3-9 人殺しよりましでしょ?
史狼は薄くまぶたを開いた。居間の白い天井が目に入る。くぐもった水の音が聞こえている。気づけばもう七月の上旬、梅雨の長雨が続いている。
全身に湿気が滲みこんだように重怠い。この十日間で、六人の容疑者たちと面会をした。二人をのぞき、全員が取り調べで自供したそうだ。二人――男と女だった――は、感情の起伏にとぼしかった。最上が事件の概略を語っても、心は凪のようで荒立たない。飛び降り事件の女子生徒と同じである。史狼が吸収するほどの怒りや悲しみがないのだ。すべてを覚悟している人間は、感情ではなく思考の占める割合が大きいのかもしれない。それなら……最上もある意味、そういう人間なのだろうか。それが極端であるというだけで。
テーブルの上でスマホが鳴った。
【15:30】
メッセージはそれだけだ。
史狼はスマホを置き、ソファにうつ伏せた。容疑者たちの多くは、尋常ではない感情を抱えている。当然といえば当然だ。他人を殺害するなど、通常の事態ではないのだから。一色のような感情を、繰りかえし吸収するのだ。気をしっかり保っていないと、自分まで取り込まれそうだった。史狼は長いため息を吐く。疲れた。もう行きたくない。だけど不思議と、逃げだしたいとは思わなかった。少なくとも、容疑者たちは罪を自供しているのだから。正義感が強い? 刑事にむいてる? 史狼は眉を動かした。
…………ひょっとすると、ひょっとするのか?
いや、最上のサブリミナル効果のようなものだろう。史狼は息を吸い、がば、と起き上がった。
今日はどんな感情を知ることになるのだろうか。
◆
容疑者は四十代の男だった。目立たない容貌の真面目そうな中年である。史狼はアクリル板に手をふれた。ひやりと冷たい。男は嫌がる様子もなく、通声穴に手をあてた。
面会室に、最上の声が響く。
男はしょぼしょぼと目を瞬かせている。
15分の面会時間の間、史狼は一度も口を開かなかった。
留置場を出ると、最上が尋ねてきた。
「どうした? 今日はずいぶん静かじゃないか」
「床下を探してください」
「なに?」
「あいつの家の床下を探してください」
「…………埋まってるのか?」
「……一人じゃない。子どもも赤ん坊も……何人もいます」
「…………分かった。すぐに令状を請求する」
史狼の顔をのぞきこみ、最上は眉をひそめた。
「大丈夫か? 真っ青だよ」
「はい……もう帰っていいですか?」
「ああ、気をつけてな」
薄笑いを返し、史狼は早足でエレベーターに乗りこんだ。
◆
玄関の扉を開けた。慣れた手つきで壁を探ると、周囲がぱっと明るくなる。三和土の黒いスニーカーに気づき、最上は軽く眉を上げた。史狼はいつもこの靴しか履かないはずだ。
「史狼くん? 今夜は仕事じゃないのか?」
居間は薄暗い。白いカーテンは窓の両側で留められたままだ。窓ガラスに雨粒が垂れ、対岸のビル群の明かりが滲んでいる。
ソファに人影を見つけ、最上は電気を点けた。
無機質な光のなかに、史狼が浮かび上がる。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
返事はない。ソファに体育座りになって、史狼はじっとうずくまっていた――まるで手負いの動物のように。
その顔に影ができる。最上は腰をかがめ、史狼の長い前髪をかき上げた。
「大丈夫か?」
「……ないで」
「なんだ?」
「……近寄らないでください」
聞こえない素振りで、最上は額に手をあてた。
「すごい汗じゃないか。熱は……ないみたいだね」
「そういうんじゃないです。ただの……冷や汗なんで」
視線を下げると、黒いTシャツが目に留まった。
「おい、ずぶ濡れじゃないか。なんだ? 雨に濡れたのか?」
「いえ」
「……着替えなさい。風邪をひくよ」
「もういいんで……ほっといてください」
