2-4 あたしはいいよ~三人でも
深夜1時をまわって、残った客も一人、また一人と店の外に消えていく。
音の止んだ店内でグラスや皿を下げていると、まどかに「外で待ってるから」と耳打ちされた。史狼が顔を上げたときには、もう、他のキャストたちとバックヤードに向かっていた。
終電など関係ないように、通りにはまだ人がざわめいている。水商売らしき女たち、キャッチの男、黒人の男たちが数人、史狼の前を通り過ぎていく。眠らない街、という言葉がぴったりだな、と史狼はぼんやりと思う。慣れない仕事のせいか、緊張のためか、肩が重たく凝っている。ぐるん、と首をまわしかけ、史狼はそのまま固まった。視界の端に、無愛想なまどかが立っている。
「遅い」
「ごめん、初日で手間取った」
足を踏みだした瞬間、背後から両腕をまわされた。
どろりと熱が湧き上がる。
…………気持ちが悪い。
「ちょっと。なに抱きついてんの、ユカ」
「え~~~オオカミと呑みにいこーかと思って! 蘭こそなにしてんの? 明日大学でしょ? 帰んないのお?」
「いやこっちが先約だし」
まどかに肘を引き寄せられ、ユカの腕から解放された。
「けちい。じゃあ一緒に呑みいこ! あたしはいいよ~三人でも。蘭かわいいもんねえ」
「ないから。あんた呑みすぎ。倒れる前にとっとと帰んな」
抗議するユカを引っぱって、まどかは送迎車に押しこんだ。背後を振りかえり、史狼を一瞥すると、通りにむかって歩きだす。付いてこい、という意味だろう。白いカーディガンを着た背中を追いかけた。
◆
通りの角の植えこみに座り、まどかは「おつかれ」と缶コーヒーを差しだした。途中の自販機で買ったものだ。史狼は礼を言って受け取った。まどかの手には、果汁ゼロのジュースの缶が握られている。タブが引かれ、小気味いい音が立つ。
「……ぷは。で? あんた、こんなとこでそんな恰好で何してんの?」
「……蘭?」
ぼす、と腹を殴られた。けっこう痛い。
「うっさいな! 本名で働かないでしょ! で、なんで?」
「……別に。ただの仕事」
「あんた目立つの嫌ってたじゃん。なに? 心境の変化?」
「金。稼ごうと思って」
「なに? ……お母さんの調子わるいの?」
「あ、いや、そういう意味じゃない。てか、まどかこそ何で?」
「あー、あたしは学費がギリだから。入ってるのは週二だけ」
さらりと言って、まどかはジュースを飲んだ。ああ、そうだ。東京の大学に進学するのだと、高三のとき噂で聞いたことがあった。
耳の横で巻いた髪をもてあそび、彼女はちらと史狼を見上げた。また視線を下げる。髪から手をはなし、まどかは睨むように視線を上げた。
「あんたさあ……嫌でしょ? わざわざ東京であたしと再会するなんて」
史狼は答えなかった。まどかの口調が苛立つように速くなる。
「でも悪いけど、あたし辞めるつもりないから。あの店、待遇いいし。店長もいい人だし。だから……あんた、まだ初日でしょ? 他の店に移ってくれない?」
きつい眼差しを向けられて、史狼は浅い笑みをうかべた。
やっぱり……こいつは高校のときと同じなんだな。
缶コーヒーを飲み干して、史狼はまどかを見下ろした。
その薄い肩をつかむ。思ったよりも乱暴な動作になってしまった。
「な……なによ?」
困惑。苛立ち。それから…………史狼は目をみはった。
嬉しさ?
史狼の視線に戸惑うように、まどかがふっと目を逸らす。
おい、落ち着け。
まどかの俺に対する感情なんて、今さらどうでもいいだろう?
