第8話 赤い稲妻
「はぁ、はぁ、ホントに、なんなんだっての、コイツら!」
息を切らしながら、香里奈は自分の自宅へと向かい、暗い夜道を走り続けていた。走る理由は背後にまで迫ってきている襲人達から逃げる為だ。
奴らは酔っ払いのようにふらついている割には動きが速く、追跡速度は香里奈の疾走と変わらない。
そして、彼女が正面と真横の2つに枝分かれた道に差し掛かった時だった。
「ウッ、しまっ!」
香里奈は足のはみ出しを失敗し、地面に転んでしまった。彼女はもう足が攣りながらも走っていたので、もう立てそうにもない。もう何分も走り続けていたことを考えれば、そうなるのも無理はない。
しかし、死は背後にまで迫ってきている。もう逃げようがない。
「クッ、ソ……」
痛む足を抑えながら、目の前まで迫ってきている襲人達を見据える。
数は10、男女もバラバラ。肌と髪は白く変色し、皮膚もボロボロ。目は生を感じない虚なものであり、光すら存在しない。
その姿は歩く屍、まさにそのもの。
「ヴううぅ」
「ま、ずいっ……! クッ」
香里奈は少しでも奴らから逃れる為に、倒れる体を引き摺らせながら距離を取ろうとする。しかし、それだけでは奴らから逃れられない。奴らは彼女のスピードよりも圧倒的に速い。距離は積められる一方だ。
あっという間に詰められる距離。その中で先行していた1体が最初に香里奈の前までたどり着き、倒れる彼女に虚な目を向ける。
そして、彼女に飛び掛かろうとした。
だがその時、赤い稲妻が香里奈の視界の端に現れた。
「キーック!」
稲妻はそう叫ぶと、襲いかかる襲人の横顔に対して両足による飛び蹴りを喰らわせた。
蹴られた顔は一瞬グニャリと歪んだかと思うと、トマトのように簡単に潰れ、血飛沫を飛び散らせながら吹き飛び、横の壁に激突する。そこで活動を停止し、その白い体を黒くし溶けた。
「オーナー? 生きてます?」
赤いそれは正体を表す。
稲妻の正体は、麻火恵であった。
「……式日原?」
「はい、貴方様の新人の式日原 麻火恵です。私が来て早速で悪いですけど、どこか隠れててもらえます? できるなら、目も瞑ってくれると助かるんですけど」
麻火恵の願いを聞いた香里奈だったが、それを聞くと動かない足を目で見る。
「悪いが、これじゃあ隠れるどころか立ち上がるのもままならない。だから私に気を使わずにやってくれ」
今の彼女では動けない。それを理解した麻火恵は自分の今走ってきた道に目を向ける。そして優しく微笑む。
「大丈夫です、そろそろですから」
「そろそろ?」
聞き返した瞬間、麻火恵が目を向けていた道から声が聞こえる。
「クソ! マジでやらかした! ごめん!」
道の先から、後悔と謝罪が混じった声を上げながら、1人の青年が走ってきた。
「只見か?」
全力で走ってきた春乃は、膝に手を突き息を切らしながら麻火恵に言う。
「ハァ、ハァ、走って向かってる途中に、ハァ、近くにいた何体か、引き連れて、ハァ」
呼吸がままならずなんと言っているのか分かりにくいが、要は、彼はここに向かってくる途中に近くにいたもう何体かの襲人達も連れてきてしまったらしい。
その言葉に香里奈は顔を歪めるが、麻火恵は表情を崩すことはなかった。
「ああハイハイ分かったー。それもやるから、アナタはオーナー連れて下がってて」
それどころか、ついで感覚でやってしまう気のようだ。
だが春乃はそこには触れず、素直に「分かった」と言いそれを受け入れた。
香里奈に肩を貸し、使えなくなったの代わりをすると、横で支えながら麻火恵に告げる。
「無理するなよ」
それに対して「ハイハーイ」と軽い感じで返され、少々不安に思ったが、春乃は触れることなくその場を離れ、すぐ近くにある曲がり道に身を隠した。
「さて、と」
一方麻火恵は、2人が安全圏内に入ったことを確認すると正面へと向き直る。
