4-2 パズルのピース
手元の書類に影が落ちる。
最上は調書を繰る手を止めて、首をまわした。
「管理官、どうしました?」
「練馬区で殺人事件だ。若い夫婦がともに自宅で刺殺された…………どうだ、おまえ行きたいんじゃないか? 手が空かなければ、他の班に振っていもいいが」
「行きます」
書類を置いて、席を立つ。隣で兼森も上着をつかんだ。
石田は二人に背をむけて……思い直したように振りかえった。
「……おい、大丈夫だろうな?」
「大丈夫ですよ」
有無を言わせる間もなく、最上はにっこりと笑みを作る。デスクから車の鍵を取り、スーツの上着をはおった。
◆
無線を聞き終えて、兼森は顔をこっちに向けた。
「あの……」
「なんだい?」
「さっきの、どういう意味ですか? 管理官が大丈夫かって」
「ああ、あれはね……」
黒のセダンのハンドルを握りながら、最上は数秒、頭をめぐらせる。さて、この忠実な部下にどこまで話したものだろうか。横目でちらと助手席を見る。がっしりとした体つきに、引き締まった口元。しかしその目は意外なほどに穏やかだ。大型犬――といっても、シェパードやドーベルマンの類ではない。ゴールデンレトリバーのような男である。肌も焼けてるしな、と思い、最上はそっと笑った。
「……僕の実の両親は亡くなったって、以前話しただろう? 事件に遭ったんだ。この事件と同じように二人とも刺殺されてね。僕が第一発見者だった」
「えっ?! ……そうだったんすか。すいません、全然知らなくて」
「いいよ。あまり人には話してないから。それで警察官になりたての頃は、刺殺のご遺体を見て気分が悪くなったりしてね……それじゃあ刑事は勤まらないだろう? だから管理官には、似たような事件が起きたら出来るだけ現場にまわしてくれ、って頼んでるんだ」
「そんな……めちゃめちゃスパルタじゃないっすか」
「はは、荒療治っていうだろ?」
そう、荒療治である。嘘ではない――少なくともその点に関して言えば。兼森と石田への説明には、本当のことも交ぜている――嘘をつくときの定石だ。
実の両親が死んだ。本当だ。
僕が第一発見者である。本当だ。
石田さんに現場にまわしてくれと頼んだ。本当だ。
刺殺のご遺体を見て気分が悪くなる。嘘だ。
僕が殺人事件の現場を見たい理由は……。
「主任、あそこっすか? あの角の住宅の」
「……ああ、そうだな」
兼森の声に、現実へと引き戻される。最上はすっと唇をなぞった。無性に煙草が吸いたい。仕事中はめったに吸わないし、たまに吸うときも加熱式タバコである。だけど今は自分の家に置いてある、あの紙巻き煙草がほしかった。煙の代わりに息を吐き、最上はハンドルをまわした。
この現場で、パズルのピースは見つかるだろうか。
◆
史狼はあくびを一つして、玄関の鍵を開けた。三和土には黒の革靴がある。ということは、最上は帰っているのだろう。
「ただいま、最上さん」
いつの間にか、この挨拶が日常の一部となっている。「おかえり」と言ってくれる相手がいるのは悪くない。そんな自分が気恥ずかしくて、わざと不機嫌な声を出してしまう。史狼は首をかしげた。今朝はめずらしく、返事が返ってこない。人の気配はするのだが……居間の入口で、史狼は足を止めた。
「……なにやってんだ?」
最上がグレーのソファに座っている。いや、横たわっているというべきか。アーム部分に腰をあずけ、足をのばしている。ベッドにもなるそれは、普段は史狼が占拠している。最上の定位置のソファを見ると、黒い背もたれに、乱雑にスーツの上着がかけられている。テーブルには、ネクタイがくしゃりと丸まっている。そして最上は……物憂げに右手の指先をながめていた。
「あんた……なにやってんだよ」
「……ああ、おかえり、史狼くん」
「危ないだろ」
最上の右手には包丁が握られている。台所にある調理用のものだ。最上にも史狼にも使われず、ほとんどオブジェと化しているそれを、最上はぶらぶらと揺らしている。じっと刃先をながめる。また揺らす。目の前で、その動作が繰りかえされた。
「おい、やめろって」
「史狼くん。もう出ていっていいよ」
「は? ……なんだって?」
「いただろう? バラルさんだったかな? 同居できるっていう友だちが。彼のアパートに居候させてもらったらどうだい?」
「……なんだよ、いきなり」
史狼は息を呑んだ。
包丁の切っ先が自分に向けられている。
最上の薄茶の目が据わっている。
史狼は時間をかけて唾を飲みこんだ。
「人殺しと同居は嫌だろう?」
一歩、足を踏みだした。
包丁が真上に投げられて、ひゅっと空気を裂いて最上の手中におさまる。
「おい! 危ないだろ?! 怪我するぞ‼」
「危ないね……だから、出ていけって言ってるだろ?」
「人殺しなんて……今さらなに言ってんだ? あの公園でもあんた、仄めかしてたじゃないか。人を刺したとかなんとか」
「……まあね」
「どうしたんだ? サイコパスだろ、あんた。今さら殊勝に反省してるってか? だったら通報してやるけど」
「……捕まる気はないよ」
億劫そうに口を開き、最上はまた包丁を揺らした。
史狼はその手をつかんで…………弾くように放した。
「あんたっ……なんで」
「なにが」
最上が横目で見上げてくる。いつもの余裕ぶった視線とは違い、心底面倒そうな目つきである。自分を奮い立たせるために息を吸う。吐きだした。史狼は最上の手をつかんだ。
ぐら、と世界が反転しそうになる。
心に湧き上がる情景は、
赤い。
赤い。
赤い…………鮮血?
内臓がぐちゃぐちゃに裏返されそうだ。
「なにがあった?」
「なにも」
「あんた……死にたいのか?」
「…………さあね」
切っ先が史狼の喉にあたる。
息を吐くと、尖った刃が食いこんでくる。
「一人殺すのも二人殺すのも一緒だと……そんな供述を聞く度に、反吐が出そうだったけど……なるほどね。確かに分からなくもないな」
「止めろよ」
史狼は包丁の刃を握りしめた。
手のひらがむず痒く、少し遅れて、じわじわと痛みが増していく。
「血が出てるよ、史狼くん」
「だから止めろって。人に向けるもんじゃないだろ」
手首をつたい、ぽたり、ぽたりと、赤い粒が落ちていく。
その粒を、最上はぼんやりと目で追った。
ふっと力がゆるみ、抵抗がなくなる。
左手で最上の手首をつかみ、右手を滑らせて柄を握り、史狼は包丁を抜き取った。
上体をひねって、背後のテーブルに置く。
鈍色の刃に点々と赤い跡がついていた。
「……ばかだな、史狼くん。なにやってるんだ」
「それはこっちのセリフだ」
最上がのろのろと起き上がり、壁際の棚に歩いていく。ライターが鳴る。煙草をくわえ、灰皿を手に戻ってくる。またソファに足を投げだして、静かに煙を吐いた。
「……忘れてた。昼間、煙草を吸いたかったんだ」
誰に聞かせるでもなく言って、最上は満足げに目を細めた。
一本吸い終わるのを待ち、史狼は口を開いた。
「いつからなんだ?」
「なにが」
「いつから……あんた、感情があるんだ?」
最上は煙草の箱をつかんで、しばらく手を止めた。それからぽつりと、「コーヒーが飲みたい」とつぶやいた。