自分に言い聞かせて、史狼は短く息を吐いた。
そうだ。今、大事なのは……。
「……なあ、まどか。この店で麻薬をやってる奴を知らないか?」
まどかの感情を利用して、同居人の行方を見つけることだ。
史狼の胸に、驚きと怒りが湧き上がる。
「はあ? なに言ってんのあんた。夜の世界だから何でもアリだって思ってない? うちの店はね、そういうの禁止なの! 店長もオーナーも麻薬とか嫌いなんだから」
嘘ではなかった。まどかの怒りは疚しさではなく、正義感からくるものだ。キャストやスタッフが、同居人から麻薬を買っていたわけではないようだ。まどかが知らないだけかもしれないが。
「そうか……じゃあ、誰か、ネパール人と知り合いの奴とかは?」
「…………ネパール人?」
ざらりと不穏な思いが湧き上がる。
ビンゴ。
「ああ、この男だ。こいつを見かけたり、誰か親しい奴を知らないか?」
史狼はスマホを取りだした。昨夜バラルに送ってもらった、同居人の写真を見せる。二十代前半ぐらい、太い眉を上げ、快活そうに笑ってピースサインをしている。
「……知らない」
鼓動が速くなる。不安が胸に湧き上がる。
「嘘。知ってるんだろ? 教え……」
「知らないっつってんでしょ‼」
ぐふ、と呻いて、史狼は腹を押さえた。
本気のパンチである。
さすが元ヤン、いや元ギャル、いや今もギャルか。
顔をしかめる彼をにらんで、まどかは通りかかったタクシーを停めた。
「おい! 待てよ。タクシー代ぐらい払う……」
「自分で払うし! あんたは早く店から消えて!」
バタン、と扉が閉まる。タクシーは車の列に紛れて、まもなく見えなくなった。
◆
史狼はネットカフェで始発を待ち、マンションに戻った。
シャワーを浴びて、ソファに倒れこむ。疲れた。軽く頭痛がして目をつむる。なぜこんな事態になったのか。史狼は長いため息を吐いた。いや、収穫はあったじゃないか。そう自分を励ました。少なくとも、あの店には同居人の顔見知りがいるらしい。最上は確かにヒントをくれたのだ。
ちら、と隣の部屋を見た。最上の寝室である。引っ越しから約十日間、一度も入ったことはない。まだその勇気が出なかった。いや、本来は他人の寝室になど、入るべきではないのだが――史狼は木目調の扉に目を凝らす。最上が人殺しならば、なにか証拠が隠されているのではないか。そんな疑念を抱いていたら、明るい茶色の扉も禍々しく見えてしまう。
史狼はソファから起き上がった。
いいかげん、確かめてみるか。
扉に手をかけて、そっと横にスライドさせた。広さは居間より少し狭い。六畳程度だろうか。左手にはウォークインクローゼット。扉に立つ史狼の正面に、ベッドと窓がある。右手には本棚と黒い机、その上にはノートパソコン。こざっぱりと整った部屋は、最上の印象そのままだ。
史狼は鼻をひくつかせた。かすかに煙の匂いがする。正体はベッドのサイドテーブルだった。ガラス製の灰皿が置かれている。吸い殻は入っていない。喫煙者だったのか、と史狼は目をしばたたかせた。この家で匂いを気にしたことはない。史狼は居間を振りかえった。テレビの横で空気清浄器が稼働している。そのおかげかもしれない。ふと手前のテーブルに目をやった。木目の天板に、日向の名刺がのっている。史狼は数秒の間、その名刺を見つめた。……そうだ。この件に関しては、最上は言葉どおり助けてくれたのだった。
「……もう少しだけ、様子を見るか」
言い訳ができたことに安堵して、そんな自分に苦笑いする。正直なところ、うっかり血のついた包丁でも見つけてしまったら、どうしていいか分からない。まだ心構えができていなかった。
史狼は静かに扉を閉めた。
ごろん、とソファに身体を投げだす。この事件が解決したら、あの予備校にも潜入してみようか。あれから一色とは接触していない。何度か予備校の近くに行ってみたが、中には入りづらかった。学生になれば自由に動けるかもしれない。でも金がかかるな……などと、とりとめもなく考えていると、意識は眠りのなかに沈んでいった。