史狼の指先がデニムの膝頭に食いこんでいる。こわばった指を、最上は一本ずつ引きはがした。デニムの生地が破れ、史狼の皮膚と爪が赤く染まっている。
「……あの被疑者のせいか?」
「…………」
「気分が悪いなら病院に」
「っさいなあ‼ ほっとけっつってんだろうが‼」
獣のような咆哮に、最上は不意をつかれて動きを止めた。
史狼が両手をのばす。がくがくと肩を揺さぶられる。
「殺したいんです!」
「史狼くん」
「あれからずっと……殺したいんです!」
「史狼くん、しっかりしろ」
両の手首をつかんで、上方につかみ上げる。
史狼は荒い息を吐き、ふっと視線をそらした。
「…………あいつは? どうなりました?」
「自供した。遺体が見つかったのが決め手だった。もう逃げられないと思ったんだろ」
「……よかった。あいつ一生、刑務所にぶち込んどかないとだめですよ。外に出たら……またやりますよ。こんな衝動……絶対、抑えられるわけがない……殺したいんです……もうどうしても……殺りたくて堪らないんですから」
「証拠は十分にある。必ず刑は確定するよ」
「……ならいいです」
史狼は電池が切れたように項垂れた。最上は両手を解放してやり、その顔をのぞきこんだ。
「史狼くん。まずは着替えてそれから横に……」
思いきり突き飛ばされる。最上は軽くよろけたが、脚に力を入れて踏みとどまった。
「近寄らないでください! 頼むから……大丈夫なんで。おさまるまで家から出ないんで……誰も……殺さないんで」
スーツの上着を手ではらい、最上は目を細くした。
「おさまる前に、きみの気が狂うんじゃないか?」
「……人殺しよりましでしょ?」
前髪に隠れた目が薄笑いをうかべている。この期に及んで僕に当てこするのか、と最上は半ば感心して、同居人を見下ろした。そのまま史狼をソファに残し、寝室に入った。
上着とネクタイをハンガーにかける。机の引き出しを開け、小袋を手に取る。錠剤を二つ掴んで、居間に戻った。
「口を開けなさい」
史狼のあごをつかみ、最上は口腔に指を二本突っこんだ。
噛みちぎられる寸前で、指を引っこめる。
睨みつける史狼を睨みかえし、最上はその口を手でおおった。抗議のうなり声は無視して、じっと喉を見つめる。数十秒の後、史狼の喉が動いた。最上は手をはなし、シンクで唾液を洗い流した。
コーヒーを淹れて、煙草に火を点ける。一本、二本……換気扇が煙を吸いこんでいく。シンクにもたれて、最上は居間をうかがった。三本目をくわえた所で、史狼の頭が膝の間に沈みこむ。
最上は煙草を置いて、ソファにむかった。
脱力した史狼を抱えて、浴室まで運んだ。検視の要領で服を脱がせ、自分の物とまとめて洗濯機に放りこむ。浅く湯を張ったバスタブに、史狼を座らせる。最上はシャワーを浴びた。バスタブの栓を抜いてから、脱衣所にむかう。溺死でもされたら堪らない。Tシャツとスウェットパンツを身につけ、髪を乾かした。バスタオルを持って浴室に戻る。史狼の全身をふき、Tシャツを頭からかぶせた。最上にもオーバーサイズの物だから、部屋着代わりにはなるだろう。
ソファを一瞥して、自分の寝室と見比べる。
細いため息を吐いて、最上は片手で扉をスライドさせた。どさ、と史狼をベッドに転がす。キャスター付きの椅子を引き寄せ、ベッドの横に腰をおろした。サイドテーブルから煙草を取った。暗い寝室に蛍火のように球が浮かび、すぐに消える。電気を点けるのも面倒だった。煙がぼんやりと立ちのぼる。
史狼は小さなうめき声を漏らしている。どんな悪夢を見ているのだろうか。風呂に入ったばかりだというのに、額には汗が浮かんでいる。きりきりと擦れる音は歯ぎしりか。
煙草をくわえ、最上はベッドを見下ろした。
「……ばかだな、史狼くん」
