第7話 新人アルバイト
朝。
春乃は部屋に置いてある棚の引き出しを開け、中に入っている物を取り出す。
取り出した物、それは手に収まるほどの細く薄いカッターナイフだった。
カッターナイフは、殺傷能力が刃物の中だと極めて低い物だ。何よりも強度が低い。思い切り何かに切り付けるだけで簡単にポキリと折れてしまうほどだ。
「……一応、持っていくか」
そんなデメリットなど、春乃には関係ない。
重要なのは切れるのか、切れないのか、それだけだ。つまり、切ることができるなら、たとえそれがカッターナイフだとしても問題はない。寧ろ持ち運びやすくて良いものだ。
手に持ったカッターをズボンのポケットの中にしまい、目線を床と水平に、つまり棚の上へと上げる。
そこには、赤い血で汚れた1枚の写真が飾られていた。
無論、それは春乃が飾ったもので、中には彼の家族が写っている。
10年前の春乃、父と母、そして妹の美奈。
これは元々家族で住んでいた家からどうにか持ち帰ることができた遺品だ。他は全て危険物として国に回収されてしまったが、この写真だけは血は飛び散っているものの、ウイルスが確認されなかったので回収を免れた。
「……」
春乃はその写真を悲しげに眺める。
やはり、写真に写っている妹にさえ恐怖を抱いてしまうようだ。夢の中でも現実でも、妹の美奈という存在は彼にとっての恐怖の対象らしい。当然、愛していることに変わりはないのだが、それを差し引いてでも、あの恐怖が勝る。
父を食い殺し、母を食い殺し、自分をも食い殺そうとした彼女のあの表情が、脳裏にこべりついて剥がれない。
「……行ってきます」
だが、たとえ怖くても春乃は写真の中の3人に対して向き合う。克服できないトラウマだとしても、愛する家族に変わりはないのだから。
☆☆☆
研究所から退所した春乃は、その翌日からすぐに喫茶店に仕事へと向かった。
2、3日空けてしまったので、オーナーの香里奈は相当大変だっただろう。1人であの店を回すというのには無茶がありすぎる。
そう思っていた春乃は、いつもより気を引き締め気味にして喫茶店へ足を動かす。
だが、店の扉を開いて中に入った時、春乃は目を丸くした。
「おはよう只見。ここ数日、入院なんて災難だったな」
そこでは、オーナーの香里奈が食器を確認していた。
それはいい。それはいいのだ。問題は別にある。そう、問題はこの店の中にいるもう1人の赤髪ロング女にあった。
「ヤッホー。いやこの場合は、おはよーセ・ン・パ・イ。一昨日ぶりだねー」
テーブルの脇、本来春乃が朝にやっていた筈のテーブル拭き。
それを、何故かエプロン姿の式日原 麻火恵がやっていた。
「……」
春乃はその光景に固まった。
「うん? どうした只見? ああ彼女か。お前がいない間に採用した新人のバイトだ。休んでた春乃も復帰したし、これでかなり店の回りが効率的になるなぁ」
呑気な香里奈を無視し、春乃は台拭きを手にする麻火恵に近づき、その手を掴んで店裏へと引っ張っていく。
「ちょっと来い」
「ええ? 待って、掃除中ー」
「いいから来い」
駄々を捏ねるがお構いなし。無理矢理その手を引いていく。
「おーい只見、程々にな。店開くまで時間ないんだからな」
香里奈の言葉を耳に入れながら、春乃は店の裏にある扉へと向かう。
扉を開き、外に出る。
建物と建物の隙間なのでそこまで広くなく、寧ろかなり狭い。
春乃は建物の壁に麻火恵を立たせ、自分は扉の前で仁王立ちする。
「どういうつもりだ。ここにまで来て」
彼は厳しめに問い詰める。
「そうまでして俺を戦いに引き込みたいのか? 結構往生際悪いな、君は」
「うわ、流石エスパー。私の考えてること分かるんだ。でも残念、今回もそれだけが目的じゃないから、できればしたいなーって感じ」
彼女はドヤ顔をする。
相変わらず彼女の余裕の笑みは崩れない。対して春乃はイライラだ。
「じゃあ、今回のその目的は? まだ資金があり余ってるなら、働く必要がないと思うんだけど、そこのとこどうなの?」
「あーそうじゃないそうじゃない。私お金稼ぐ為に働くわけじゃないから。お金あるし」
春乃は最後のいらない発言にイラッとする。だが、我慢して最後まで聞くことにした。
「それにこれ、私の為にやってることじゃないし。私がやったところで私にメリットもデメリットもないし」
「なら何か? 君はやりたくもないことを自分からやってるってことか?」
麻火恵は首を横に振る。
「いや? 私がやりたくてやってることだよ、コレ。楽いし」
「なんで仕事を急にやろうとなんて思ったんだよ。いきなりすぎてちょっと怖いんだけど」
だだの気まぐれにしても過ぎると春乃は思った。その場の気分とノリでここまでやるのかと、あきれを超えて感心すらしていた。
しかし、春乃の予想を裏切る返答が出た。
「アナタの為だよ」
「……は?」
「だって、しばらく隔離されてる間に、このお店大変になったら嫌でしょ? それで、私が少しでも助けになれればなって」
「……意味不明なんだけど」
大変になる……確かに数日間春乃が開けていたらこの店は回らなくなるし、加えて香里奈の負担が増える。売上が落ち込んで、ただでさえ余裕がなくカツカツな状態だったのが悪化するのは困る。
