3-3 俺に嫉妬してるんですか
数秒、数十秒のあと、最上の手から解放された。荒い呼吸を繰りかえし、史狼はソファに座る男をにらみつけた。
「なにするんだ! 殺す気か!」
「殺すなら本気で絞めてるよ」
すげなく返して、最上は煙草に火を点けた。
「……くそ。サイコパスが」
「だからそう言ってるじゃないか」
ひょうひょうと眉を上げ、最上は棚から灰皿を取りだした。
とん、と陶器が鳴り、灰が落とされる。
「疑ってるって? 一色じゃなくて俺を?」
「そうだ。いや……一色さんも、だね。ここに引っ越してきた時点で、彼はもうほぼクロだ」
「あいつが怪しいなんて今さらだろ? 俺もあいつと同じ、飛び降り事件の容疑者だって? まだ疑ってるのか?」
「あの事件じゃない」
ふっと煙を吐いて、最上は彼に目をすえた。
「これから起きる事件のことだ」
「……は?」
「きみは……僕を殺したいんじゃないのか?」
「……はっ?! なに言って」
「…………なんてね。……冗談だよ」
つまらなさそうに呟いて、最上は視線を外した。
「宮川は僕が対処するから。史狼くんはうちにいなさい」
「だから宮川さんは関係ないって」
「嫉妬してるんだろ、きみに」
言葉の意味が分かるまで、史狼は何度もまばたきした。
「……はあ?」
「僕と関係を持てば、もう史狼くんのことは気にしないだろ」
「……はああ?!」
「そんな大きな声だすなよ」
最上が眉をひそめ、灰皿に煙草の先を押しつける。とっさに史狼はその腕をつかんだ。当然のように、なんの感情も湧き上がってはこない。この胸にあるのは自分の戸惑いだけだ。
「関係って……え? あんた、宮川さんのことが好きなのか?」
「好きじゃない」
さらりと言って、最上は彼の手をテーブルに退けさせた。
「きつく掴むなよ。しわになるだろ」
「好きじゃないって……」
「人間としては信頼してる。部下としても、真面目で仕事熱心で申し分ない。恋愛で、という意味だ」
「じゃあなんで」
「きみに嫉妬してるんだよ。僕と寝て自分のほうが優位だと思えば、そんな気も失せるだろ?」
「はあ? だからなんで俺に? あんた、好きじゃないのに宮川さんと付き合うのか?」
「なんでって……まあいいけど。宮川と付き合う気はないよ。結婚を期待させたら悪いだろ?」
「それって……ただのセフレじゃないか」
「なにか問題が?」
史狼はあきれて男をながめた。噛み合っていないのは、倫理観なのか何なのか。
「結婚を考えてる相手でもいるのか?」
「いないよ」
「じゃあ付き合ってみたらいいじゃないか。結婚したくなるかもしれないだろ?」
「結婚するなら、仕事と僕の人生に有利な相手がいい。好きとか愛とかで選ぶ気はない。だから宮川とは結婚しない。他の女たちとも」
「あんた……けっこうクソだな」
「……恋愛感情がないのに、どうやって恋愛しろって言うんだ? 僕にとっては、結婚も仕事も同じだよ。就職だって自分に有利な会社を選ぶだろ? それと何が違う?」
史狼はなにも返せず、口をつぐんだ。
……そうだった。
こいつは感情がないんだった。
「きみだってある意味、僕と似たようなもんだろう? 他人と距離を置いて生きてきて、誰かと親密になるつもりもないくせに」
「……まあ……そうですけど」
「じゃあ、話はこれで終わりだ。宮川のことは僕にまかせなさい」
「俺が対処します」
「え…………史狼くん、宮川と寝るの?」
「は? なに寝ぼけたこと言ってんですか。俺が宮川さんを説得しますから、あんたは手を出さないでください」
「説得なんて出来るのか?」
「やりますよ」
最上は新聞を折りたたみ、重ねてテーブルに置いた。ソファから立ち上がり、灰皿を手にした。腰をかがめ、史狼の顔をのぞきこんだ。
「期待してるよ、史狼くん。失敗して、寝ぼけた僕に寝首をかかれないようにね?」
