4-3 丸裸にされるような気分だな
「……記憶を取り戻した?」
エスプレッソのカップを手渡すと、最上はひと息で空にした。二本目の煙草に火を点けて、「記憶を取り戻したからだ」と史狼を見上げて言った。
「あんた、記憶喪失だったのか?」
「いや。八歳のときの記憶だけだ。両親の事件の」
「両親の事件?」
「僕の両親は互いを刺して死んだんだ。僕が八歳のときだった。父が母を刺して、母が父を刺し返して……二人とも死んだ。そんな事件として扱われた」
「なっ…………でもあんた、昨日父親と電話して」
「父方の伯父だよ。僕は引き取られて養子になったんだ」
「ああ……それで」
他人行儀だったのか、と史狼は腑に落ちた。
「事件のショックで記憶喪失だった、ってことか? そりゃそうだよな……そんな」
「違うんだ。僕は自分で自分の記憶を封印した」
「……どういうことだ?」
「いや、正確には……母が、かな。母が言ったんだ。忘れなさいって。忘れてしまいなさいって……だから僕は忘れることにした」
「じゃあなんで思い出したんだ?」
白い陶器に煙草を押しつけ、最上は上目遣いでこっちを見た。
「史狼くん。僕がなんで刑事になったと思う?」
「は? 知るかよ……それと何の関係が」
「血まみれの現場が見たかったんだ」
「……はあっ?!」
「両親の遺体は血の海だったらしい。僕は母に抱きついて、ズボンもシャツも血まみれだったと……いるんだよね、そんなことを楽しそうに噂する人たちが。あの事件以来、僕は事件の記憶と自分の感情を失くした。感情はどうでもよかった。でも記憶は取り戻したくて、専門書を読み漁ったり、カウンセリングを受けたりしたよ。それでも全然だめで……高校生の頃ふと思ったんだ。もう一度同じ体験をしたらどうかって。同じ血まみれの現場に立ってみたら……記憶を取り戻せるんじゃないかってね」
「それで……刑事になったのか?」
「そうだ。正義感からじゃない。もっと手っ取り早く、暴力団やマフィアはどうかと考えたぐらいだ。殺人現場に遭遇する仕事ならなんでも良かった……まあでも、刑事になって良かったとは思ってたけど。仕事の目的も階級も明快だし、他人から感謝されるのも悪くなかった」
「あんた……それで、そんな現場に行ったのか?」
「ああ。昨日の夕方。練馬区の殺人事件だ。両親の事件とそっくりだった」
「それで記憶を取り戻した?」
「ああ」
「人殺しって……どういう意味だ?」
「そのままだよ」
最上は言葉を続けた。
母は父に刺されたけど、父を刺したのは母じゃない。
…………僕が父を殺したんだ。
「それは……正当防衛だろ?」
「僕もそう思ってたよ。記憶を失くしても、人を刺す感触はこの手が覚えていた。僕はもしかしたら、父を刺したのかもしれない。母を守るため? それとも自分を? でも僕はまだ八歳だった。どんな状況にしろ正当防衛だろうと……そう思ってた」
「……違うのか?」
三本目の煙草に火が点いた。
行儀が悪いとは思ったが、史狼はテーブルに座った。テーブルは背が低い。この位置からなら、最上の表情が目の前でよく見える。
「殺そうと思った」
最上の双眸がこっちを凝視している。史狼も目を離せなかった。瞳孔が大きいのは緊張のせいだろうか。薄茶の虹彩に朝陽があたり、ガラス玉のようだ。前にもそう思ったような気がする。あれはいつのことだったか。そういえば子どもの頃、こんな色のビー玉を持っていた。たしか叔父がくれたものだ。とりとめのない思考は、最上の声で中断された。
「あの日……公園から帰ったら、鼻をつくような匂いが家にこもっていた。父と母が言い争うような声も聞こえてきた。僕は台所に走った。廊下からそっと覗いてみたら、母が倒れていた。腹に包丁が刺さっているのが見えた。白いワンピースに赤い模様のように血が噴きだしていた。僕は父と目が合った。数メートル離れてても、酒の匂いがした。ずいぶん飲んだようだった。床にもテーブルにも空き瓶が転がっていた。父は母の腹から包丁を引きぬいて、僕のほうへ歩きだした。僕はシンク下の戸棚に走った。三徳包丁以外にも、そこにはペティナイフや出刃包丁も入ってたんだ。母は料理が好きだったからね。僕は出刃包丁を選んだ。父はだいぶ酔ってたから、よろけて手元も定まらない。僕は両手で思いきり、父の腹めがけて包丁をねじこんだ」
最上は煙草をくわえ、煙を吐きだした。
「……正当防衛だろ?」
「違うんだ」
煙草が灰皿に押しつけられる。執拗なまでに最上は動作を繰りかえした。白い灰皿のなかで吸い殻が黒い骸のようになる。
