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サイコとおおかみ -エリート刑事は殺人鬼?-  作者: 左京ゆり
第三章 暴走車 × 暴走者
25/50

3-9 人殺しよりましでしょ?

 史狼は薄くまぶたを開いた。居間の白い天井が目に入る。くぐもった水の音が聞こえている。気づけばもう七月の上旬、梅雨の長雨が続いている。


 全身に湿気が滲みこんだように重怠い。この十日間で、六人の容疑者たちと面会をした。二人をのぞき、全員が取り調べで自供したそうだ。二人――男と女だった――は、感情の起伏にとぼしかった。最上が事件の概略を語っても、心は凪のようで荒立たない。飛び降り事件の女子生徒と同じである。史狼が吸収するほどの怒りや悲しみがないのだ。すべてを覚悟している人間は、感情ではなく思考の占める割合が大きいのかもしれない。それなら……最上もある意味、そういう人間なのだろうか。それが極端であるというだけで。


 テーブルの上でスマホが鳴った。

 【15:30】

 メッセージはそれだけだ。


 史狼はスマホを置き、ソファにうつ伏せた。容疑者たちの多くは、尋常ではない感情を抱えている。当然といえば当然だ。他人を殺害するなど、通常の事態ではないのだから。一色のような感情を、繰りかえし吸収するのだ。気をしっかり保っていないと、自分まで取り込まれそうだった。史狼は長いため息を吐く。疲れた。もう行きたくない。だけど不思議と、逃げだしたいとは思わなかった。少なくとも、容疑者たちは罪を自供しているのだから。正義感が強い? 刑事にむいてる? 史狼は眉を動かした。


 …………ひょっとすると、ひょっとするのか?

 いや、最上のサブリミナル効果のようなものだろう。史狼は息を吸い、がば、と起き上がった。

 今日はどんな感情を知ることになるのだろうか。



 容疑者は四十代の男だった。目立たない容貌の真面目そうな中年である。史狼はアクリル板に手をふれた。ひやりと冷たい。男は嫌がる様子もなく、通声穴に手をあてた。

 面会室に、最上の声が響く。

 男はしょぼしょぼと目を瞬かせている。

 15分の面会時間の間、史狼は一度も口を開かなかった。




 留置場を出ると、最上が尋ねてきた。


「どうした? 今日はずいぶん静かじゃないか」

「床下を探してください」

「なに?」

「あいつの家の床下を探してください」

「…………埋まってるのか?」

「……一人じゃない。子どもも赤ん坊も……何人もいます」

「…………分かった。すぐに令状を請求する」

 史狼の顔をのぞきこみ、最上は眉をひそめた。

「大丈夫か? 真っ青だよ」

「はい……もう帰っていいですか?」

「ああ、気をつけてな」


 薄笑いを返し、史狼は早足でエレベーターに乗りこんだ。



 玄関の扉を開けた。慣れた手つきで壁を探ると、周囲がぱっと明るくなる。三和土たたきの黒いスニーカーに気づき、最上は軽く眉を上げた。史狼はいつもこの靴しか履かないはずだ。