トントン、と指先で、リズミカルに史狼の首すじを叩いてから、最上は玄関に消えていった。少し遅れて扉の閉まる音がする。
「なんだよ……大人げないな」
さっきの言葉を根に持っていたらしい。史狼は長々と息を吐き、ソファに倒れこんだ。
一体なんだったんだ? 俺が最上を殺したい? 最上が俺を殺したいの間違いじゃないのか? スマホの鏡アプリを起動させ、自分の首を映してみる。くっきりと指の跡が残っていた。殺意じゃないなら牽制だろう。冗談だと最上は言ったが、とてもそうは思えない態度だった。バラルの一件で、多少は気を許していたのだが……やはりよく分からない男だ。史狼は寝室の扉をじろりと見た。
◆
目の前でもう一分半ほど、宮川が目を伏せている。
「同居は続けます」と史狼が告げた途端、この席だけ時間が止まったかのようだ。
ピアノ曲が流れる店内は、ときおり離れた席から客の話し声や、キーボードを叩く音が聞こえてくる。しかし遠い波のようで、すぐにBGMにまぎれてしまう。二人が座っているのは、一昨日と同じ喫茶店の同じ席である。今日は夕食と重なる時間帯だが、立地柄か、店は程よく混んでいる。
「……どうしてですか? この前は同意してくれたのに」
「最上さんから止められました」
「嘘っ‼」
がば、と顔を上げ、宮川は声を荒げた。店員や他の客たちが、こっちを盗み見る気配がする。宮川は肩をまるめ、「……すみません」と消え入るような声で言った。
「なんで嘘だと思うんですか?」
「……あなたが」
「俺が?」
「……あなたが嫌なんでしょう?」
「嫌って?」
「……あっ……あなたが…………主任から離れるのが嫌なんでしょう!」
宮川は苛立つように、史狼の腕をつかんだ。
史狼は額にしわを作った。
……どろどろと濁った感情が。
……腹の底から、
……湧いてくる。
軽い吐き気をおぼえながら、史狼は苦笑いした。
なんだ。最上が言ったとおりなのか。
……この感情は。
「俺に嫉妬してるんですか、宮川さん?」
「なっ……‼」
「なんで嫉妬してるんですか? 俺が最上さんと同居してるからですか? 宮川さんもあの人と暮らしたいんですか?」
「……っ‼」
「一緒に暮らしたら地獄ですよ」
「……っえ?」
「あの人すごい人使い荒いですから。いくら俺が秘書だからって、こき使いすぎですよ」
「え……? 秘書?」
「みたいなもんです。俺が警察官になりたいって言ったら、まず適性を試してやるって。同居人なんて言っても、ただの秘書、っていうかパシリですよ。宮川さんも一緒に暮らして仕事のスキルを盗みたいんでしょ? 技は教わるな、見て覚えろ、って言いますもんね。だけど仕事中だけで十分ですって。二十四時間一緒にいたら、ワーカホリックで気が狂っちゃいますよ、絶対」
史狼はふっと息を吐きだした。宮川の濁った感情が少しだけクリアになる。このまま納得してくれないか、と祈ったが、宮川はゆるく首を横にふった。
「……嘘。大上さん、あなた……主任のことが好きなんでしょう?」
「はあ?」
素で声が出てしまった。あいつのことが好きなのはあんただろ、と勝手に動きそうになる口を、史狼はぐっと引き締める。宮川の感情にふれて、そういう類の話なのか、とようやく史狼も気づいていた。だから話を逸らしてみたのだが……きっぱりと直球を投げられてしまった。
「いや、まさか。ぜんぜ……ん……」
史狼はかっと目を見開いた。
自分の腕をつかむ宮川の手を、反射的につかみ返す。
宮川が驚いたように目を丸くする。
その黒い目を史狼はにらみつけた。
いや、彼がにらんでいたのは、宮川でも、その目に映る自分でもなく……宮川の心に浮かぶ男だった。
「…………宮川さん。一色さんから何を聞かされたんですか?」
史狼の手の下で、細い指先がぴくりと震えた。




