3-8 わたしの罪は重くて
留置場の面会室は六畳程度の広さである。史狼の目の前に、アクリル板を隔てて容疑者が座っている。六十歳前後の、がっちりとした初老の男だ。背後には二人の男が立っている。一人は留置担当官の若い刑事で、もう一人はときおりコツ、コツ、と足音を立てている男――最上だった。
史狼はアクリル板の通声穴に手をあてた。
「なあ、刑事さん。なーんで俺が、こいつに手を当てなきゃならないんだ? え?」
コツ……と足音が近づき、史狼の背後で止まった。低い柔らかな声が部屋に響く。
「先に申し上げたとおりです。彼は心理学とカウンセリングを学んでいます。特に被疑者の心理に関心が深く、こうしてお話をすることで、被疑者の方が少しでも心が穏やかになればと思いまして。このような機会を設けてさせていただきました。それに一説によると、人間の手には心を落ち着ける作用もあるそうですよ」
「ふんっ、余計なお世話だよ!」
最上はにっこりと笑い、通声穴に腰をかがめた。
「ご家族と面会できて良かったですね」
「ああ? お、おう……」
「接見禁止の一部解除の申し立てについては、僕もお力添えしたつもりですが……ね?」
「…………」
「僕に恩を売っておくのは、悪くないと思いませんか? 今後のためにも」
ね、と小首をかしげる最上に、容疑者の男はちっと舌打ちした。
しぶしぶ、といった様子で、その手を通声穴にあてる。
「……あなたは二週間前に、被害者のAさんを殺害した容疑で逮捕されましたね。それから……」
独り言のように、男にとも史狼にともつかず、最上が語っている。男は額に深いしわを作り、最上に史狼にと、交互に視線をむけている。史狼は男の窪んだ目を見つめ、意識を集中した。最上の言葉に呼応するように、男の感情が波を立てる。その声が途切れたタイミングで、口を開いた。
「……死ぬのが怖いんですか?」
「はあっ?」
「……死刑になるんじゃないかと、恐れているんですね」
「ん、んなわけっ……!」
「怖くないですよ」
「はあっ?!」
「怖くないです」
男に言い聞かせるように、史狼は話題を繰りかえした。
心臓をきりきりと握り潰されているようだ。
死への恐怖に胸が侵食されていく。
何度も、何度も、同じ言葉を重ねる。
一分、二分。
三分、四分……。
男は次第に黙りこくり、足元に視線を落とした。
「……今日はこれで終わりにしましょう。もうすぐ取り調べの時間です」
うつむく男と、小刻みに震える史狼とに、穏やかな声がかけられた。
◆
今日の容疑者は、まだ若い痩せこけた青年である。
背後に立つ最上をちらと見て、史狼は青年に向き直った。言うべき言葉は、最上の指示で暗記している。
「……わたしの罪は重くて、わたしはそれを到底負いきれません。そうです、あなたは今日わたしを地の面から追放なさる」
男は通声穴にあてた手を、ぴく、と動かした。その血色の悪い唇が動いた。
「わたしはあなたの顔の前から隠れ、地上を放浪する身とならねばなりません。わたしを見つける人は誰でもわたしを殺すでしょう……」
言い終えると、男はまた目を伏せた。
「……弟さんがどこに眠ってるか、知りませんか?」
「…………知らない」
「どこかに埋められてるんですかね?」
「…………俺は知らない」
「お母様が……」
「…………」
「お母様が、会いたいと言ってました」
「…………」
「面会の許可が下りたら、息子のあなたに会いたいと。それから、もう一人の息子にも会いたいと…………たとえ遺体となっていても」
「……………………」
史狼は目をつむり、叫びだしたい衝動を堪えた。この男は――母親に自分の罪を知られたくなかったのだ。
◆
カップ麺をすすっていると、隣の椅子が音を立てた。本来は兼森の席であるが、いまは宮川と外回りに出ている。椅子のキャスターを回転させ、石田管理官はしげしげと最上をながめた。
「どうした? 最近、絶好調だな」
「管理官、話しかけないでください。麵がのびます」
丸めた書類で、ぱこ、と頭をたたかれる。
最上は口元に笑みをうかべた。
「貴様あっ! それが上官に対する態度かっ?!」
「はっ! 大変申し訳ありませんっ、管理官‼ ……で? なんです? 警察官のスポ根ごっこがしたいんですか? 大学時代よく遊びましたよね、コレ」
「ふん。連日で二日、よく落としたな。勾留期限が迫ってる奴らばかりだろう。一昨日の被疑者は死刑が怖くて、ずっと黙秘してたんじゃないのか?」
「死刑を怖いと思う気持ちがなくなったんでしょう」
「なに? そんなことあるか?」
「あるんですよ」
