3-1 毒入りですか?
台所でエスプレッソマシンが目に留まり、最上はベッドを振りかえった。女が「タツヒコさん、コーヒー好きでしょ? 使っていいよ」と笑って言う。隣に赤い缶が置かれている。蓋を開け、豆を入れてカップをセットする。マシンが音を立て、香りが部屋にひろがった。
「僕のために買ってくれたんですか?」
「だったら、どうする?」
カップを手に、最上は微笑して立っている。
答えがないことを咎めもせず、女はにっと唇の両端を上げた。
「うっそ。結婚式の二次会。ビンゴで一等だったの。すごいでしょ」
「よかった」
にっこりと笑い、最上はカップを口に運んだ。
「わたしがタツヒコさんのために、わざわざエスプレッソマシンを買って部屋で待つような女だったら……もううちに来ないでしょ?」
さらりと言って、女はシャツの襟を引き上げた。オーバーサイズの白いシャツはボタンが四つ開けられ、動くたびに胸が見え隠れする。その光景を眺めながら、最上はコーヒーを飲み干した。カップを洗い、水切りカゴに並べる。ネクタイの結び目に人さし指をかけた。
「だから僕は、あなたがいいんです」
「ふふ、タツヒコさん。他のセフレにも同じこと言ってるでしょ?」
最上は苦笑いして、女をシーツに押しつけた。
◆
ピンポーン。来客を告げるベルが鳴る。
史狼はソファから立ち上がった。最上ではない。あの男なら鍵を持っている。夜の十時だ。宅配でもないだろう。テレビドアホンの画面を見て、史狼は顔を強ばらせた。
扉の前にいるのは……一色である。
『はい』
『夜分遅くに恐れ入ります。先日、越してきた一色と申します。ご挨拶の品をお持ちしたのですが、いまお時間よろしいでしょうか』
『…………お待ちください』
チェーンを付けて扉を開ける。史狼の姿を認めると、一色は驚きの表情をうかべた。
「あれ? あなた……えっと、大上さん? でしたよね?」
「はい」
「最上さんは?」
「まだ帰ってません」
「……あなたはここで?」
「俺もここで暮らしてます」
眼鏡の奥の目が、怪訝そうに細められる。
「三日前もお会いしましたよね。なるほど……最上さんと同居されていたんですか」
「はい」
「髪型が変わるとずいぶん印象が変わりますね。大上さんは……最上さんとはどういったご関係で?」
「答えなければいけませんか?」
沈黙が落ちた。
一色は眼鏡をくいと上げ、気を取り直すように小箱を差しだした。
「失礼しました。プライベートなことですね。よければどうぞ、ご挨拶の品です」
「いえ。ありがとうございます。この部屋の上階に引っ越されたんですか?」
「いや、七階です」
「わざわざ、九階まで挨拶に……?」
「一昨日、エントランスで最上さんをお見かけしたんです。声は掛けそこなったんですが、部屋番号を確認しておきました。あの事件ではお世話になりましたから。ひと言ご挨拶しておこうと思ったんです」
史狼はチェーンを外して、箱をつかんだ。
指先をそっと一色の手にあてる。その姿勢のまま、史狼は手を引かなかった。一色の視線が、問いたげに手元に落ちる。気づかないふりをした。せっかくの機会を逃したくはない。
「あれから何か、変わりはありませんか?」
「いえ、なにも」
「予備校の生徒さんが捕まるなんて、ずいぶん心配されたでしょう?」
「そうですね。でもこう言ってはなんですが、彼女も被害者といえば被害者ですし……はは、刑事さんたちから怒られそうだな。内緒にしといてください。とにかく彼女はまだ若い。更生することを願ってますよ」
史狼は内心でため息を吐いた。犯人の女子生徒との関係が分かるかと思ったが、やはり何も手がかりはない。湧き上がる感情は軽い憐れみで、彼女への憎しみや欲望は感じられなかった。
「身近で殺人事件が起こるなんて、滅多にないですもんね。大丈夫ですか?」
「お気遣いどうも。でも大丈夫ですよ。そんなに繊細なほうではないので」
