2-6 ごめんね、わたしは知らないなあ
ナナという女性は、一年前から店で働いているのだという。この春にまどかが入店して、最初に声をかけてくれたらしい。まどかと年齢も近く、互いに気が合ったそうだ。
「あたし、ヘルプだからどの派閥にも属してないんだ。だからそんな親しい子もいないんだけど、ナナは気さくに話しかけてくれんの。すごい優しくていつもニコニコしてて……でも先月からずっとソワソワしてて、なんか落ち着かなくてさ。彼氏がいるんだけど、別の男が気になってるんだって。その男が……ネパール人だって言ってた。彼氏の仕事関係で知り合ったって」
「彼氏の仕事?」
「……ヤクザだって」
まどかの声が低くなる。心が不安に押し潰されそうだ。
「……ねえ。あんた、なにか知ってんの?」
胸に湧き上がるのは、真摯にナナを思う感情だけだ。
史狼は目的を打ち明けることにした。高校時代については、ひとまず保留にしておこう。
◆
そっと扉を開けて、史狼は胸を撫でおろした。よかった。事務室に店長はいない。昨日の今日で、まだ顔を合わせるのは気まずかった。
「おはようさん」
わざと時間をかけて振りかえる。店長がいた。狐のような目が、笑うとさらに細くなる。史狼はぱっと頭を下げた。
「やっぱ昨日、新大久保いってもたわ。知ってんか? Bビルの二階になあ、めっちゃディープな店があんねん。ここ日本ちゃうやろ、ネパールやろっていう」
「……あの」
「なんや」
「昨日はすみませんでした」
「ああ?」
「余計なことを言って、ご迷惑をおかけしました」
「昨日は昨日ぉ~、今日は今日ぉ~」
口ずさみながら通りすぎ、店長は音を立てて椅子に座った。
「……あ。せやけど、あの客の代金は給料から差し引くで? ノーチャージにしたし」
顔を上げて言い、また鼻歌まじりでパソコンに視線を落とす。
「あの……店長」
「なんや? いやや言うても差し引くで?」
「いえ、それはいいです。俺が悪いんで。あの……ナナさんは今日も休みですか?」
「ナナ? ナナは~~~」
デスクに置いたスマホを見て、店長はへらりと笑った。
「来るんちゃう? 欠勤の連絡もないし。いいかげん出てこな、罰金がえらいことになるで」
どしたん、と首を傾げる店長に、愛想笑いでごまかした。
◆
店長の言葉どおり、ナナは八日ぶりに出勤してきた。色白で少し垂れ目の、可愛らしい女性である。週末でどのテーブルも賑わい、ナナはせわしなく動きまわっている。まどかが言うには、ナンバークラスのキャストで指名も多いらしい。声をかける機会など、まるでなかった。
閉店後、新宿駅のそばの喫茶店にやってきた。この店を指定したのはまどかである。仕事終わりにナナを連れてくると言い、待ち合わせることになったのだ。営業が終了しても、黒服は片付けの業務が残っている。店長が途中で抜けさせてくれたが、まどかたちはもう奥の席に座っていた。
「すみません、お待たせしました」
「遅い」
「いいよ~、忙しかったでしょ? ほら、飲んで飲んで」
ナナは笑ってメニュー表を開いてみせた。礼を言い、ホットのカフェラテを注文する。まどかとナナの前には、それぞれ、珈琲フロートとミルクティらしき物が並んでいた。
「珍しいな、24時間営業の喫茶店なんて」
「でしょ、便利なんだ。駅チカだし。たまに来て、朝まで話してんだよね」
ね、とまどかが笑うと、ナナもにっこりとする。しかしよく見れば、目の下の隈が露わになっていた。
「でさ、どうしたの? 一週間も休むなんて。担当は夏風邪って言ってたけど……ほんとに?」
「……はは。なんかちょっと疲れちゃって」
ナナはカップを包みこみ、ぼんやりと中身を眺めている。ようやく思い出したように、ひと口飲んだ。
「ナナさん。この男性を知りませんか?」
史狼はテーブルにスマホを置いた。同居人の写真を見せる。
ナナの目がはっと見開いた。
しかしすぐに笑って、彼女は首を横にふる。
「知らない。ごめんね、わたしは知らないなあ」
テーブルの上の、彼女の腕に手をのばす。
史狼はその目をのぞきこんだ。
「嘘です。知ってますよね?」
心が凍てつくようだった。
叫びだしたい思いを堪え、史狼はナナから手を離さなかった。
吹き荒れる。
この胸に湧き上がるのは……なんの感情だ?
荒涼とした。
苦しい…………なんでだ?
男が埋まっている。
男が…………埋まって、いる?