数は春乃が連れてきた数を合わせると20近く。かなりの数になるが麻火恵からしてみれば問題ではない。ただ弱い者達が密集してるだけにしか捉えていないのだろう。
麻火恵は体を伸ばし、動く前の準備運動をする。ここ最近は多数相手にしてなかったこともあってか、念入りに。負けるとは一切思ってはいないが、動かしすぎて勝手に怪我をしてしまうかもしれない可能性は少しだけ残っているが故だ。その間ほんの数秒。だがそれだけで彼女の準備は完了した。
不敵な笑みを浮かべ、視界にいる敵に的を絞る。
「それじゃあ、始めよっか!」
瞬間、再び稲妻が弾けた。
超人的脚力で蹴り出した1歩は一瞬で目線の先にいた1体に肉薄。そして音速と同等以上の速度で拳が放たれ、その襲人の頭部を粉砕する。
果実のように頭は弾け、ボトボトと肉片が落下し、血を撒き散らす。
彼女は返り血を浴びるが、慣れているのか気にする素振りを見せない。それどころかすぐに目玉をギョロッと動かし、次の標的に目線を送る。
「はい次ー」
続いてすぐ側にいた次の標的に対し、回し蹴りをお見舞いする。遠心力により威力が上がった踵の一撃は、またもや敵の頭蓋骨を砕き、吹き飛ばして活動を止める。
麻火恵は蹴りつけた勢いのまま方向を変え、また次の標的へと向かう。
そこから先も無双状態だった。
飛びかかる敵は足を止めた拳の一撃で潰し、複数で来る敵は数の力すら感じさせずに殴り、蹴り、潰す。その動きと判断の速さは、もはやどこかの戦闘民族のようだ。
だが10体を相手した後の記念すべき11体目、今度の敵は少し違った。
「へぇ〜、得物を使うなんて、賢い個体もいるんだね?」
その光景に麻火恵も驚く。
なんと、目の前にいた襲人の内の1体が鉄パイプを持って近づいてきていたのだ。これは、麻火恵にとっても初の体験だった。
普通のウイルスを発症した個体ならば、物を扱う、などというこという知能すらなくなる。手に持つ程度はできるかもしれないが、使おうとはせず、ただ持っているだけ飾りのような扱いだ。
しかし、この個体は違う。武器として使えるものは使う。現に鉄パイプの端をしっかりと握り、鈍器としての扱いを分かっているようだった。
それはつまり、効率を知っているということだ。そんな個体はかなり珍しい、イレギュラー的存在だ。
鉄パイプを持つ個体は、麻火恵に対して大きく振りかぶり、頭に思いっきり叩きつけた。ガンッと、金属が叩きつけられる音が響く。
普通なら今の一撃を喰らわされたら絶命ものだ。そのままばたりと、凹ませた頭を地面に落とすのが普通な筈だ。
しかし、それは無意味に終わる。
彼女がそれで倒れることはなかった。それどころか、血を流すことも、凹むこともない、アザすら出来ていない完全な無傷だ。
麻火恵は頭に乗っかっている鉄パイプを掴み、隠れてた瞳を表す。
「こんな粗末な物で私を傷つけられるとでも? 残念、無傷でしたー。もっと両手で思いっきり振ってればワンチャン痛かったかもしれないけど、片手じゃあ、ね? ドンマイッ」
完全な煽りである。
そのまま彼女は、もう片方で作っていた握り拳をやられたのと同じように振り上げ、思いきり振り下ろし、やり返した。赤いトマトジュースが噴水のように噴射し、敵の顔は脳天からグシャグシャに潰される。
麻火恵は敵の手から剥がれた鉄パイプを握り、ブンと試しに振ってみる。
「うーん、悪くないかなぁ。でもこれじゃあカッコ良くないし、ちょっと加工するか」
誰かいるわけでもないのに独り言を呟く。
瞬間、鉄パイプに変化が起こる。
まるでスライムのように軟質化したかと思うと、その形は一人でに変化しだし、やがて西洋の剣の形そのものとなった。
変形し、形となった剣を再び振り直す。そして頷く。
「うん、これなら振りやすい。じゃあ今度はこれでしよっかな」
片手に剣を持った少女が舞う。手に握られた剣は鋼並みの強度を誇り、その切れ味は折り紙付き。
「てやー」
気の抜けた声による斬撃。それは襲人の頭を脳ごと綺麗に輪切りにする。
