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4-4 熊だと思うけど

 フロントガラスに曇り空がひろがっている。流れる木々の間に【那須 2km】と緑の標識が見えた。今は栃木のあたりか。東京インターから東名高速に乗り、最上の車は東北自動車道を走っている。時刻は夕方四時半。カーナビの表示では、あと二時間と少しで仙台宮城インターに向かう予定である。




 マンションを出発したのは、午後二時過ぎだった。


 いつの間にか、意識が半分遠のいていた。物音に目を開けると、最上がソファで上体を起こしていた。史狼は左手をはなした。うとうとしていても、無意識に最上の手首はつかんでいたらしい。最上は寝乱れた髪をかき上げ、焦点の定まらない目で彼を見た。


「……史狼くん、今日は仕事は?」

「休みだけど」

「予定は?」

「なにも」


 そうか、と眠気まじりの声が返ってくる。そのまましばらく固まって、最上はおもむろに立ち上がった。あくびをしながら寝室に入り、また廊下に消えていく。間もなくシャワーの音が響いてくる。史狼は軽く眉を上げた。そういえば、と思い返す。最上は朝に鉢合わせると、いつもシャワーを浴びてコーヒーを飲んでいた。徹夜明けの日もあるだろうが、寝起きも弱いのかもしれない。


 居間に戻った最上を見て、史狼は首をかしげた。


 部屋着ではなく、スーツでもない。明るいグレーのTシャツに黒のパンツを合わせ、黒い薄手のジャケットを手に持っている。


「どこか行くのか?」

「ああ。仙台に」

「へえ……今から? 急用か?」

「そうだ」

「新幹線で?」

「車だよ」

「そうか……まあ、気をつけて」


 目覚めたとき、最上の感情はもう落ち着いていた。なんの用事か知らないが、ハンドル操作を誤ることもないだろう。などと呑気に考えていると、最上はこく、と小首をかしげた。きょとんとした顔が、逆になんだか腹立たしい。


「なに言ってるんだ? 史狼くん。きみも一緒に行くんだよ」


 ぽかんと口を開ける史狼に、「15分で支度してくれ」と言い残し、最上はコーヒーを淹れはじめた。あぜんとする彼の鼻孔に、ふわりといい匂いが漂ってきた。



 車は銀のレクサスだ。最上の運転は手慣れている。「免許ないし替われないけど」と史狼が言うと、「別に構わないよ」と返ってきた。運転は趣味も兼ねていて、長距離も苦にならないと言う。「警察官だからめったに遠出はしないけどね」と言いながら、最上はどこか楽しげにハンドルを握っていた。久しぶりの運転で嬉しいのかもしれない。適度な振動とシートの座り心地とが相まって、史狼は何度か寝落ちしそうになった。


「もう寝てていいよ」

「いい。悪いし」

「一方的に誘ったのは僕だ。構わないよ」


 強引に連れてきた自覚はあるらしい。史狼はドリンクホルダーから、紙コップを持ち上げた。東名高速に入る前にコンビニで買ったドリップコーヒーだ。初夏の空気のように生温かくなっていた。


 紙コップを持つ右手には包帯が巻かれている。


 居間でコーヒーを飲みながら、最上は彼の右手に目を留めた。最上はカップを置いて、棚から救急キットを持ってきた。「自分でやる」と史狼は言ったが、「僕がやるほうが早い」と返された。宮川の言うとおり、こまめなタイプなのだろうか。それとも史狼に似て潔癖なのかもしれない。


 史狼はそっとあくびをして、運転席に顔をむけた。


「それで? 結局なにしに行くんだ? 仕事か?」

「いや、私用だ。実家に行く」

「盆も帰らないのに?」

「事情が変わった」

 すっと車線を右に移し、二、三台追い越してから、最上は走行車線に戻った。

「記憶が戻ったからか?」

「史狼くん、やっぱり刑事になれば?」

「誰でも思いつくだろ。今朝の今日でいきなり」


 窓の開く音がする。右の頬に生温い風が吹きつける。ライターが鳴り、煙が鼻先をかすめた。


「そうだよ……実の両親が死んで、僕は伯父夫妻に引き取られた。僕が八歳のときだ。それから一年も経たないうちに、伯父は養子縁組の手続きをした。家裁の許可は問題なく下りたようだ。伯父は小学校の校長だったからね」

「へえ、親子揃って公務員なんだ」

「もう退職したけどね。三月末に定年で、この春からは公安委員会の委員になったそうだ。肩書きが好きな人だから、二つ返事で引き受けたんだろう」

「なんか棘を感じるな」

「ははっ……いい養父だよ? 愛想がよくて人好きがするタイプの人間だ。僕にも親しく接してくれたし、父とは大違いだった」

「じゃあなんで……」

「僕はずっと伯父に不信感を抱いていた」

「……なんでだ?」


 ダッシュボードの灰皿に手をやり、最上は灰を落とした。


「わからなかった。でも子どもの頃からずっとだ。笑って頭を撫でられても、誕生日のプレゼントをもらっても、テストで褒められても……素直に喜べなかった。疑い、とまではいかない。ただ……ずっと不信感が拭えなかった」