「史狼くん? 今夜は仕事じゃないのか?」

 居間は薄暗い。白いカーテンは窓の両側で留められたままだ。窓ガラスに雨粒が垂れ、対岸のビル群の明かりが滲んでいる。

 ソファに人影を見つけ、最上は電気を点けた。

 無機質な光のなかに、史狼が浮かび上がる。

「どうした? 具合でも悪いのか?」


 返事はない。ソファに体育座りになって、史狼はじっとうずくまっていた――まるで手負いの動物のように。

 その顔に影ができる。最上は腰をかがめ、史狼の長い前髪をかき上げた。


「大丈夫か?」

「……ないで」

「なんだ?」

「……近寄らないでください」

 聞こえない素振りで、最上は額に手をあてた。

「すごい汗じゃないか。熱は……ないみたいだね」

「そういうんじゃないです。ただの……冷や汗なんで」

 視線を下げると、黒いTシャツが目に留まった。

「おい、ずぶ濡れじゃないか。なんだ? 雨に濡れたのか?」

「いえ」

「……着替えなさい。風邪をひくよ」

「もういいんで……ほっといてください」


 史狼の指先がデニムの膝頭に食いこんでいる。こわばった指を、最上は一本ずつ引きはがした。デニムの生地が破れ、史狼の皮膚と爪が赤く染まっている。


「……あの被疑者のせいか?」

「…………」

「気分が悪いなら病院に」

「っさいなあ‼ ほっとけっつってんだろうが‼」


 獣のような咆哮に、最上は不意をつかれて動きを止めた。

 史狼が両手をのばす。がくがくと肩を揺さぶられる。


「殺したいんです!」

「史狼くん」

「あれからずっと……殺したいんです!」

「史狼くん、しっかりしろ」


 両の手首をつかんで、上方につかみ上げる。

 史狼は荒い息を吐き、ふっと視線をそらした。


「…………あいつは? どうなりました?」

「自供した。遺体が見つかったのが決め手だった。もう逃げられないと思ったんだろ」

「……よかった。あいつ一生、刑務所にぶち込んどかないとだめですよ。外に出たら……またやりますよ。こんな衝動……絶対、抑えられるわけがない……殺したいんです……もうどうしても……殺りたくて堪らないんですから」

「証拠は十分にある。必ず刑は確定するよ」

「……ならいいです」


 史狼は電池が切れたように項垂れた。最上は両手を解放してやり、その顔をのぞきこんだ。


「史狼くん。まずは着替えてそれから横に……」

 思いきり突き飛ばされる。最上は軽くよろけたが、脚に力を入れて踏みとどまった。

「近寄らないでください! 頼むから……大丈夫なんで。おさまるまで家から出ないんで……誰も……殺さないんで」

 スーツの上着を手ではらい、最上は目を細くした。

「おさまる前に、きみの気が狂うんじゃないか?」

「……人殺しよりましでしょ?」


 前髪に隠れた目が薄笑いをうかべている。この期に及んで僕に当てこするのか、と最上は半ば感心して、同居人を見下ろした。そのまま史狼をソファに残し、寝室に入った。

 上着とネクタイをハンガーにかける。机の引き出しを開け、小袋を手に取る。錠剤を二つ掴んで、居間に戻った。


「口を開けなさい」


 史狼のあごをつかみ、最上は口腔に指を二本突っこんだ。

 噛みちぎられる寸前で、指を引っこめる。

 睨みつける史狼を睨みかえし、最上はその口を手でおおった。抗議のうなり声は無視して、じっと喉を見つめる。数十秒の後、史狼の喉が動いた。最上は手をはなし、シンクで唾液を洗い流した。

 コーヒーを淹れて、煙草に火を点ける。一本、二本……換気扇が煙を吸いこんでいく。シンクにもたれて、最上は居間をうかがった。三本目をくわえた所で、史狼の頭が膝の間に沈みこむ。


 最上は煙草を置いて、ソファにむかった。




 脱力した史狼を抱えて、浴室まで運んだ。検視の要領で服を脱がせ、自分の物とまとめて洗濯機に放りこむ。浅く湯を張ったバスタブに、史狼を座らせる。最上はシャワーを浴びた。バスタブの栓を抜いてから、脱衣所にむかう。溺死でもされたら堪らない。Tシャツとスウェットパンツを身につけ、髪を乾かした。バスタオルを持って浴室に戻る。史狼の全身をふき、Tシャツを頭からかぶせた。最上にもオーバーサイズの物だから、部屋着代わりにはなるだろう。


 ソファを一瞥して、自分の寝室と見比べる。


 細いため息を吐いて、最上は片手で扉をスライドさせた。どさ、と史狼をベッドに転がす。キャスター付きの椅子を引き寄せ、ベッドの横に腰をおろした。サイドテーブルから煙草を取った。暗い寝室に蛍火のように球が浮かび、すぐに消える。電気を点けるのも面倒だった。煙がぼんやりと立ちのぼる。