脳が機能しなくなれば、彼らは動くことはない。故に潰さなくても、切り伏せれば何の問題もない。
血は遅れて吹き出たが、吹き出す前に彼女は次の標的に向かって移動を開始していた。
殴った方が威力があるのだが、スピードや効率を考えると武器を使った戦闘の方が速い。使い分けによってその戦い方も変わるのだ。絶対そうというわけではないので、要は場面による使い分けだ。
「今回はこっちの方が速いかな? まだもうちょっといそうだし、素手はなんだかんだで疲れるし。あれ? 独り言多すぎ? じゃあ黙ってやるかー」
お喋り大好きな彼女は独り言を軽い感じで呟き続けて何故か申し訳ないと思ったのか、話すのをやめることにした。
そして、目の前で未だに残る敵を見据える。数はかなり減ったが、まだまだいる様子だ。ならば、隠れる2人を怖がらせ続けるわけにはいかないので、さっさと殲滅してしまおう。
そう思った麻火恵は再び高速で走り出し、敵の群れへと飛び込んでいった。
☆☆☆
「す、凄いな、あれ」
2人は分岐していた片方の道先にあるもう1つの2つに分かれた分岐点で左に曲がり、その陰に身を隠していた。
春乃はその陰から顔を少し出し、戦う麻火恵の姿を眺めていた。ここからあの場までは少し距離があったので、夜も合間ってか見えにくかったが、遠くから見ても分かるその化け物振りに彼は圧倒される。
あの動き、感染者のレベルを優に超えている。
襲人病ウイルスが肉体へ作用しているのもあるのだろうが、それだとしても動きがおかしい。身体能力の強化だけなのか、あれは? 普通、人の肉体を拳の突きで貫通させることなんて、たとえ強化されていたのだとしても不可能に等しい。となると、あれはまた別なものによる強化なのかもしれない。
加えてあの戦闘技術。1ヶ月の経験では説明がつかないほどに磨かれている。
元々なにかを長年習っていたのか? そうでもしないと、素手と武器をあんな巧みに使いこなせることはできない。
それとあの超能力、なんなんだあれは? 確かに春乃にも能力はあるが、あれに関してはよく分からなかった。
鉄パイプを剣に素材ごと書き換える。
見たところ、物質の素材と形状が1人でに変わっていたようにも思えた。
春乃にはよく理解できていなかった。
それもその筈。あれはもう常人の理解を遥かに凌ぐような、よく分からないものだ。そんなのを見たところで、出てくる感想は自然と口の中から出てくる「凄い」以外にはない。
「大丈夫なのか? 彼女」
側で疲労に加え、つってしまった足をほぐす香里奈は、春乃に尋ねる。
そんなこと、春乃に分かる筈ない。今彼女にどれだけ余裕があるかなんてここからじゃ読み取れない。だがそれでも、春乃は答えた。
「大丈夫ですよ、多分。あれだけで死ぬ奴じゃないでしょう」
「そういえば、彼女もお前と同じ適合者なんだろう?」
「はい。でも俺よりも彼女の方が強いんで、より強く適合したのは彼女のほうかと」
「ほぇー。というか、私の店戦闘力高すぎだろ」
香里奈は今更の事実に驚く。
「戦闘力って、俺のカウントはやめて下さいよ。現に今、俺は戦っていないんで」
「まあ確か言われてみれば。それじゃあなんなんだい? お前の強みは?」
その言葉に、春乃は眉を歪める。
彼女の言った強みなんて、彼には存在しない。あるのは強みではなく、どちらかといえば呪いだ。強いものではあるのかもしれないが、彼にとってはそうなのだ。
「……一応、能力チックなものはありますよ。でも、ちょっと使いたくないっていうか、使えないっていうか」
「なんだ? そんなリスクあるものなのか?」
「まあ、ちょっとは」
「そうか、なら仕方ないな。だが、使い時は考える必要があるな」
「使い時?」
春乃はその言葉に反応し、戦う麻火恵に向けていた目を香里奈に移し、聞き返した。