互いに微笑みながら、史狼は背筋が冷やりとした。初夏のぬるい夜気に代わって、この玄関だけツンドラ地帯の風が吹いているかのようだ。殺人事件という単語がトリガーとなり、一色の感情は、万華鏡のように血の情景が渦巻いている。吐き気がこみ上げ、史狼は話題を変えた。
「ありがとうございます。最上さんに渡しますね」
「お口に合えばいいんですが。地元の菓子の、東京駅限定版だそうで」
水色の包装紙に印刷されたロゴは、よく見れば、史狼にもなじみのメーカーである。
「仙台の……」
「ああ、よくご存知ですね」
「仙台が地元なんですか?」
「はい、そうなんです」
愛らしいウサギのキャラクターを見つめ、史狼はひそかに息を吐く。やっぱり確認しておこう。あまり気は進まないが。
「毒入りですか?」
「……え?」
「…………すみません、冗談です。ほら、警察の事情聴取でご迷惑をかけたでしょう? そのお返しに、最上さんに下剤でも盛ってやるのかな、なんて」
「……ははっ……まさか。やだなあ、大上さん。あなたの冗談は性質が悪い」
「ですね。失礼しました」
箱を受け取り、史狼は頭を下げた。玄関の扉を閉めかけて、ふと言葉を連ねる。
「俺は最上さんの……甥みたいなもんです」
じっと史狼を見つめ、「そうですか」と、一色は薄笑いした。
◆
「捨てていいよ」
深夜0時をまわる頃、最上が帰宅した。先の経緯を話すと、箱をちらりと見て、そう言い残して浴室に消えた。シャワーの音がする。20分後、Tシャツとスウェットのパンツに着替えて、最上はテーブルに目をむけた。
「捨てないのか?」
「毒は入ってませんよ」
最上は軽く目を見開いた。
「へえ、確かめたのかい?」
「はい。心外だって……少し傷ついた気持ちになりました。他意はないみたいです」
なんだか悪い気がして、つい自分の身の上を明かしてしまった。知られても困ることはないが、自分の情報を好んで一色に渡したいとも思わない。
「警察官は市民から物を貰っちゃだめなんだけど……まあいいか。引っ越しの挨拶だし、受け取ったのは史狼くんだし」
最上は包装紙を開いて、白いまんじゅうを取りだした。史狼の前にもひとつ置かれる。カステラ生地に、白いカスタードクリームが入っている。ふわりと柔らかくて美味い。
「で、他になにか見たかい? 事件の兆候は?」
「いえ、あの面通しのときと同じでした。あ……これは直接聞いたんですけど、地元が仙台だって言ってました」
「ああ、そうだね」
「……知ってたんですね」
「言ってなかったかな?」
ふた口で食べ終えて、最上がにっこりと笑う。胡散くさい笑顔だ、と史狼はしかめっ面で応じた。一色に関する情報を、史狼と共有する気はないらしい。一昨日、一色の引っ越しを伝えたときも、「そうか」とひと言で返されたのだ。
「あんたに俺に、一色。偶然ですね、みんな仙台出身なんて」
「…………偶然? なのかな?」
わざと区切るような口調だった。
史狼は眉をぴく、と跳ね上げた。
「一色は……なにか目的を持って東京に来たってことですか?」
「…………一色が、か。史狼くん……きみも」
「俺も?」
「きみも…………きみも先週キャバクラで、高校の元カノと再会したんだって?」
「えっ? なんで知って」
「オーナーの日向から聞いた」
「ああ……はい。そうです。仙台から上京した奴、多いですよね」
「…………まあね。で? 寄りを戻したのか?」
「は? まさか。ないですよ」
「可愛くていい子なんだろ? 戻さないのか?」
史狼の前を横ぎり、最上は掃き出し窓を開けた。バルコニーから生温かい夜風が吹きこんでくる。カチ、とライターの音がした。
「誰とも付き合う気はないです。してる時に、たぶん気持ち悪くなるんで」
「……ああ、そういうこと。きみも難儀だね」
静かな声とともに、煙の匂いが流れてきた。