 史狼は小さなうめき声を漏らしている。どんな悪夢を見ているのだろうか。風呂に入ったばかりだというのに、額には汗が浮かんでいる。きりきりと擦れる音は歯ぎしりか。


 煙草をくわえ、最上はベッドを見下ろした。


「……ばかだな、史狼くん」


 このまま正気が戻らなければ、どうなるだろうか。病院に入院させて……そうすれば、厄介事が一つ片付くかもしれない。それもいいかな、と最上は思う。あとは一色さんを始末して、それからあの人を……そうすれば、全ての方がつくだろう。

 そんな思いを巡らせながら、最上は史狼をながめていた。

 なんで僕はここにいるのか、と最上は思う。

 自分がここにいた所で、別にどうなるわけでもない。ベッドは譲ってやったのだから、もう寝室を出て、ソファベッドで寝ればいい。もう一本吸ったら出よう、と煙草を手にする。


 ガラス製の灰皿には、吸い殻が一つだけだ。

 吸い殻が二つに増えた。

 三本目の煙草に火を点ける。

 吸い殻が三つ。

 四本目をくわえたとき、シャツの脇腹を引っぱられた。


「なんだ? 史狼くん」


 史狼が無意識につかんでいるようだ。その手を丁寧にほどき、ふと、最上は筋の浮いた手首を見下ろした。


「……感情のない僕の【感情】を吸いこめば……きみはどうなるんだろうな?」

 ライターの蓋を開け、ホイールを回転させる。蓋を閉めて火を消した。ゆっくりと煙を吐きだす。足を組んで、左手で史狼の手首をつかんだ。

 この選択が、正しいのか間違っているのか、自分でも判断がつかなかった。

 どちらにせよ、長い夜になりそうだ。



 史狼は薄くまぶたを開いた。見慣れた白い天井が目に入り……どこか違和感をおぼえた。その正体はすぐに分かった。ここは居間ではなく、最上の寝室なのだ。首を右にまわすと、最上が椅子に腰かけていた。灰皿は、吸い殻と灰のエベレストと化している。最上の肺は大丈夫なのだろうか。そんな要らぬ心配をするほど、部屋は煙くさかった。


 最上は目をつむっている。位置をずらしたサイドテーブルに右肘をつき、左手は……史狼は目を疑った。最上の左手は、史狼の手首をつかんでいる。軽く揺らすとその手がはなれた。一体どれだけ握っていたのか、指の跡まで残っている。


「最上さん?」

 わずかな身じろぎの後、最上は薄目を開けた。

「…………史狼くん」

「大丈夫ですか? なんでそんなとこで」

「……僕を殺したいか?」

「はっ? なんの話ですか?」

 史狼に聞かせるかのように、長いため息を吐き、最上はおもむろに立ち上がった。

「……シャワーを浴びてくる」

「一晩中、椅子で寝てたんですか? 俺なんでここに……」

 じろりと史狼をにらみ、最上は頭をふって出ていった。




 ひとまず換気をしようと、寝室の掃き出し窓を開けた。朝陽を浴びる川面がきらめき、光が瞬いている。梅雨の晴れ間の青空である。風が吹きこみ、こもった煙をさらっていく。


 肺いっぱいに息を吸いこんだ。

 澄んだ空気に、頭のもやが晴れていく。

 だんだんと昨夜の記憶がよみがえってきた。


 この妙なからだの怠さは、睡眠薬か何かのせいだろう。史狼は右の手首を、目の高さに上げた。うっ血したような赤い跡。最上は一晩中つかんでいたようだ。

 感情のないあの男にずっと触れてたら……どうなるんだ?

 そんな疑問が頭に浮かんだ。もしかして、と史狼は思う。最上も同じ疑問が浮かび、彼の手首を掴んだのだろうか。昨夜の狂暴な殺意は、夢から醒めるように消えている。


「……見殺しにされるかと思ったけどな」

 窓は開けたまま、バルコニーに背をむけた。


 居間を横ぎり、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取りだした。廊下にシャワーの音が小さく響いている。

 戻ってきたら礼を言うか。

 史狼はグラスになみなみと麦茶を注いだ。

■読者の方へ■

今話で第三章が終わります(8話で収まりませんでした)。いつもご覧いただき、応援をありがとうございます。次章は仙台ドライブ編です。あっという間に年の瀬ですね。皆さま良い年末年始となりますように(^^)/

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