「ああ。例えば、そうだな。今は式日原に奴らを応戦してもらっているが、それは彼女がいるからだ。じゃあもし、彼女がいなかったら。或いは、彼女に頼れる状況ではなかったら。その時は、お前はその力を嫌でも使わなくてはならない。それが身近な人、大切な人であれば尚更だ。そんな時ですら、自身の身を案じて使うのを拒むのであれば、それは臆病を超えた、ただの愚か者だと、私は考えている。お前は、そんな奴になりたくないだろう?」
「……そう、ですね」
この人が言っていることは、正義の味方、善なる人の考えだ。
他人の為なら自己犠牲を惜しまない狂った精神。偽善のない完璧な善人ならば、それを平然とやってのけることができるだろう。
(だが、俺はどうだ?そんな状況になったら、善人の行動を、いや、善人の真似事をすることができるのか……止めよう、考えるの)
自問自答が行われる。しかし、春乃はそれについて考えるのをやめた。
考えれば考えるほど、自分がよく分からなくなってくる。
善人であるかといえば違うだろう。そもそも根っから善人ならば、こんなことで考えたりはしないだろう。善悪を深く考えず、自分自身の直感で、自分自身が信じられる選択をする、それが善人だからだ。
それに、その行動が善か悪かは本人が判断するのではなく、第三者、つまり他人により決められるものだ。
その考えで春乃を見ると、自身の行動が善なのか悪なのかを深く考え、選択したとしても後悔して引きずり続ける彼は、善人ではない。
彼は善人を真似る偽善者か、自分自身が全ての愚者のどちらかしかない。そのどちらも、彼からすれば否定し難いものである。
要は、どちらであっておかしくない、という感じだ。何せ、どちらの要素も持ち合わせているのだから。
「……もう少しで終わりそうです、あれ」
壁から顔半分だけ出し、戦う麻火恵を見た春乃はそう伝える。
数はあと数体といったところだ。10秒ほどで決着は着くだろう。
春乃はそう思いながら、隣で脚を回復させた香里奈に目を向ける。
「そうか、それはよかった。それじゃあこれで安全に……どうした、只見?」
彼女が安堵の声を上げた時だった。
香里奈に向けていた春乃の顔が、彼女に向いたまま止まる。
(おかしい。何かがおかしい。何だ? この、胸がザワザワする感覚は、一体……)
全身に鳥肌が立ち、呼吸が荒くなる。脚はガクガクと震えだし、視界の照準が合わなくなる。
(体が、警告しているのか? 何を? それに、何に)
頭が混乱しだす。分からない恐怖に頭が追いつかない。
そんな春乃を、香里奈は不気味そうに思いながら聞き返す。
「お、おい、大丈夫か?」
彼女は春乃の肩を掴み、揺らす。
しかし、春乃の頭にその言葉は入らない。それどころか、閉鎖的な自身の中で問題を解決させていた。
いや……分かってるはずだ。この感覚、最近では2度味わったはず。
さっきのは例外だ。まだその場の勢い、恐怖対象との離れた距離、自分が解決するものではないものとして認識、そうすることで完全に自分自身に降りかかるものではないと考えていた。故に、この恐怖は殆ど生じず、気がつくこともなかった。
だが、今回は違う。明らかな恐怖に襲われている。
それは、春乃が自分がやらなくてはいけないと認識しているのが原因だ。麻火恵という、悪く言って彼にとって都合の良い存在がいたので、今までこの感覚に囚われなかった。だが今、任せられる存在がいない為、他人任せができなくなってしまったのだ。
恐怖の対象が彼の視界内に現れる。
自分がやらなくては、自分が対処しなくては。
彼女の、香里奈の後ろから忍び寄る襲人から、自分が守らなくては。
「ッ……」
だが、動かない。
後ろから彼女の肉を狙う敵がいて、それが俺にしか見えていないというのに。声すら、出すのを拒む。
その間に、襲人は彼女の肉を貪ろうと足を速める。
(なんで、なんで、なんで! なんでここまで来て自分の身を考えてるんだ! そんなのよりも、優先すべきことだろ! 恩人だぞ! 彼女は! 動くんだ! 今動くんだ! さっさと動け! 殺やらきゃ殺されるぞ!)
