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4-1 電話、鳴ってましたよ

 梅雨明けを待ちわびながら、隅田川は鈍色の空を映している。七月も半ばとなり、夏の匂いが立ち始めても、まだ雨の季節が終わる気配はない。

 テーブルの上でスマホが鳴りはじめる。最上のものだ。史狼は廊下に目をむけた。シャワーの水音が聞こえている。ちらと視線をむけると、【父】と表示されていた。数十秒の後、音は止んだ。


「電話、鳴ってましたよ」

 最上は目でうなずいて、寝室に消えた。ネクタイを締め、上着を手に戻り、テーブルにかがみこんだ。

「……父さん、すみません。シャワーを浴びていたもので」


 スマホを耳に当てながら、最上が横目でこっちを見た。史狼の様子を窺うような目つきである。最上の意図が分からず、史狼はぱちぱちと瞬きをした。どこか呆れたように目を細め、最上は彼に背をむけた。


 窓の開く音がする。

 いつの間にか、霧雨が朝の街を包んでいる。


 史狼はカップを持ち上げた。絹のような泡を口に含む。イタリア語でクレマと呼ぶらしい。ほのかに甘く舌の上で溶けていった。


「旅行ですか、いいですね。バリ島は乾季だから過ごしやすいでしょう」

 最上は窓際にもたれ、ライターを鳴らした。湿った空気に煙の匂いが混ざりあう。

「ええ、そうなんです。仕事でなかなか……はい、またお盆か年末にでも。母さんにもよろしく伝えてください。ありがとうございます、父さんも元気で。はい、じゃあ」


 通話を終えた後も、最上はぼんやりと画面を眺めている。


「お父様ですか?」

「……ああ。そうだ」

「地元に住んでるんですか?」

「そう、仙台の市内に」

「お母様も?」

「そうだよ」

「あまり仲が良くないんですか?」

 最上は口をつぐんだ。探るような目で見つめられる。

「…………なんでそう思う?」

「身内も裏切ることがあるって。前に言ってたじゃないですか」

「ああ……そのこと」

 煙草を灰皿に押しつけて、最上は窓を閉めた。

「ただの一般論だよ」


 冷めた声だった。ソファにかけた上着をはおり、最上は鞄を持ち上げた。


「もう行くんですか? コーヒーは?」

「今日はいい。途中で買う」

「お盆は帰省するんですか?」

「しないよ。きみは?」

「しません」

「気が合うね」


 同情するように笑い、最上は玄関に消えた。



 午後二時にスマホのアラームが鳴る。チノパンに履き替えて、財布を尻ポケットに入れた。今日は最上に買い出しを頼まれている。台所の洗剤が切れたので、「ドラッグストアに行く」と言うと、ついでにあれもこれもと増えたのだ。いつも日用品はネットで買っているらしい。「重かったらネットで頼めば」と言われたが、別に構わないと断わった。仕事で重いものは持ち慣れているし、歩くのは気分転換になるので苦にはならない。


 橋むこうのドラッグストアで、洗剤やハンドソープの詰め替え用、他にもいろいろ買いこんで、史狼は袋を提げて歩いていた。


 マンションと道路を挟んだ向かい側には、小さな公園がある。この時間は親子連れの姿をよく見かける。近くに幼稚園があるので、その帰りの子どもたちだろう。史狼は川沿いのベンチに目を凝らした。ひと月半前の夜にあのベンチで、最上に脅迫まがいの取り引きを持ちかけられた。そして今――その最上にカードを渡され、両手に大きな買い物袋が二つ――史狼は苦笑いした。こんな平穏な毎日がずっと続くのだろうか。いや、と史狼は首をふる。一色は最上のマンションに越してきて、史狼と最上を引き離そうとした。最上は以前、新たな事件を仄めかしていた。今は台風の目にいるようなものだろう。平和な光景を焼きつけるかのように、史狼は公園を見まわした。


 すべり台の横で、若い母親たちが集まっている。会話に夢中になっているようだ。そのまわりでは、幼い子どもたちが駆けまわっている。五、六歳ぐらいの女の子が、ずさ、と尻餅をついた。ふえぇ……とか細い声が聞こえてくる。母親たちはまだ気づいていない。史狼はふさがった両手を見下ろした。どうしようかと迷っていると、女の子の背後から手が差しのべられた。


 史狼はぎゅっと眉根を寄せた。

 女の子の目線に合わせて、一色がしゃがみこんでいる。黒と白の水玉模様のスカートを、笑いながら手ではたいていた。女の子は無邪気に笑っている。


「……へえ、マユカちゃんって言うんだ。かわいい名前だねえ」

「へへっ、おじちゃんは?」

「おじちゃんはねえ……」

「一色っ!」


 その場の全員が、一斉に史狼に目をむけた。母親たちが訝しむような顔をする。史狼は数秒考えこみ、はっと自分の前髪をつかんだ。一色ではなく、史狼のほうが不審者に見えているのだろう。前髪を上げてピンで留めた。母親たちの表情が和らぐように見えて、複雑な気持ちになる。


「突然すみません。久しぶりにお見かけしたので、つい」

「いえいえ、大上さん。お元気そうで良かったです」


 皮肉まじりの声に、史狼は薄笑いをうかべた。そういえば、この男を一発殴りたいと思っていたのだ……さすがにこの状況ではやらないが。


「一色さん、今日はお仕事は?」

「有給なんです。けっこう溜まってるんで適当に消化してまして。大上さんは? お休みですか?」

「俺は夜勤です」

「そうですか。お仕事はなにを?」

「物流関係です」

「へえ……てっきり、あなたも警察か何かかと思ってました。コナンくんやワトソン博士のつもりなのかと。ずいぶん捜査がお好きなようですから」

「一色さんこそ、警察官が好きなんですね。最上さんに引越しの挨拶までされて」

「はは、最上さんはつれないですけどねえ。宮川さんには振られましたし」


 こきっと首を鳴らし、一色は食い入るように史狼を見つめた。煽られているらしい。最上が一色を疑っていることも、宮川が史狼に味方したことも、知っていると言いたいのだろう。やっぱり、あの看護師の女は共犯で間違いなさそうだ。


