3-5 絶対に守ります
埠頭沿いの公園は、曇天で人影もまばらである。
史狼は宮川と並んで、展望広場を南にむかって歩いていた。右手には港湾がひろがり、左手には道路をはさんで合同庁舎や商業施設が建っている。
「宮川さん、けっこう遠いんですね」
「……うん、大上くん。もう少し……もう少し先だから」
視界が開けて駐車場にでた。車は一台も停まっていない。身障者用の駐車スペースのようだ。宮川は立ち止まり、ぎこちなく周囲を見まわした。左手の袖を少しまくり、視線を落とす。時間を確かめているらしい。史狼もスマホを取りだした。
午後三時半。
スマホをボディバッグにしまう。手に汗をかき、落としそうになる。緊張してるのか、俺は? 史狼は息を整える。怖がるな……自分で決めたことなんだから。早鐘を打つ心臓を、鎮めるように呼吸を繰りかえした。
◆
おとりになるか、と最上に尋ねられたのは、三日前の夜のことだ。
「……は? おとり、ですか?」
ぽかんとする史狼を尻目に、最上はテーブルにスマホを置いた。
くぐもった音声が流れだす。
『……ですから、大上くんは恋愛ではないと言っていました』
『そうですか。はは、困りました。では、オレが嘘をついていることになりますね』
『あっ! いえ! そういうわけでは……あの、やっぱり、わたしが口出しする問題ではないと思うんです。たとえ恋愛だったとしても……それは二人の自由なので』
『…………。宮川さん、あなたはオレの思ったとおりの人だ。優しくてとても思慮深い。あなたの仰るとおりです。恋愛は自由だ。だけど……最上さんは立派な刑事です。大上さんはほんとうに、あの人に相応しい相手だと思いますか?』
『大上くんは、主任の甥っ子さんみたいな方で……主任も信頼していると』
『最上さんと大上さんが、あなたに本当のことを話していると思いますか?』
『え……』
『大上さんは、ただの可愛い顔をした青年じゃありません。初対面の相手を人殺し呼ばわりしたり、挨拶の品を毒入りかと尋ねたり……オレは人の悪口は好きじゃないですがね。はっきり言って性質の悪い人だ。最上さんも、実は脅されて同居してるんじゃないかって、心配してるんです』
『……まさか』
『恋愛なんて密室でしょう? このまま大上さんの行動がエスカレートしたらと思うと、正直ぞっとするんですよ。最上さんが辞職に追いこまれるような目に遭ったら……もうその時には遅いんじゃないですかねえ?』
『そんなこと……』
『絶対に起こらないと言えますか?』
『大上くんはそんな人じゃ……』
『断言できるほど、あなたは大上さんを信用しているんですか?』
『……断言、はできませんけど、でも』
『宮川さん。あなたの彼への信用はその程度なんですよ』
ガタ。トン、ガサッ。
『~~~~~~~~~~~~、ね、宮川さん?』
『……ですが』
『もちろん、何を選ぶかはあなたの自由です。誰を信じるのか、も』
長い沈黙のあと、「…………分かりました」と応じる声で録音は終わった。
史狼はソファに座る最上を見た。問うような視線に、最上が肩をすくめる。
「宮川が録音しておいたんだ。今日、僕に渡してくれた」
「これとおとりと、どう関係あるんですか?」
「きみを埠頭公園に連れていけば、もう僕と一緒にいる気はなくなるだろう、ってね。声が小さくて録れてないけど。そう言ってたらしい」
「一緒にいる気がなくなるって……なにを」
「する気かって? さあ? 脅しをかけるのかな。それとも」
殺すつもりかな、と最上は平然と言ってのけた。
「…………冗談だろ?」
「さあね。僕に一色さんの考えは分からないよ」
「それで……おとりになれって? 宮川さんが?」
「いや、宮川は刑事を連れていくと言い張った。きみと似た背格好で、髪型を真似ればいいと……安心したかい? 宮川に裏切られたと思った?」
別に、と史狼はそっけなく言い、目をそらした。図星である。一人っ子の史狼にとって、宮川はどこか姉を思わせる存在だった。協力するのは吝かではないが、全く身を案じられないとなると、少し淋しい。
「刑事でも構わないけどね。どうする、史狼くん? 一色を捕まえるいいチャンスだよ」
どこか面白がるように、最上がこっちを見ている。最上の言うとおり、一色の意図は分からない。最悪――殺される可能性もないとは言えない。
「……俺が行きます」
「意地を張るなよ。死んでもいいのか?」
「死ぬ気はないです」
「じゃあ身代わりに任せたらいい。きみは刑事じゃないんだから」
「いや、俺が行きます」
なんで、と最上が首をかしげた。心底不思議そうな表情だ。
「名指しされて隠れてるのも……なんかムカつくんで」
最上は目を点にして、長い睫毛をはためかせた。
「史狼くん……きみ、けっこうばかだね?」
答えずに、史狼はテレビを点けた。にぎやかなバラエティ番組が流れだす。
自分でも驚いていた。最上の言うとおりだ。刑事に任せて放っておけばいい。史狼は一般人なのだから。だけど……腹が立っていた。好き放題に言われて、いいように扱われて、怯えて隠れているなんて真っ平だ。史狼はゆるく首をふった。
「……自分でもそう思います」
「やっぱり、史狼くんは刑事になればいいのにな」
両手を組んでソファにもたれ、最上は楽しげに目を細めた。
◆
