2-5 黒服としては失格
翌日もまた、スーツに着替えて出勤した。事務室の鏡に映るのは、前髪を後ろで留めた自分……母親にそっくりの顔だった。濃い茶色の眼、眦のくっきりとした二重、少し突き出した赤い唇と、細いあご……鏡のむこうで、その顔が自分を睨んでいる。史狼は後頭部に手をやった。ヘアゴムを外したい衝動に駆られ、すぐに首を横にふる。だめだ。ここにいる間は我慢しなければ。ふうと息を吐いて、史狼はロッカーを閉めた。
「おはようさん。早いなあ、感心感心~~~」
テンション高く扉を開けたのは、店長だ。昨日、彼をバックヤードに案内した男である。出身が大阪だそうで、接客中のとき以外は関西弁を喋っている。奥のデスクでパソコンを開き、ふんふん~~と鼻歌を唄っている。史狼はその前に立ち、黒いスーツの肩に手をのばした。
「んん?」
「糸くずがついてます」
「ああ、ありがとお」
「店長」
「なんや」
「ネパール人を知りませんか?」
ふわりふわりと感情が湧き上がる。
美味そうな……カレー? スパイス? 口のなかに唾液が……。
「……店長、お腹空いてませんか?」
「せやねん! 今日寝過ごしてしもて、飯食い損ねてん。ゼリーでも飲も思てんけど……ネパールかあ。ええなあ。帰り、新大久保寄ってカレー食ってこかなあ」
「……いいですね」
史狼は半眼になり、糸くずを捨てる仕草をした。扉に向かいながら、心のなかで呟く。いや、うん、良しとしよう。とりあえず店長はシロだ。
「せや、新入り~~オオカミくん! 一緒にどうや?」
「や、いいです」
史狼はにっこりと笑い、扉を閉めた。このままでは表情筋がつりそうだ。
◆
「やめてよ‼」
音楽に混じり、悲鳴じみた声が耳に入った。
史狼はホールに目を走らせた。テーブルのあちらこちらで、嬌声が上がっている。手を叩いているキャスト、笑い転げる若い男の客。赤ら顔の老年の男、その手を握って自分の膝に置くキャスト。その奥の席では、中年のサラリーマンに腕をつかまれたキャスト――まどかがいた。史狼は周囲を見まわした。あいにく、黒服たちは他のテーブルに散らばっている。店長も見当たらない。サラリーマンの男は、しつこくまどかに触れようとしていた。
考えるより先に、足が動いていた。
男の腕を引き寄せ、史狼は手首をひねり上げた。まどかが目を大きくしている。男の息は酒くさい。だいぶ酔っているようだ。
「ああ? なんだよ、おまえは」
「お疲れ様です」
男がぐにゃりと顔をゆがめる。
「おまっ……なに馬鹿にして」
「会社で理不尽なことがあったんですね?」
「……はあっ?」
「理不尽で……腹が立って……でも我慢した。給料をもらってるから……ですかね。それでこの店に来て、すっきりしようと……キャストたちだって仕事なんだから、自分だって我慢したんだから……彼女たちだって我慢すればいいって……そういうことですか?」
「なっ……な……」
「我慢は……家族のためですか? 子どもがいますか? まだ小さい……不機嫌なまま帰りたくないから、どこかで気分を変えようと……優しいんですね」
「お……おまっ……なんでうちの……」
「でも彼女たちも、あなたの家族と同じ、人間なんですよ」
「は……?」
「あなたの理不尽をぶつければ、彼女たちだって傷つきます。それに彼女たちも今度は、自分の家族や幼い子どもにぶつけるかもしれない」
「な……」
「そうやって、結局いちばん弱い立場の人間が犠牲になるんです」
「…………」
「せっかくなら、楽しいお酒を飲みませんか?」
「……うるせ」
「申し訳ありません‼」
男の手首を解放して、店長が床に片膝をつく。
じろ、と見上げられ、史狼も同じ姿勢をとった。
店長は深々と頭を下げた。
「物を知らない新人が、生意気なことを申しました。大変失礼いたしました」
「あ……ああ、そうだ。失礼だぞ」
「どうかまた日を改めて、お越し願えませんか?」
「ふん……いや……いい。もうこんな店はいい」
史狼を一瞥すると、男はそそくさと席を立った。
男を見送る店長が、背後を振りむき、あごをしゃくった。
【う・ら・に・い・け】
口パクで伝えて、男とともに入口に消えていく。
まどかの視線を感じたが、史狼はグラスを持ってカウンターに戻った。
◆
「あほちゃうか。客に説教してどないすんねん」
「……すみません」
店長のデスクの前で、史狼は頭を下げた。
「ああいう客はたまにおんねん。セクキャバと勘違いしてんねや。おさわりは禁止やっちゅーてんのに。なあっ‼ 蘭~~~‼」
かた、と事務室の扉が開いた。まどかが居心地悪そうに入ってくる。ずっと扉の前にいたようだ。
「オレ、なんて言った? ん~~~?」
「……注意しても聞かない客なら、自分で何とかしようと思うな。席を立つか、近くの黒服に合図しろ」
「やんなあ? セクハラを我慢しろなんて言うてへん。せやけど、他の客もおるからな。騒ぎにして場が白けるのはあかんやろ、みんな楽しく飲んでんねやから」
「……はい。すみません」
「おまえはもっと人に頼れ。で、おまえは……黒服としては失格や」
冷ややかに言われ、史狼はもう一度頭を下げた。彼とまどかを順に見て、「今日はもう帰れ」と、店長は手で追い払う。クビになるのはまずい。史狼の表情を読み取ったように、店長が口を開いた、
「オーナーの頼みやから、クビにはせえへん。けど、次はないで?」
「はい」
すみませんでした、と謝って、史狼は荷物をまとめて扉にむかった。まどかはすでに部屋を出ていた。
「……人間としては正解。黒服としては失格」
え、と史狼が振りむくと、店長は何食わぬ顔でパソコンを眺めていた。
◆
裏口から店を出ると、まどかの姿があった。
言葉を探しあぐねる史狼に、彼女が口火を切った。
「……助けてやったとか、思わないでよ」
「別に思ってない」
内心イラっとしたが、顔には出さないようにする。そのとおりだと思ったからだ。あの男の感情がわかって、つい余計なことまで喋ってしまった。やはり黒服か店長を呼びに行くべきだった。
「オーナーの頼みって……なんなの、あんた。ただのバイトじゃないわけ?」
「……そう」
「それって……この前の話となんか関係ある?」
まどかが上目遣いでこっちを見る。気の強そうな顔はそのままで、しかし、声には不安が見え隠れした。史狼は彼女の肩にふれた。薄いショールを羽織っただけの肩は、ひやりと冷たい。
「やっぱり……なにか知ってるんだな?」
「…………ナナが。六日前から……ナナが休んでるの」
長い睫毛を伏せて、まどかは声を震わせた。