「あれ? 一色さんは宮川さんが好きだったんですか?」


 わざと惚けてみると、すうっと目を細められた。

 史狼は構わず相手の肩をつかんだ。


「なんです? どうかしましたか?」

「虫がついてます」

「ああ……それはどうも」

「一色さん、なんであのマンションに引っ越されたんですか?」

「職場に近いからですよ。以前は吉祥寺に住んでたもんで、通勤が大変だったんです。たまたま空きを見つけてラッキーでした」

「そうですか……てっきり、最上さんが目当てなのかと思いました」

「嫌だなあ。それじゃあストーカーじゃないですか」

「ですよね。ストーカーじゃなくて良かったです」


 史狼は自嘲の笑みをもらした。


 じわりと湧き上がる感情は、自分に――そう、史狼に対する嫌悪感。

 お互い様だなと苦笑して、史狼は虫をはらう仕草をする。ふと視線を感じた。女の子が好奇心をむきだしにして、史狼と一色とを見上げている。思わず固まってしまった。この年頃の子どもとは、どう接してよいのか分からない。


 そんな彼を尻目に、一色はしゃがみこんだ。

 一色が笑うと、女の子もにかっと笑みをかえす。

 おさげの赤いリボンがゆれた。


「一色さん、慣れてますね。……子どもさんが好きなんですか?」

「ははっ……大好きです。無邪気で可愛らしいですから」

 意識するより早く手が動いていた。

 一色は背中を起こし、怪訝そうに史狼を見上げた。

「……どうしました? 今度は背中にも虫が?」

「……はい。もう飛んでいきました」


 史狼は手をうかせて、男の顔を見下ろした。人差し指でくいと、一色が眼鏡のブリッジを押し上げた。薄い唇が気だるげに動く。


「…………やっぱり、邪魔だなあ」

「え? なんて」

「お仕事がんばってください、って言ったんです」



 おもむろに立ち上がり、一色は白い歯を見せた。好青年の見本のような笑顔である。ひらひらと手まで振っている。もう行け、という意味だろう。誰にともなく会釈して、史狼は踵をかえした。ブランコの支柱にむかい、袋を二つ持ち上げた。


 二歩、三歩と進み、そっと背後を振りかえる。


 女の子と目が合った。一色は彼に背をむけて、母親の一人と立ち話している。史狼はおずおずと手を上げ、そっと左右にゆらしてみた。黒い目を大きくして、女の子がぶんぶんと手を振りかえしてくる。史狼は自然と頬がゆるみ、ぴたと手を止めた。子どもは苦手なはずなのに……他人と関われば関わるほど、知らない自分を見つけてしまう。


 バラルが笑うと安心する。まどかや店長たちとは、またいつか会いたい。一色に一方的にやられるのはムカつく。最上の挑発にはつい乗ってしまう――たぶん、負けず嫌いなのだ。捜査に協力するのも悪い気はしない。それから……子どもが手を振ってくれると嬉しい。

 いいのか悪いのか分からない。他人と関わらなければ、感情がゆれ動くこともない。その方がずっと楽なのに……史狼はぎこちなく手を下ろした。女の子と母親にお辞儀をして、背中をむけて歩きだす。


 風が吹いて桜の葉をゆらした。袋を下ろし、後頭部からピンを外す。前髪が風にあおられて額にまとわりつく。史狼は無意識にその髪をかき上げた。



「最近、顔色いいねえ」

 アイスのカフェオレを飲みながら、バラルがにっと笑った。先週まではホットを飲んでいたが、さすがに暑くなったらしい。鼻の頭には汗が滲んでいる。このベンチは休憩室の端にあり、エアコンの効きが悪い。史狼もTシャツをつかみ、ぱたぱたと首元をあおいだ。

「ああ、あんま……忙しくないから」


 一週間前の夜以来、容疑者とは面会していない。史狼はいいと言ったが、最上が承知しなかった。「また正気を失われたら面倒だ」とそっけなく返されて、話はそのまま終わってしまった。


「バラル、夏はどうするんだ? 帰国するのか?」

「まさかあ! 夏休みは週五で八時間も働けるんだよ! 稼がなきゃ! 兄貴は地元に帰るの?」

「いや、帰らない」

「そっかあ、仙台だっけ? 東北って遠いもんねえ」

「や、おまえの方が遠いだろ……年末は帰れたらいいな」

「うん! 年末は帰るよ! 楽しみだなあ、みんなに会えるの。兄さんと、弟と妹と、父さん、母さん、叔父さんに……」


 ほくほくと笑うバラルに、史狼も笑みをこぼした。いっそ仙台とネパールの位置を交換できたらいいのにと思う。もし【地元にタダで帰れる券】なんてものがくじで当たれば、真っ先にバラルに譲ってやりたい。氷の溶けたカフェオレを見つめ、史狼は今朝の会話を思い出した。そういえば、最上も家族の話をしない。両親と……兄弟や姉妹はいるのだろうか。あの電話は、ずいぶんと他人行儀に聞こえたのだが。


 ……まあ、俺には関係ないか。


 史狼は軽く首をふり、薄くなったカフェオレを飲み干した。

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