そして今日、宮川と現地で落ち合った。目的の駐車場には、兼森が待機しているそうだ。史狼の保護と、他の通行人を巻き込まないためだという。
『絶対に守ります。傷ひとつ負わせませんからね!』
開口一番、彼女はまっすぐに史狼の目をのぞきこんだ。その真剣な顔を思い出し、心がすうっと静まった。
ふいに、タイヤが擦れるような音が聞こえた。史狼は顔を上げた。白のセダンが道路を左折して、駐車場に入ってくる。様子がおかしい。ブレーキをかける気配はなく、猛スピードで突っこんでくる。まっすぐに史狼めがけてやってきた。
「……くっ‼」
ざああっと服が地面をこする。続けて、破裂音。宮川が立ち上がる。パン、と再び破裂音。タイヤが軋み、引っ掻くような音が響く。車体が半回転して、車は史狼の斜め前方で止まった。
木陰から兼森が飛びだしてくる。
兼森は銃を構え、フロントガラスに向けた。
「出てきなさい‼」
宮川が振りむいて「大丈夫?」と史狼に尋ねる。彼がうなずくと、辺りを見まわしながら、宮川も車に近づいていく。その手にも銃が握られていた。
車のドアが開いた。
女が両手を上げて、おずおずと足を踏みだす。
そう――車から降りたのは、女だった。
「……ブレーキとアクセルを間違えたあ?」
「はい。一時間前に薬を飲んだんです。運転中に急に眠たくなって、いったん駐車場で休もうと思ったんですが……」
「服薬後の運転は禁止されてるでしょう?!」
「すみません! 仕事でストレスが重なって……薬を飲んでも今日は眠気がなくて、それなら少しだけ、気分転換に埠頭をドライブしようと……ほんとうに、すみませんでした」
兼森はあきれ顔で女を見つめた。
女の話によると、自分は都内の病院に勤める看護師だと言う。抗不安薬を服用後、運転してペダル操作を誤ったそうだ。年齢は三十代前半ぐらい、痩せぎすで、地味な大人しい印象の女だ。史狼の前で、「ほんとうに申し訳ありません」と言い、女は深々と頭を下げた。その肩に手を置いて、史狼は声をかけた。車内に他の乗客はいない。宮川が確認したところ、不審物も見つからなかった。
兼森は事情聴取のため、女を連れて警視庁に向かった。
◆
「……一色、現われませんでしたね」
「彼女は無関係だと思いますか?」
「思いません」
きっぱりと言い、史狼は女の感情を思い出した。
『一色という男を知りませんか?』
『一色……さんですか? 聞き覚えはあるような……ええと、誰だったか』
先ほど確かめた感情は、ぼんやりと不明瞭だった。服薬のせいかもしれない。おぼろげに一色の姿が見えて、好意めいたものも感じたが、曖昧なものに終始した。「知らない」と否定しないのは、疚しいところがないからか。彼女の言うとおり、ただの偶然だったのか。
史狼は首を横にふった。
「この場所を指定したのは一色です。あれが冗談だったとは思えない。偶然ではないです、きっと」
「わたしもそう思います」
隣に立つ宮川を見て、史狼は表情をほころばせた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「当然です! 怪我はないですか? 大丈夫?」
大丈夫です、と笑って言った。デニムが擦れた以外、史狼になにも危害はない。車が突進してきた瞬間、宮川は彼を抱えて跳び、芝生に着地した。合気道が得意というのは伊達ではなく、身のこなしはドラマのスタントマンのようだった。
「宮川さんこそ、大丈夫ですか?」
パンツスーツ姿の宮川は、右の前腕と両の膝頭がやぶれて血が流れている。
「はい! これぐらい平気です!」
「あとで消毒して、包帯も巻いてくださいね。雑菌が入るといけないんで」
「……う、はい。大上くん、主任みたいですね。一緒にいたら似てくるのかな」
「や、俺たぶん潔癖ぎみなんで」
「あ。そっか……」
史狼の担任の話を思い出したのか、宮川は気遣うように口をつぐんだ。
前かがみになり、黒いパンツをぱたぱたとはたく。
ふと手を止めて、微笑みながら顔を上げた。
「でも……大上くんって不思議ですね。なんだかカウンセラーみたい」
「え……? カウンセラー、ですか?」
「うん。喫茶店で話してるとき、最初はとてもイライラしたんだ。ごめんね。大上くんのこと、身勝手な子だって思ってて……一色さんのことを尋ねられたときも、全然打ち明ける気になれなくて……でも大上さんを前にしてると、なんだかだんだん、話してもいいか……って気持ちになったの。イライラがおさまって気分が落ち着いて。不思議だね」
宮川は彼の前髪をひと撫でした。
「この髪型、見た目に無頓着だから……って主任は言ってたけど。ほんとは目立ちたくないから?」
「……はい、そうです」
優しく微笑んで、彼女は目を合わせてきた。
「大上くんが人に触れるのが苦手でも、わたしはきみの手にほっとしました。主任でも誰でも……いつか、好きな人と触れ合えたらいいですね」
「ありがとうございます。あの……でも宮川さん、なんか勘違いしてません? 一色の話は、最初から最後まで全部嘘ですよ? 俺、高一のとき彼女もいました」
「……んんっ? ……あれ? そうなの?」
目を丸くして小首をかしげる姿は、ウサギのようで可愛らしい。史狼は笑みをうかべて、こっそりと両手を鳴らした。次に一色に会ったら、とりあえず一発殴っておこう。
寒いですね……雪の地域の方も穏やかな夜の方も、暖かくしてお過ごしください(^^)