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サイコとおおかみ -エリート刑事は殺人鬼?-  作者: 左京ゆり
第二章 キャバクラ潜入
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2-8 大丈夫だ。私は自腹だ

 その午後、史狼はマンションから程近い西仲通りを歩いていた。通りの両端に、もんじゃ焼きの専門店が軒を連ねている。一人では気がひけて、これまで入ったことはなかった。空腹を誘うソースの匂いに、史狼は鼻をひくつかせた。バラルたちとは、店で落ち合うことになっている。




 新大久保のアパートを訪ねたのは、ナナが自首した翌日のことだった。バラルはすでに警察から事情を聞いており、真っ赤な目で彼を出迎えた。


「……残念だったな」

「自業自得だよ。せっかく留学できたのに……密売なんかに手を出すなんて。挙句の果てにヤクザに殺されてさ……ばかな奴だよ」


 バラルは洟をすすりながら、ごしごしと目をこすった。背中に手をまわすと、悲しみに押し潰されそうになる。沈み込みそうな自分を、きつい言葉でなんとか支えているのだろう。部屋を仕切るカーテンが、柱の隅にまとめられている。夕焼けのような橙に、金の刺繡が華やかにきらめいていた。部屋の奥まった側は、きれいに片づけられている。家宅捜査が入ったのなら、相当に荒れていたはずだ。ひとつひとつ整頓したバラルの気持ちを思うと、史狼は胸が締めつけられた。


「大丈夫か?」

「うん、大丈夫。まだやることもあるから。あいつの荷物を実家に送るんだ。遺体も……こっちで火葬して遺骨を送るからさ」


 バラルに勧められて、史狼は畳に腰を下ろした。家具は必要最低限の物しかない。ベッドとテーブル、それに三段ボックスの棚が一つ。棚の上は祭壇のようになっていた。バラルに尋ねると、ヒンドゥー教の神様を祀っていると言う。象のような絵が飾られた傍に、なぜか日本の文庫も置かれている。表紙は紫色の目の可憐な少女のイラストだ。いわゆるライトノベル、ラノベだった。


「なあ、なんで祭壇にラノベなんだ?」

「へへ……この本はね、ぼくの神様みたいなもんなんだ」


 バラルは文庫を手に取った。ずいぶん年季が入っている。所々がテープで補修され、表紙は退色していた。


「ラノベが?」

「うん。中学のとき、友だちの家で見つけてさ。出稼ぎに行った兄ちゃんが持ち帰ったんだって。そいつは日本語読めないから、棚に積まれて埃かぶってたんだけど。ぼく、この表紙を見て、なんて可愛い子なんだ! って感激したんだ。どんな話なんだろ、なにが書かれてるんだろ、この子はどんな子なんだろ、ってもう読みたくて読みたくて堪らなくなって……それで日本語の勉強を始めたんだよね」


 大切そうに表紙を見つめ、バラルはテープの跡をそっと撫でた。


「最初は平仮名しか読めなくて、それから漢字も少しずつ覚えていって……全部読むのに五年かかったんだ。でも……嬉しかったなあ。学生のときも働いてても、どんなに疲れてても帰って日本語の勉強をしてたら、疲れなんて吹き飛ぶんだ。女の子を助けるために何度も何度も世界をやり直して……ぼくがいるのもそんな世界の一つで、平行世界には大学で勉強してるぼくや、日本で生まれたぼくもいるんだって、そんな想像をして……本を読んでるうちに世界が違って見えたんだ。ぼくの人生はここで生まれて死ぬだけじゃないのかもしれない、って。だから日本に行ってみようって思った。おかげで日本語も読み書きできるようになったし。日本に来てラノベも沢山読めるようになったし……この本はぼくに知らない世界を見せてくれた、神様みたいな存在なんだ」


 バラルは顔をかがやかせた。同居人が行方不明になって以来、十日ぶりに見る笑顔である。史狼もつられて笑った。


「どう? よかったら貸すよ?」

「悪い、俺、活字って眠くなるんだ。あんま読まない」

「そっかあ……」

 がっくりと肩が落とされる。史狼は申し訳ない気持ちで、テーブルに置かれたお茶をすすった。チャイのような、スパイスの効いたミルクティーだ。甘くて美味い。

「そうだ、今度なんか食べに行かないか? ネパール料理でもなんでも、おまえが好きなやつ」

「えっ、まじで? 行きたい! 日本人の友だちとご飯って初めてだなあ。ネパール料理もいいけど、せっかくなら日本らしい……」


 バラルは嬉しそうに、もんじゃが食べてみたい、とつぶやいた。



 店の前で赤い暖簾がはためいている。史狼は暖簾をくぐり、引き戸を開けた。らっしゃい! と威勢のいい声が迎えてくれる。店内を見まわすと、すでに面子は揃っていた。

 左手の座敷席には、手前にバラル、隣に最上、その向かいには……なぜか石田管理官もいた。史狼は店員にうなずいて、バラルの正面に腰を下ろした。


「すみません、遅くなって」

「いや、僕たちが早く着きすぎてね」


 最上はウーロン茶を飲んでいる。まだ仕事が残っているらしい。刑事さんにもお礼を言いたい、というバラルの希望で、史狼は最上にも声をかけた。そして今日、一週間後の日曜日。三人はそれぞれ現地集合することにしたのだが……史狼はちらと隣の石田に目をむけた。