史狼はぎゅっと目をつむる。
ああ…………この感情は。
……………………絶望か。
「…………ナナさん。この人は……亡くなってるんですか?」
今すぐにでも泣き喚きたい。渦巻く感情が、史狼の胸を支配している。
ナナは平然とした様子でカップを見つめている。心にこんな感情を隠しながら、そんな態度が取れるのか。さすがナンバークラスだな。頭の片隅で、どこか冷静な自分が考えていた。
それでもナナの苦しみは、どこまでも湧き上がってくる。
「ねえ、ナナ……あんたやっぱり、なにか知ってるんでしょ? 話そ、ね? あんた……なんかいつもと違うもん」
笑って首を横にふり、ナナはカップから手をはなした。ふっと真顔になり……彼女は静かにテーブルに突っ伏した。花柄のブラウスがかすかに震えている。声を殺して泣いているのだ。
史狼はずっと彼女の腕をつかんでいた。
一分、二分……掛け時計の秒針がまわっていく。
おもむろにナナが顔を上げた。長く息を吐きだして、ハンドバッグから金の鏡を取りだした。ずれたつけ睫毛を剥ぎとっている。
「あーあ。やだな……顔、ボロボロだし」
まどかがウェットティッシュを渡すと、「ありがとお」と受け取って、とんとん、と顔をこすった。
「きみ……オオカミくん、この人探してるんだ?」
「はい。俺の友だちの同居人なんです。一週間前から行方不明で」
「うん……知ってる。知ってるけど……」
「…………もう亡くなってるんですね?」
ナナは子どものようにうなずいた。
最初は彼氏が連れてきたんだ。ヤクをさばかせてる子たちの一人でね。純粋そうな子だったから、あんまり染まらないといいなって思ってたの。だんだん、彼氏がいない時も、うちに遊びに来るようになって。わたしのことが好きだって……彼氏がなにするか分かんないし、別れられないって言ったらさあ、一緒に自分の国で暮らそうって言うんだもん。びっくりするよねえ……ナガルコットって村の出身で、ヒマラヤ山脈が一望できるんだって。朝陽も夕焼けもすごいきれいなんだって。わたし、いいなあって言っちゃったの。いいなあ、そんな人生だったらよかったなあ、って言っちゃった。ばかだよねえ……そんな言葉本気にしてさあ。商売用のヤクを盗んで金を作るから、一緒に出国しようって。ばれるに決まってるじゃんね。彼氏、殺さないって言ったんだ。正直に打ち明けたら見逃してやるって……ばかだよねえ。わたしもさあ……そんな言葉真に受けるとか。ほんと……ばか。
震える両手でカップを持ち上げ、ナナは口元に運んだ。
まどかの手が優しく背中を撫でている。
「あんたは? 大丈夫だった?」
ナナは薄く笑って、ブラウスの裾をめくってみせた。まどかが顔をこわばらせる。腹部から背中にかけて、青黒いあざが何箇所もできていた。
「商売道具だから。顔とか、見える場所には作らないんだ。ちゃっかりしてるよねえ」
「警察に行きましょう」
ナナは黙ってカップを見つめている。
「自首しましょう、ナナさん」
「……今さらだよ。警察に言って、あの子がかえってくるんなら……捕まっても、わたしが死んでもいいけどさあ」
「その男と付き合い続けたいんですか?」
「……わたしも共犯だもん。あいつと離れて、今さらやり直しても」
「ナナさ……」
「やだよう」
史狼は口をつぐみ、目の前の二人をながめた。
ぼろぼろと涙を零しながら、まどかがナナに抱きついている。ナナは目を大きくして、されるがままになっていた。
「あんたをこんな傷つける男とかやだよ。あんた、あたしの恋バナも笑って聞いてくれたじゃん。振られたっつったら、一緒に怒ってくれたじゃん。こんなことされながら、そいつと付き合ってくとか絶対やだ。ナナはあたしよりずっといい奴だもん……絶対やり直せるし」
ナナは駄々っ子をあやすように、まどかの涙をぬぐった。
「ありがと、蘭。でもさあ、あの子は死んだんだよ? わたしだけやり直すとかずるいよ」
「ばか! あんたがこのままだったら、その子も心配で成仏できないんだから!」
真剣に怒るまどかに、史狼はふっと微笑んだ。そんな自分に驚いて、思わず口元を手でおおった。
「…………うん。そっか。そうかもね。でも警察って……どこに? わたしなんかの話、ちゃんと聞いてくれるかなあ」
史狼はスマホを耳にあてた。深夜にも拘わらず、相手は数コールで応じる。今夜もまだ警視庁にいるのだろうか。刑事も大変だな、と軽い同情をおぼえた。
『どうした? 史狼くん』
『同居人の行方がわかりました』
事のあらましを、彼は最上に報告した。