「あの日、僕は殺されると思った。外に逃げれば助かるかもしれない。父は警察に捕まるだろう。でもその後は? 牢屋から出てきたら、また僕を殺しに来るかもしれない。だったら……いま殺しておこう。そう思ったんだ。この状況ならきっと誰も疑わない。僕はあの場でそう判断した」
沈黙する史狼に、最上が笑みをむけた。
「引くだろ? だから出ていけって」
「……あんたの父親は……なんで?」
「母の浮気を疑ってたみたいだね。僕が浮気相手の子じゃないかって、あの日喚いてたから。いわゆる痴情のもつれってやつだ。よくある事件だよ」
他人事のように言い、最上はテーブルに視線をむけた。包丁が置いてある。史狼は隠すように、包丁を自分の後ろに移動させた。
「それで……その記憶と一緒に、感情も取り戻したのか?」
「ああ、そうだ。要らなかったけどね」
最上はずるずると腰をずらし、ソファのアームに頭をのせた。あおむけに寝て目を閉じる。
「もういいだろ、出ていってくれ。僕は休みたい」
「俺を監視するんだろ?」
「もういいよ。きみは限りなくシロに近いグレーだ。たぶんシロなんだろう。もうそれでいい」
「なんだそれ。大体なんで俺を疑って……」
何気なく、目の前で垂れる腕をつかんだ。
瞬間、どっと血が煮えたぎる。
史狼は腕を放った。最上の腕がまたソファの横に垂れた。
「あんた……ヤバいだろ、それ」
「だから要らなかったんだ、感情なんて……どうだ? 史狼くん。なにが見える?」
「血まみれの……」
「母が? それとも父かな? それから?」
「苦しい……怒りか、それとも後悔か……よく分からない。殺したい……いや、死にたい……?」
「丸裸にされるような気分だな」
「感情の全部がわかるわけじゃない。次々に変わっていくし、混ざり合って分からないことも多いし……でも今のあんたの感情は……キツい」
最上は薄目を開けて、笑みをうかべた。心の内の狂気など、微塵も感じさせない穏やかな顔である、
「笑うなよ」
「なんだよ。文句の多い奴だな」
「無理して笑うな。死にそうなくせに」
「……いいよ。死んだら喜ばれるだろ」
「なに言ってんだ?!」
呆れて叫ぶと、最上にじっと見つめられた。
「……シロかな」
「はあ? なんだって?!」
「怒鳴るなよ、頭に響く」
最上は目をつむり、腹の上で軽く両手を組んだ。
「…………仕方ないな」
「なにが」
「助けてやるよ、最上」
最上の組んだ右手を外して、ソファの上に置かせた。
その手首をつかむ。
ちらと横目が史狼にむけられた。
「無理するな。眉間にしわが寄ってるぞ」
「黙って寝てろよ」
最上は唇の端を上げ、また目をつむった。
もう抵抗は諦めたようだ。
テーブルの上のリモコンを取り、史狼はテレビを点けた。あと一週間ほどで梅雨が明けると、アナウンサーが明るい声で喋っている。思わず笑みが漏れた。画面のなかの平和な世界と、最上の狂気のような世界とが、この部屋に同居している。なんてシュールな景色だろう。
最上の感情は…………キツい。
いっそ掃き出し窓を開けて、バルコニーから飛び降りてしまいたい。史狼は首をふり、お経のように唱えはじめた。
「ナマステ、おはよう。ダンネバード、ありがとう……」
最近、バラルにネパール語を教わっているのだ。
目の前でふっと息がこぼれる。
「……きみは案外、図太いな」
「だから安心して寝てろよ」
湧き上がる感情は獣のようだ。内臓を食い潰すように暴れている。そんな真っ暗な嵐のなかに仄明るい影を感じた。なんでだ? 史狼は男の横顔をながめた。
なんで俺はこいつを助けようとしてるんだ? こいつに助けられたから? でもあれは元々、こいつが俺を利用したからじゃないか。だったら貸し借りはゼロのはずだ。最上の眉尻で、筋肉が吊るように動く。苦しい。なんでこんな思いを味わってまで、俺はこんなことしてるんだ? 出ていけなんて好都合じゃないか。こんなサイコパスとは、とっとと離れればいい。
史狼は最上の横顔をながめた。
両親が殺されたと、父親を殺したと、怒りと後悔に苦しむこいつは……ほんとうにサイコパスなのか? もし違うなら、どうしてそんなことを? こいつは俺をシロだと言った。だったら一色のことは? 最上は…………なにを考えてるんだろうか。
テレビのニュースをBGMに、史狼は単語を口ずさむ。
右手の手背はテーブルの上に。
左手は筋張った手首をつかんだままで。
朝を迎えた世界から、自分たちだけ隔離されているようだ。
この明るい部屋は夜に取り残されている。