「大丈夫だ。私は自腹だ」

「全員分、おごってくれてもいいんですよ。石田さん」

「いや、今日はぼくのお礼なんで!」

「すみません、バラルさん。石田さんがもんじゃを食べたいと言い張るもので」

「おい、最上。言い張ってはないぞ。ただずっと都内に住んでいるのに、そういえば一度も食べたことがないと思ってな。機会を逃したら、このまま一生食べ損ねるかもしれんと思ってだな」


 史狼はうつむいて吹きだした。素知らぬふりで顔を上げると、最上と目が合う。冗談めかすように軽く片方の眉を上げられた。史狼は反応に困って目をそらした。




 ナナたちと警視庁に行った夜、史狼は最上と立ち話をした。

「ほんとに、ありがとうございました。あの……助けてもらっといて今さらなんですけど。なんで……助けてくれたんですか?」

「僕は刑事だからね。事件解決のために協力するのは当然だろう?」

 善良そうな笑みをむけられ、警察官とはそういうものか、と史狼はうなずいた。最上の視線が動く。その先には、ソファに座るナナとまどかの姿があった。最上の親身な態度に、二人ともすっかり心を開いた様子である。二人はなにかを話しこみ、史狼たちから注意がそれていた。最上はすっと身をかがめ、史狼の耳にささやいた。

「……ほんとうはね。同居人に恩を売っておこうと思ったんだ。懐柔できるんじゃないかって、ね?」

 史狼と目が合うと、最上は片方の眉をふっと上げた。冗談とも本気ともつかない笑顔だった。




 目の前では、じゅうじゅうと美味そうな音を立てて、もんじゃが焼き上がっている。史狼が注文したのは、豚肉とイカと麺が入った、店の看板メニューの特製もんじゃだ。最上と石田も同じものを、バラルは明太子もちチーズもんじゃを頼んでいた。バラルは豪快に切り分けて、最上は器用におこげを作って、石田は細かく皿に運びながら、それぞれ口に運んでいる。変わった面子ではあるが、意外にも雰囲気は和やかだった。今は余計なことを考えるのはよそう。はがしと呼ばれるヘラで、史狼は端をこすり取る。熱々をひと口食べると、ほろりと出汁の旨味がひろがった。



 西仲橋の対岸が夕陽に染まっている。


 店の前で別れ、史狼以外の三人は月島駅へ、彼はマンションへと歩いていく。鉄板焼き飯とウインナーバターを追加で頼み、腹がぱんぱんだった。こうして誰かと飲み食いするのは初めてのことだ。

 どこか浮かれた気分で歩いていると、マンションの前にトラックが停まっていた。引越し業者のマークが書かれている。荷物が運びこまれているから、入居者だろう。

 史狼は横目で見ながら、エントランスに足を踏み入れた。


「すいませーん、お先にどうぞ!」


 冷蔵庫を抱えた作業員たちが、エレベーターに目をむけた。史狼は会釈をかえし、急ぎ足でエレベーターに乗りこんだ。背後から「すみません、ご迷惑をおかけします」と声がかかる。聞き覚えのある声だ。


 全身が総毛立つ。

 嫌な汗をかきながら、史狼は背後を振りかえる。

 一メートルほど後方で、男が目を丸くして立っていた。


「……なんだ、あなたでしたか。こんな所で会うなんて奇遇ですねえ」


 にっと笑う一色の顔が、扉に隠されていった。

◆読者の方へ◆

初めましての方もお久しぶりですの方も、ここまでご覧いただき本当にありがとうございます!今話で第二章が終わります。皆さまに少しでもお楽しみいただけましたら幸甚です。明日の第三章からは、一日1話ずつ(夜までに)投稿してまいります。引き続き、史狼と最上の今後の活躍をご覧いただけましたらとても嬉しく思います。


もしもブクマや評価、ご感想等をいただければ、スマホの画面越しに作者が「ひゃっほーい!」と心の内で小躍りいたします……ので、もしもお気持ちが向かれましたら応援してやってください(^^)


・バラルの愛読書は『紫色のクオリア』(うえお久光著.電撃文庫.2009)です。

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