「ァァァ」
「クソォ!」
震える体に力を込め、思い切り踏み込む。目の前にいた香里奈を横に吹き飛ばすことで、標的を彼女から春乃に強制的に変えさせた。
敵の牙は標的が変わったことを気にすることはなかった。標的が変わろうが何だろうが、関係ない。肉を体内に取り込むことには変わりないのだから。
襲人は、その鋭い牙を春乃に向け、思い切り噛みつこうとした。
だが、春乃も何も考えずに動いたわけではない。ただ噛まれて死ぬ気などさらさらない。故に、春乃は左腕をくの字に折り曲げ、突き出した。
「グッ!」
案の定、奴は突き出した腕に自身の歯を食い込ませ、貪り始めた。
腕の中の神経が刺激され、痛みを発する。肉が引きちぎられる嫌な感覚に襲われるが、歯を食いしばり必死に堪える。倒れそうになってしまったのも、どうにか踏ん張り、体勢を維持した。これならば、奴は俺の上半身ではなく、腕の肉に噛み付き続けることになる。それはつまり、春乃の体勢が崩れず、片手が使えるようになるので、反撃が可能だということだ。
春乃は左腕を噛ませたまま、右手でポケットの中に入れておいたカッターナイフを取り出す。ジジジと刃を伸ばし、長さを最大にし、カッターを逆手に持ち、刃先を噛み付く襲人の脳天に向ける。このまま振り下ろし、同時に能力を使えば、この襲人は活動を停止する。簡単なことだ。
「ッ!」
だが、春乃は一瞬だけ振り下ろすのを躊躇った。
頭に能力使用後のリスクが頭をよぎったのが原因だが、すぐに切り替え、覚悟を決める。
(リスクは……知るものか! 死ぬより断然マシだ!)
「チッ! 喰らっとけ!」
カッターを持つ手に力を込め、思いきり振り下ろす。
瞬間、能力を発動させた。
……しかし、何かハデなエフェクトが出てくることや、彼の姿が変わったりすることはなかった。
香里奈からは、ひ弱な刃物を無意味にも振り下ろしただけのようにしか見えないだろう。
当然だが、刃物で人の頭蓋骨を砕く、または貫くなどというのはできない。寧ろ、刃先が折れるだろう。
だが、そんな常識は覆された。
振り下ろされたカッターナイフの刃先は、まるで豆腐を切る包丁のように、何の抵抗も受けずに対象の頭部へと突き刺さった。
「う、グッ」
春乃の顔が歪む。能力使用による影響なのだろう。
だがそれでも、春乃は歯を食いしばりながらさらに深く刺し込み、銀に輝く刃先を全て頭部内に吸い込ませた。
「グ、ガアア!」
声を上げながら、刺し込んだカッターを思い切り引き抜く。赤黒い血がこべり付いた刃先が顔を出す。同時に、カッターの刺し口から血が溢れ出し、やがて噴き出した。
春乃は、腕に噛み付いていた頭から力が失われていっていることに気づくと、動かなくなった襲人を体から引き剥がし、地面に放す。
放られた襲人の肉体は、地面に接触するのと同時に泥と化して消滅した。
「ハァ、ハァ、ハァ……ウッ」
春乃は片手で額を抑える。噛まれた腕を庇うよりも、まずそれを優先した。
「大丈夫か、只見?」
余韻に蝕まれる春乃に、香里奈は心配の声を掛ける。
心配されているのなら答えなければ。そう思った春乃は、抑えたまま頷いた。
「……大丈夫、です。大丈夫」
「そうか……」
問題はないことを伝えることで、彼女を無理にでも安心させる。
月明かりが彼を照らす。それはまるで、勝者への褒美かのようにも見て取れるだろう。
だが、そんなものを貰ったところで、春乃の心に安堵は現れない。あるのは、晴れない恐怖だけだ。未だに、彼の体は震え続けているのだから。
戦いを終え、2人が隠れている地点へと赴き、その場で血を流しながら佇む春乃を見た少女はポツリと呟く。
「何これ?」