このまま正気が戻らなければ、どうなるだろうか。病院に入院させて……そうすれば、厄介事が一つ片付くかもしれない。それもいいかな、と最上は思う。あとは一色さんを始末して、それからあの人を……そうすれば、全ての方がつくだろう。
そんな思いを巡らせながら、最上は史狼をながめていた。
なんで僕はここにいるのか、と最上は思う。
自分がここにいた所で、別にどうなるわけでもない。ベッドは譲ってやったのだから、もう寝室を出て、ソファベッドで寝ればいい。もう一本吸ったら出よう、と煙草を手にする。
ガラス製の灰皿には、吸い殻が一つだけだ。
吸い殻が二つに増えた。
三本目の煙草に火を点ける。
吸い殻が三つ。
四本目をくわえたとき、シャツの脇腹を引っぱられた。
「なんだ? 史狼くん」
史狼が無意識につかんでいるようだ。その手を丁寧にほどき、ふと、最上は筋の浮いた手首を見下ろした。
「……感情のない僕の【感情】を吸いこめば……きみはどうなるんだろうな?」
ライターの蓋を開け、ホイールを回転させる。蓋を閉めて火を消した。ゆっくりと煙を吐きだす。足を組んで、左手で史狼の手首をつかんだ。
この選択が、正しいのか間違っているのか、自分でも判断がつかなかった。
どちらにせよ、長い夜になりそうだ。
◆
史狼は薄くまぶたを開いた。見慣れた白い天井が目に入り……どこか違和感をおぼえた。その正体はすぐに分かった。ここは居間ではなく、最上の寝室なのだ。首を右にまわすと、最上が椅子に腰かけていた。灰皿は、吸い殻と灰のエベレストと化している。最上の肺は大丈夫なのだろうか。そんな要らぬ心配をするほど、部屋は煙くさかった。
最上は目をつむっている。位置をずらしたサイドテーブルに右肘をつき、左手は……史狼は目を疑った。最上の左手は、史狼の手首をつかんでいる。軽く揺らすとその手がはなれた。一体どれだけ握っていたのか、指の跡まで残っている。
「最上さん?」
わずかな身じろぎの後、最上は薄目を開けた。
「…………史狼くん」
「大丈夫ですか? なんでそんなとこで」
「……僕を殺したいか?」
「はっ? なんの話ですか?」
史狼に聞かせるかのように、長いため息を吐き、最上はおもむろに立ち上がった。
「……シャワーを浴びてくる」
「一晩中、椅子で寝てたんですか? 俺なんでここに……」
じろりと史狼をにらみ、最上は頭をふって出ていった。
ひとまず換気をしようと、寝室の掃き出し窓を開けた。朝陽を浴びる川面がきらめき、光が瞬いている。梅雨の晴れ間の青空である。風が吹きこみ、こもった煙をさらっていく。
肺いっぱいに息を吸いこんだ。
澄んだ空気に、頭のもやが晴れていく。
だんだんと昨夜の記憶がよみがえってきた。
この妙なからだの怠さは、睡眠薬か何かのせいだろう。史狼は右の手首を、目の高さに上げた。うっ血したような赤い跡。最上は一晩中つかんでいたようだ。
感情のないあの男にずっと触れてたら……どうなるんだ?
そんな疑問が頭に浮かんだ。もしかして、と史狼は思う。最上も同じ疑問が浮かび、彼の手首を掴んだのだろうか。昨夜の狂暴な殺意は、夢から醒めるように消えている。
「……見殺しにされるかと思ったけどな」
窓は開けたまま、バルコニーに背をむけた。
居間を横ぎり、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取りだした。廊下にシャワーの音が小さく響いている。
戻ってきたら礼を言うか。
史狼はグラスになみなみと麦茶を注いだ。
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今話で第三章が終わります(8話で収まりませんでした)。いつもご覧いただき、応援をありがとうございます。次章は仙台ドライブ編です。あっという間に年の瀬ですね。皆さま良い年末年始となりますように(^^)/