「昨日のあいつは? 遺体の場所を吐いたって?」
「幼い頃に別れた母親が、熱心なカトリック教徒だったそうです。聖書の一節を聞くと、反射的に母親を思い出すのかもしれませんね」
「うん? それがどうした?」
「母親に失望される恐怖が、薄れたんじゃないですか」
「二人とも取調べの直前に、大上くんの面会を受けてるだろう? おまえがゴリ押しして……何か関係があるのか?」
「……癒し系なんですよ、史狼くんは」
石田は解せない様子で首をふった。ぴた、と机の上で動きが止まる。
「なんだ、駅の売店のコーヒーじゃないか。今日は車じゃないのか?」
「タイヤがパンクしたんです」
「劣化してたのか?」
「先週交換したばかりです。今朝ですよ。マンションの駐車場に停めてたんですが」
「いたずらか……悪質だな。監視カメラは?」
「映ってませんでした。うちの駐車場は奥まってるんで、部外者は入りにくいんですけどね」
「住人が? 心当たりはあるのか?」
「そうですね……二人」
「二人?」
「いえ……ただのいたずらですよ。だから電車で来たんです」
「そうだ、おまえ、春頃は電車だったじゃないか」
「止めてたんです。線路に突き落とされたんで」
「なんだと?」
「……やだなあ。冗談ですよ、石田さん。車の方が勝手がいいんです」
まじまじと見つめられ、最上はにっこりと笑う。余計なことまで喋ってしまった。石田は若手のキャリアでありながら、妙に鼻が利くからと捜査一課にまわされた男だ。突っこまれると面倒くさい。「気をつけろよ」と言い残し、石田は椅子から立ち上がった。
「……ほら。伸びたじゃないですか」
最上は箸の先をながめ、生温い麺をすすった。
◆
テーブルの上でスマホの画面が光る。
女はグラスを置いた。仕事中、サイレントモードにしたままだった。戻すのをよく忘れてしまうのだ。着信の名前を目にして、知らずに微笑してしまう。
『お久しぶりです』
『ご無沙汰しています。すみません、あれ以降ご連絡ができなくて』
『いえ……あれで良かったんですか?』
『ええ、本当に助かりました。あなたに相談してほんとに良かった……ところで、あのとき女性の刑事は、一緒にいた青年を庇ったんですよね? それに現場には、他に男性の刑事もいたと?』
『はい、守るように抱きかかえていました。男性の刑事さんは突然飛びだしてきたんです。わたしを警視庁に連れていった方で……』
『ああ、そうでした。あなたが捕まらなくて本当に良かった。罪悪感で眠れなくなる所ですよ』
『ふふっ、あの薬は飲み慣れていますから。眠気が来るタイミングも大体わかるんです。ある程度は運転もコントロールできますので……これであなたは殺されずに済むんですよね?』
『はい。でもしばらく会えないと思います。この件で警察に目を付けられたようで……すみません。ちゃんとお礼もできずに』
『いいんです。いつも励ましてもらっているのは、わたしの方なんですから……あ、こら、メグミ! 電話してるから後でね』
『はは、メグミちゃんですか?』
『そうなんです……ああもう! 少しだけよ』
『いっしきのおじちゃん! ねえ、次は? いつあえるの?!』
『メグミちゃん、ごめんね。またそのうちね』
『メグたのしみにしてるから!』
『おじちゃんもだよ。でもね、メグミちゃん。おじちゃんのことは、ママ以外の誰にも言っちゃあダメだよ? 絶対に、ね。もし言ったら……もう二度と、おじちゃんとは会えなくなるよ』
『そんなのやだっ‼ わかった! メグ、ぜったい言わない!』
『いい子だねえ、メグミちゃん……オレも早くきみに会いたいよ」
娘は母親にスマホを戻した。二言、三言、言葉を交わし、彼女は電話を切った。
彼女はスマホをタップして、着信履歴を消去した。
一色はスマホをタップして、着信履歴を消去した。警察に開示請求されれば分かることだが、捕まるような下手を打つつもりはない。眉尻を下げ、皮肉な笑みをうかべる。自分は殺される側ではなくて殺す側であるのだが……そんなことも当然、彼女に伝えるつもりはない。
バルコニーに出てサンダルを履く。梅雨の夜は熱帯のように生温かい。空は厚い雲に覆われている。一色はぐっと首を後ろに反らした。今夜この上階には、あの二人がいるのだろうか。邪魔だなあ、と呟いてみる。胸がすとんと軽くなる。一色はふっと笑った。どうやら自分の本心らしい。
「……邪魔だなあ、大上さん」
上階のコンクリートを眺め、一色はにっと唇を広げた。
引用文献/『旧約聖書 創世記』(関根正雄訳.岩波文庫.1999改版)




