3-2 だめだよ
午後二時にスマホのアラームが鳴る。史狼はテーブルに腕をのばし、ぱたぱたと振ってスマホをつかんだ。部屋がしんと静まりかえる。遮光カーテンの隙間から、光の帯がちらついている。穏やかな平日の午後だった。スマホを見て、史狼は首をかしげた。見知らぬ番号の着信が残っている。
◆
「突然すみません」
宮川は早口で言い、深々と頭を下げた。
つられて史狼もお辞儀して、カフェオレをひと口飲んだ。指定された待ち合わせ場所は、東京メトロの有楽町駅からすぐの喫茶店だった。
「わたしが呼び出したのに、近くまで来てもらってごめんなさい」
「いいですよ。職場もそう遠くないんで」
からからと氷がぶつかる。宮川は落ち着かない様子で、アイスコーヒーをかき混ぜている。ゆったりと広い店内は、座席間隔も広く、周囲の会話は聞こえづらい。禁煙の赤いソファ席には、パソコンを開いているサラリーマンや、年配の客がちらほらといた。
「それでご用件は? 先月の事件のことですか?」
宮川と会ったのは、警視庁で動画を見たときと、面通しのときの二回だけだ。あの事件以外の用件は、取り立てて思いつかなかった。宮川はためらうように、首をゆっくり横にふった。
「じゃあ何の……」
「突然ごめんなさい。大上さん、あの……あのですね。主任、いえ、最上さんと同居してるって……ほんとですか?」
「はい、してますけど」
「あの…………あのっ、止めて……くれませんか?」
史狼の視線に、氷が乾いた音を立てた。
「止めるって、同居をですか?」
「……はい」
「俺にあのマンションを出ていってほしい、ってことですか?」
「……そうです」
「……なんで」
宮川は口をつぐみ、ストローをくわえた。
白いストローが茶色に染まっていく。
「…………噂が」
「噂?」
「……はい。噂が……立つんじゃないかと。心配で」
「噂って……何のですか?」
宮川は怒ったように彼を見据えた。
「その……その…………主任によくない噂です」
「よくないって?」
なぜか顔を真っ赤にして、宮川は金魚のように口を開いた。
「だっ……だから……そのう……つまり……警察官として出世に響くというか」
「……ああ。俺が警察の秘密を漏らすんじゃないか、とか。そういうことですか?」
「そっ、そうです! そうです‼ そういうことです‼」
宮川はほっとした様子で、首をぶんぶん縦にふった。
「大上さん、ご存知ですか? 警察官は原則として同居は禁止なんです。情報漏洩の危険もあるし、男女だったら、その……倫理的な問題もあるので」
「倫理的な?」
「……結婚前の同棲なんて、いまどき珍しくないと思うんですけど。警察官はそういう価値観が半世紀前から変わらないというか……厳しいんです。同棲とか……それに同性同士の恋愛とかも」
ちら、と意味ありげに顔を見られる。
「そうなんですね。知りませんでした」
「はい。だから……同居は止めてくれませんか? 噂が立ったら、主任が悪いわけじゃなくても、口さがない人はいると思うんです。嫌なんです。そんなことで主任の足が引っ張られるのは」
ウサギのような黒い目が潤んでいる。そうだ。この人はあの男のことが好きだったのだ。どのみち、史狼が望んだ同居ではない。この暮らしに少しずつ馴染んではいたが、宮川の言い分も理解できた。
「分かりました。それなら出ていきます」
「え……えっ、いいんですか?」
「出ていった方がいいんでしょう?」
「はい……はい! そうです」
「なら出ていきます」
「ありがとう……ございます。突然すみませんでした。大上さん、あの、このことは…………いえ、なんでもありません」
「話しませんよ、最上さんには」
宮川はきまり悪そうに、ぽつんと「ありがとう」とつぶやいた。
◆
「だめだよ」
抑揚のない声で、ひと言で返される。
昨日は宮川と別れて、そのまま仕事に行った。早朝にマンションに戻ったら、数日ぶりに最上がいた。史狼はさっそく「出ていきたい」と切りだした。そして、にべもなく断わられたのだ。
「捜査には協力します。でもそれだって、もう一ヶ月近く経つけど一度もないじゃないですか。用があったら呼んでください。やりたくはないけど、やらなきゃ警察庁に売る、って言うなら約束どおり協力しますから。だから同居じゃなくてもいいでしょう?」
「だめだよ」
カップを手に、最上は居間にやってきた。バルコニーに近い、一人掛け用のソファに腰を下ろす。黒い革製のそのソファが、最上の定位置である。テーブルにカップを置いて、代わりに新聞を取り上げる。紙媒体で二誌、デジタルで三誌とっているらしい。かさかさと捲る音がする。もう話はすんだ、と言わんばかりだ。
「警察官の同居はまずいんだろ?」
グレーがかった紙面の上から、ちらりと視線を寄こされる。
「許可は取ってある。問題ないよ……それで? 誰がきみにそんな話を?」
「誰がって……別に。たまたまネットで見ただけで」
「昨日の夕方は、宮川を見かけなかったけど」
「……へえ、そうですか」
「史狼くんは、わりとしらを切るのが上手いよね。やっぱり刑事に向いてると思うけど」
紙面を捲りながら、最上がくすくすと笑っている。史狼はむっとして身を乗りだした。
「とにかく、出ていきますんで」
「だめだよ」
わずか二、三秒の出来事だった。最上は新聞を置くと、左手をテーブルについて、右手で史狼の首をつかんだ。食いこむ指は思いがけない強さで、息を吸うどころか吐くことさえ苦しい。
「あんた……なんっ……で」
「なんのための同居だと思うかい? 史狼くん?」
「……っぐっ……」
「ああ、すまない。これじゃあ喋れないね?」
わずかに力が緩み、のどから笛のような息が漏れた。
「……あんたがっ……捜査に協力……することへの対価だと」
「なんだ。そんなこと本気にしてたのか?」
「ちがう……のかよ」
「きみを監視するためだよ」
史狼は言葉を失った。
声を出せないからではない。なんと返せばよいのか分からなかった。
最上の目が、すいと細くなっていく。
「僕はきみを疑ってるんだよ、史狼くん?」
澄んだ薄茶の双眸が、間近で史狼を見つめていた。