコーヒーは特別ですよ」
伯母は「お世辞を言っても何もでませんよ」とぼやきながらも、嬉しそうな顔をした。
「そうだ、史狼くんは面白い特技があるんです」
ちら、と合図を送るように、最上は横目でこっちを見た。
「ほお、なんだね?」
「手相を見るのが得意なんです。僕も、料理が苦手なのも寝起きが弱いのも、見事に当てられてしまいました」
「あらまあ……辰彦くん、ちゃんとごはんは食べてるの?」
「大丈夫ですよ、義母さん。警視庁の近くにいい店が沢山あるので」
「だけど外食ばかりじゃ……」
「おいおい、おまえ、もう子どもじゃないんだから。なあ、辰彦」
「そうですよ、義母さん。しっかり食べてますから安心して。ほら、史狼くん。いい機会だ。義母さんの手相を見てあげてくれないか?」
手相を口実に伯父夫妻の感情を確かめる――これはあらかじめ、最上と車内で打ち合わせていたことだ。史狼は寝耳に水という顔をした。伯母にわざとらしく頷いて、苦笑いをしてみせる――強引な息子さんで大変ですね、でもここは息子さんの顔を立ててあげましょうか? ――とでも言うように。
「そうねえ。じゃあせっかくだから、お願いしましょうか」
おずおずと差しだされた手を、史狼は両手で支えた。
じっと目を凝らすふりをする。
「義母さんは料理が得意なんだ。僕が苦手なのは、死んだ母譲りなのかな」
史狼の両手のなかで、伯母の小さな手がぴく、と跳ねる。
「ねえ義父さん、どうでした? 母は料理が苦手でしたか?」
「うむ……いや、どうだったかな」
「義父さんは昔、母と付き合ってたんでしょう?」
「ああ、まあ……うん」
「手料理を食べたりしなかったんですか?」
「はは、なあ、辰彦。その話はあんまり……」
伯父は盗み見るように、隣に座る伯母に目をやった。
「料理は得意でしたよ」
伯母は表情を変えずに、さらりと言った。
「そうですか。さて、と。どうだい、史狼くん。義母さんの手相は?」
史狼は手元から顔を上げた。
意志の力で、口角をぐっと引き上げる。
「とても家庭的で包容力のある方です。いつも周囲に目配りされて、支えてあげる秘書みたいな……奥ゆかしくて控えめな女性だと思います」
「おおっ、すごいな。おまえにぴったりじゃないか」
「あなた、そんなこと……」
「なかなか当たるもんだなあ。どれ、私も見てもらえるかね?」
伯母に会釈して、史狼は伯父に向き直った。
その肉厚な手を両手で支える。
「ああ、そうそう。史狼くん、きみの小学校はどこだったっけ?」
「え? D小学校ですけど」
「なに? 私の学校かい?」
「えっ?! そうなんですか?!」
史狼はぎょっと目を見開いた。今度こそ寝耳に水である。車中でもひと言も聞いていない。
「史狼くんは二十歳だから……八年以上前かな。義父さんはもう校長でしたよね?」
「そうだな。いやあ、そうかそうか……卒業アルバムでも見れば分かるかもしれんが……大上くんはもうすっかり大人だしなあ」
「いえ、俺も当時のことはあまり覚えてなくて……すみません」
恨みがましい視線を、こっそり最上に送ってみる。
そういう大事なのは先に教えとけよ。
史狼の静かな訴えを無視して、最上は機嫌よく話を続けた。
「児童からも保護者からも人気だって、義父さんは評判だったんですよ。ねえ」
「こらこら、辰彦。大上くんに身内びいきだと思われるぞ」
「だって本当のことですから。そうだろう? 史狼くん。義父の顔は覚えてなくても、人気があったんじゃないのかい?」
「あ…………はい。俺も俺の……友だちも、みんな校長先生を好きで慕ってました」
「はは、いいよいいよ、大上くん。そんな無理をしないで」
満更でもなさそうに、伯父は目尻を下げた。史狼は「ほんとですよ」と笑って、内心でつぶやいた。全く記憶にないし、そもそも俺、友だちなんていませんでしたけど。
「あ、そうだ。義父さん、一色先生を覚えてますか?」
史狼はからだを強ばらせた。
「うん? 一色先生……ああ、覚えてるよ。たしか一昨年の春に辞められたんだ」
「あなた、この春にもお会いしたでしょう? あなたの定年退職のお祝いで、うちに来てくれたじゃないですか」
「ごほっ、ああ、そうだったな。退職してから、すっかり忘れっぽくなっていかん。辰彦、それで? 一色先生がどうしたんだ?」
「仕事の関係で偶然、都内でお会いしたものですから」
「一色先生が言っていたのか? その……私の小学校で働いていたと?」
最上は微笑した。答える代わりにカップを口に運んだ。
「…………義父さん。僕はほんとうに、しあわせだと思ってるんです。義父さんの子どもになれて」
「おいおい、突然どうしたんだ?」