 黄色い菱形の標識が窓を流れていく。【動物注意】と書かれた……熊だろうか。


「どうした?」

「いや、このへん熊が出るのかと」

「牛じゃないの?」

「熊だと思うけど」


 最上はふっと笑って、助手席の窓をちらと見た。


「悪い、それで?」

「中学生になった頃かな。推理小説かなにかを読んでて、ふと気づいたんだ。僕が相続した両親の遺産も保険金も、伯父の養子になれば、伯父夫妻が使えるんだって。親が子の金銭を管理するって意味でね。その点を考慮して家裁の許可が必要になるんだけど、伯父の場合は問題にならなかったようだし」

「……金目当てで、あんたを養子にしたってことか?」

「分からないけどね。子ども一人育てるのに、食費も学費もかかる。甥といっても所詮は他人だ。僕を育てるのに、僕の両親の金を当てにしたとしても……まあ仕方がないという気もする。だけどずっと引っかかってはいたね。不信感は募ったよ」


 煙草を灰皿に捨てて、最上はコーヒーを手に取った。


「あの事件の日、父を刺した僕に母が言った。お父さんのお腹の包丁を抜いてお母さんの手に握らせてちょうだい、と。僕は言われたとおりにした。外に大人を呼びに行こうとすると、母は首を横にふった。お母さんはもうすぐさよならするから傍にいてちょうだい、と。母は僕を抱きしめた。耳元で声がした。忘れなさい、全部忘れてしまいなさい、と。それから母はこう続けた。伯父さんに嫌われてはだめよ。でも絶対に伯父さんを信じてはだめ。信じてないことを気づかれてもだめ。母は何度も繰りかえした。僕はうなずいた。母のからだは温かかった。甘い花の匂いと錆びた鉄の匂いがした。僕はその匂いのなかで意識を失った」


 窓の閉じる音がする。ぴたりと風が止み、空気が静まる。


「目が覚めたら病院にいた。二日間眠っていたそうだ。伯父が悲痛な顔で立っていて、両親が亡くなったと告げた。看護師や医師や刑事たちが代わる代わるやってきた。僕の心は凪いでいた。僕はなにも覚えてなかった。両親の死もどこか他人事のようだった。刑事たちは、両親が互いを刺殺したと結論づけた。僕の指紋は、包丁を抜こうとしてついたんだろうと。あの状況ならそう判断しても無理はない。僕もそう思うことにした。でもそれじゃあ、なんでこの手はあの肉の感触を覚えているのかと……内心で気づきながらね」

「意識を取り戻したときには、もう記憶も感情も失くしてたのか?」

「そうだ。僕は母の言うとおり、全部忘れた。感情は……たぶん、僕の本心を伯父に悟らせないために封じたんだろう。はは、それが一番手っ取り早いと、子どもながらに思ったのかもね」


 最上の笑いは悲鳴じみて聞こえた。


「じゃあ伯父さんへの不信感は、あんたの母親の言葉で……?」

「たぶんね。深層心理で残ってたんじゃないかな」


 母親の言葉は最上にとって遺言のようなものだろう。それをずっと守ってきたのか……史狼は運転席に目をむけた。最上はフロントガラスを見つめている。その横顔はいつもと変わらない。軽く目を細め、唇は口角を上げている。人の好い刑事の表情だ。


 史狼はその腕に手をのばし、また引っこめた。最上に触れれば、その感情がわかるだろう。ずっと触れていれば、悲しみも怒りも吸収できるだろう。でもその感情は最上のものだ。自分が知り、奪ってはいけない気がした。苦しい、と史狼は思った。この苦しみは最上への同情だ。最上に触れてその感情が湧き上がれば、この苦しみは上書きされるかもしれない。でもそれではだめだと思った。この苦しみは史狼のものだ。なかったことにする方がずっと楽だが、それをしてはいけない気がした。


「好きだったんだな、母親のこと」

「そうだね……優しい母だったよ。ほとんど忘れかけてたけどね」

「思い出せて良かったな」

「ああ……良かったんだろうな。それがどんな記憶でも」

 ピースが見つからなかったんだ、と最上が言った。

「永遠に終わらないパズルをしてるような気分だった。探しても探しても最後のピースが見つからなくて……ずっと何かが欠けているような気がしてた」

「良かったじゃないか」

「ああ、良かった」


 正面を向いたまま、最上は相好をくずした。人の好い刑事のそれではない、たまに見せる素の表情だった。


「伯父さんに会いに行くのか?」

「そうだよ」

「母親の言葉の意味を確かめるために?」

「そうだ」

「それを俺がやるんだな?」

「察しがよくて助かるね」


 史狼は短く息を吐き、コーヒーを一気に飲み干した。


「元気になってよかったな」

「おかげさまでね」


 史狼はぱっと首を右にむけた。

 聞き間違いじゃないのか?

 最上は何食わぬ顔でハンドルを握っている。

 それなら次のサービスエリアでコーヒーでも奢ってもらうか、などと考えて、史狼は空の紙コップをドリンクホルダーに戻した。

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