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1-2 他になにかご存知のことが?

 スーリャ・バラルは目を丸くして、声を上げた。


「ええっ?! 殺人現場にいたあ?!」


 しっ、と史狼は口元に指を立てる。この仕事に就いてから半年間、一度も遅刻したことはない。休憩で顔を合わせると、バラルに「何かあったの?」と声を掛けられた。適当な理由を考える気力もなく、チーフに伝えた説明を繰りかえしたのだ。


「うわああああ……よく出勤できたなあ、兄貴ダイ。ぼくなら気分悪くて家で寝こむぞ」


 ネパール人のバラルは、史狼のことを兄貴ダイと呼ぶ。史狼はこの五月に誕生日を迎えたばかりだ。二十歳の彼よりバラルは二歳年上である。本来、年下の相手には「弟分バイ」と呼びかけるらしい。「じゃあなんで?」と聞いてみたら「だってバイトの先輩だし」と笑って言われた。来日二年目のバラルは語学学校の留学生だが、日本語はすでにペラペラである。褐色の肌にやや垂れ目の、人懐こい男だ。


 この自販機の隣のベンチが、史狼の定位置だった。めったに人が来ないからだ。休憩の後、他の男たちは喫煙所でたむろっているし、女たちは奥の畳スペースを使うことが多い。切れかかった電灯の下で、史狼とバラルは並んで座っていた。二人の間には人ひとり分の距離がある。史狼はいつも、からだが触れないように他人と距離を取っていた。


「兄貴も大変だなあ。第一発見者になるし、アパートは追いだされるし」

「まだ二週間あるけどな」


 上京してから一年と二ヶ月、史狼は月島の格安アパートに住んでいる。風呂付きワンルーム、駅まで徒歩七分、家賃五万円。破格の物件だった。昭和の中頃に建てられたアパートは、この初夏、ついに取り壊しが決まってしまった。今月中に引っ越さなければならないが、同条件の物件となると、そう簡単には見つからない。


「ま、行くあてがなけりゃ、ぼくんちに来なよ。もう同居人がいるけどさ」

「ああ、サンキュ」


 気持ちはありがたいが、その選択肢はあり得なかった。バラルのアパートは新大久保のネパール人街にある。一室をカーテンで仕切り、同国人の男とシェアしているという。間取りや立地の問題ではない。朝から晩まで他人と一緒にいて、ふとした瞬間に相手の感情がわかる――そんな生活が真っ平なのだ。史狼は左手で紙コップを持ち、右手を開いてみた。数時間前の、あの人殺しの感情をまだ覚えている。手のひらが赤く濡れているように見え、史狼は慌てて目を瞬かせた。気のせいだ。しっかりしろよ。史狼は細く息を吐きだした。自分は他人の感情がわかるのだ、と幼少時に気づいて以来、彼は人を避けるようになった。


 人に触れれば、容赦なくその感情は自分のものになる。喜びや好意だけではない。悲しみも憎しみも、嫉妬も怒りも、侮蔑も欲望も――むしろそれらの方が多いぐらいだ。その度に心が掻き乱される。ほんとうに真っ平だった。

 学校でも職場でも、できるだけ他人を避けて生きてきた。親しい友人も彼女もいない。バラルは例外だった。先月、史狼がベンチに座っていると、じっと自販機をながめる男がいた。職場には外国人も数名いるが、見たことのない顔だ。上から下まで、一つ一つボタンを確認して首をかしげている。傍に人がいると、どうにも落ち着かない。史狼はたまらず声をかけた。


「知らないボタンがいっぱいあって」


 分からない、と男は言った。史狼は合点がいった。この自販機は紙コップで出てくるタイプだ。砂糖やミルク、氷などの細かい注文ができる分、慣れなければ戸惑うだろう。史狼は順番に操作を説明していった。砂糖とミルク増量のホットカフェオレを手に、男は満面の笑みでバラルと名乗った。その日が初出勤だったらしい。それ以来、史狼を兄貴と呼んで、休憩中バラルはいつも自販機にやって来る。



 事件の翌日も、その翌日も、ニュースは何も流れなかった。ネットでもテレビでも、コンビニで買った新聞でも、男の飛び降りについて一切触れられていない。まだ捜査中なのだろうか。それともニュースを見落としたのか。三日目の午後、史狼はスマホとテレビでニュースを確認した。やはり流れていない。あのフードの男はどうなった? 無事に捕まったのだろうか。史狼はテーブルの上の名刺をつかんだ。


 最上辰彦。


 ドラマでもよく登場する捜査一課の刑事である。殺人事件など凶悪犯罪を担当するはずだ。きっと忙しいのだろう。史狼は気がひけた。電話をかけてもいいのだろうか。いや、と彼は思い直す。自分は第一発見者なのだ。遺体を見つけ、犯人とも接触している。気にならない筈がない。そう自分に言い聞かせ、史狼はスマホをタップした。

 すぐには繋がらないだろう。そんな予想に反して、三コール目で相手が応じた。


『はい』

『突然失礼します。先日の事件でお会いした、大上と申します』

『ああ、大上さん。その節はご協力ありがとうございます』

『いえ。あの、その後どうなりましたか。ニュースにも出てこないので』

『ちょうど今日、お電話しようと思っていたんです。自殺と断定されましたので、もうご心配には及びませんよ』

『……は?!』


 いくらか間が空いて、小さな咳払いが聞こえた。


『検視の結果、自殺と断定されました。大上さんに情報提供いただいた男は、聞き込みでも、防犯カメラの映像でも見当たりませんでした。おそらく無関係かと……』

『無関係なわけないでしょう‼』

『……と言いますと?』

『あの男が犯人です! 無関係なんかじゃない! あんなふうに人の死を喜ぶ男が無関係なわけっ……』

『落ち着いてください、大上さん。もしかして、他になにかご存知のことが?』


 史狼は口をつぐんだ。

 ――他になにかご存知のことが?

 ある。

 あるにはあるが、どう説明していいのか分からない。

 男に触れたら、殺意があったんです。

 そんなことを言えば、こっちの正気が疑われるだけだ。

 沈黙を別の意味に捉えたように、最上の声音がやわらかくなる。

 ただの癇癪だと思われたのかもしれない。聞き分けのない幼子のような扱いに、史狼は顔をしかめた。どうせ相手には見えやしない。


『分かりました。よければ直接お話しませんか?』


 そう提案され、互いの予定を確認する。一時間後にアポを取って電話を切った。

 約束の場所は、桜田門。

 警視庁本部庁舎である。

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