「父が死んで、いっそ良かったと思ってるんです。義父さんの方がよほど良い父親なんですから」
「……いや、辰彦。そんなことを言うもんじゃないぞ」
「義父さんは思いませんか? あなたの弟が……僕の父が死んで良かったと。義父さんの方が容姿も人望も、ずっと優れてたんでしょう?」
「うむ……たとえそうでも、あいつが死んでいいわけじゃ」
「母は愚かですよね。そんな義父さんと別れるなんて。その挙句に、父と結婚して殺されて。自業自得だと思いませ……」
「辰彦くん‼」
最上は口をつぐみ、隣に視線を移した。伯母の顔はすっかり蒼ざめている。史狼は彼女の手を左手でつかんだ。小刻みに震えている。右手から伯父の、左手から伯母の、二人の感情が同時に湧き上がる。まるで嵐の海のようだ。脳みそがぐらぐらと揺れる。
「そんなこと……言っちゃだめよ。過去は変えられないんだから……あなたのお母様を悪く言ってはだめ」
「僕の母親はあなたでしょう? 義母さん」
「……でも、あなたを産んでくれたのは静さんですよ」
伯母はカップに目を凝らした。その視線はコーヒーに注がれながら、でも遠いどこかを眺めているようだ。
部屋の空気に不釣り合いな、明るい声が響く。
「いかんいかん。久しぶりの再会なのに、なんだか辛気臭くなってしまったなあ。辰彦、おまえの両親はいい人間だったよ。二人とも、私の大切な弟と義妹だった。あの事件は不幸な事故のようなもんだ。このまま忘れておきなさい…………忘れてるんだろう? あの事件のことは……それとも、なんだ? ……なにか思い出したのか?」
「いえ。まだ思い出せないんです」
「そうだ、その方がいい。思い出していいことなんて何もないぞ」
「そうですね。もう諦めるつもりです」
最上は従順な調子でうなずいた。伯父が満足そうに目を細める。
「ところで、どうだね? 大上くん。私の手相は?」
「はい……生まれついての王者のような方です。強いリーダーシップを発揮して、人びとを導いていくでしょう。容姿に優れ人望が厚く、誰からも好かれるタイプです。向かうところ敵なしといった……これまでもこれからも、順風満帆の人生を送られると思います」
「ははは、そうか。これはまいったな」
伯父は大口を開けて笑い、がしがしと頭を掻いている。気を許したように、史狼に茶目っ気のある笑みをむけた。
「いやあ、きみは面白い子だなあ。でもなんでそんな髪型をしてるんだ? 目が悪くならないか?」
「史狼くんは額を隠してるんです。傷があるものですから」
「ふむ、そうか。でも男なんだから、傷の一つや二つ、気にしなくてもいいだろう?」
「アレです。某ファンタジーの主人公と似た稲妻みたいなんです。揶揄われるのが嫌なんですよ、ね? 史狼くん」
「はは……そういうことです。たぶん」
たぶん? と首をかしげる伯父に、史狼は笑ってごまかした。最上は隣でにこにこと笑っている。こいつ口から生まれたんじゃないのか、と史狼は内心で毒づいた。
◆
カップに残ったコーヒーを飲み、最上は暇乞いした。「もう一杯どう?」と勧める伯母に首をふり、史狼も立ち上がった。
伯母は玄関まで見送りにきた。史狼の顔を見て、「いいお医者様を探してみたら? 今はレーザー治療も進んでいるみたいだから」と気遣わしげに言う。史狼はそっと笑みを浮かべた。いい人だな、と目を細める。前髪を上げて伯母にうなずいてみせた。
「ありがとうございます。でも……すみません。冗談なんです、最上さんの。俺が人見知りなんで、庇ってああ言ってくれたんです」
「あ、あら……そう」
伯母は二重の目をパチパチさせ、遠慮がちに口を開いた。
「あの……大上さんは、もしかしてアイドルの卵……?」
「違います」
史狼は即答した。なぜそうなった。
「そ、そうよね。警察官の卵ですもんね」
いや、まだ卵でもないしなるつもりもない。内心で度々突っこみながら、史狼は彼女の手を取った。腰をかがめて顔をのぞきこむ。心なしか、頬が赤い気がする……気のせいだろう。たぶん。
「一歩踏みだしてみるのも、いいと思います」
「え……?」
「俺もずっと同じ毎日で、ずっと一生変わらないって思ってたんですけど……けっこう、動いてみたら全然ちがう景色が見えて……それがいいのか悪いのか分からないんですけど。でも迷ったときは、行動してみるのもいいんじゃないかって。そう思うんです」
「ええと……」
「手相のことですよ。義母さんの」
最上が横から言葉を添えた。伯母は、ああ、といった調子でうなずいた。目尻にしわを寄せ、伯母が二人に手を振る。史狼はぺこと頭を下げ、玄関をあとにした。
あけましておめでとうございます!