「手の届く範囲、できる範囲でやれることがあるのなら積極的にやりたいっていうのが私の性分だから。それでできるなら、困ってしまう前に救ってしまおうって。私がバイトしようって思った根の部分はそこかなぁ? どう? 納得?」
「納得って……ああ、善人というか、ヒーロー体質的なやつ、ってことか?」
彼女の言葉に少し納得した。
確かに彼女はこの町の人達を襲人達から守っている。その行動から考えてみれば、彼女の行動原理も理解できなくもない。
「……でも、俺にはよく分かんないな」
やはり、善人ではない春乃にはよく分からない原理だったようだ。善人というよりは卑怯者の類なので、ヒーロー的な人間とはそもそも違う人間だ。悪人、ではないが。
「ほらほら、話は終わり、仕事に戻ろう! オーナー待たせすぎたら怒られちゃうでしょ?」
麻火恵は手を叩いて無理矢理話を切り上げ、春乃を押し退けて店内に入っていった。
だが、春乃にはもう問い詰めるものもなかったので、引き止めるだけ時間の無駄だと思い、何も言わなかった。
☆☆☆
真昼頃。
「式日原、これあっちのテーブル。只見は今通ったお客様の会計お願い」
「分かりました」
「はーいっ」
真面目な声と元気すぎる声が混ざる。当然前者は春乃で、後者が麻火恵だ。そして、お互い言われた通りに行動を開始する。
数日前とは大違いだ。人が1人増えただけでかなり1人1人の仕事が楽になった。春乃も、注文を同時に聞きながらメモをする聖徳太子のようなことをしなくても済むようになった。
しかし、人手不足というのは依然と変わらない。何せ、増えたと言っても新人だ。手際の速さではまだ経験レベルが低い。その為、簡単なことしかさせられないので、春野への負担はかかり続ける。前に比べれば圧倒的にマシだが。
そんな中、春乃が会計をしていると、
「おお? 3日ぶりに復帰したみたいだね」
この店の常連客が春乃に向けて言った。
「いやぁ、すいません。ちょっと、体調を崩してしまたみたいで」
「それはまた災難だねぇ。にしても、良かったじゃないか、人が増えて」
彼が言っているのは麻火恵のことだろう。
「ええ、まあ」
春乃は、笑顔で店内を動き回っている麻火恵を眺めながら苦笑いする。
「新人なんで、まだ簡単なことしかさせられませんが」
「新米なんて大体最初はそんなもんだよ。君だって働きたての頃は、まだ会話もままならなかっただろう?」
「そ、そうでしたね。言われてみると、俺の働き始めた時よりも、彼女の方が圧倒的に手際いいですね」
何故か若干悔しかった。
春乃は苦笑いのまま常連客の会計を済ませる。
「まあ、そんなこと言っても新人には変わりないんだし、先輩としてちゃんと面倒見なきゃだね。頑張って」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃあオーナー、ご馳走様っ! 今日も美人だったよ!」
常連客はカウンター奥にいる香里奈に向かって言うと、言われた彼女は料理しながら「おう! 毎度ありがとうございました!」とノって返した。ラーメン屋か、と春乃は心の中で突っ込んだ。
「只見、終わったら式日原を手伝え。パンク寸前だ」
春乃は香里奈のその言葉にハッとし、視線を麻火恵に向けた。
そこにはさっきまで手際の良かった麻火恵はおらず、注文の嵐で目を回らせているただの新人がいた。
さっきの評価、全部撤回だ……っと、そんなこと思ってる場合じゃない。
「わ、分かりました。はーい、今行きまーすっ」
やはり、人が1人増えただけではまだ足りないようだ。
☆☆☆
夜8時。
「「はぁぁぁ、つっかれたぁぁぁぁ」」
似たような光景が2つの席にあった。
片方では香里奈がテーブルに顔を伏せ、もう片方には明美が両腕で頭を支えている。
香里奈はいつものようにコーヒー作ったり料理したりで、いつも終わるとこのようにグッタリだ。対して春乃は、まだバイトを始めて数日なので頭が慣れず、パンク寸前だ。
「2人とも、お疲れです」
反対に春乃は未だに動けるので、食器を洗っていた。
そんな春乃を、頭を抱えていた麻火恵が首と目線だけを動かして眺める。
「にしても、アナタこれでノックダウンしないの」
そして聞いてくる。
「まあね。こっちだって2年やってんだし。それにオーナー程動いてるわけでもないし。だから後始末は俺がやってんだよ」
「すげぇぇ」
「いやお前もいずれやるんだよ」
感心する彼女に即ツッコミを送る。すると、顔を伏せていた香里奈が顔を上げた。
「そういえば、2人はどんな関係なんだい?」
「……はい?」
変なことを聞いてきた彼女に春乃は聞き返す。
「だって、知り合いなんだろう、2人は。朝だって初対面の会話じゃなかったぞぅ?」
香里奈は薄目でニヤつきながら言う。まさにイタズラをする顔である。
「関係って……ああーそういうことですか。違いますよ、俺と彼女の関係は。オーナーの求めてるものじゃないですよ」
一体何を求めているのか一瞬分からなかった春乃だったが、気がついた瞬間即否定する。
「あーそっ。残念」
「え? 何、何? なんのこと?」
未だに気がつかない麻火恵は、なんのことか分からなかったので、春乃と香里奈の顔をキョロキョロと見返す。
「知らなくていいよ、これに関しては。知ったところでなんでもないし」
「なーにーそれ? 余計気になるじゃん、教えてよー」
「嫌だ、面倒になるから嫌だ」
「いいじゃんいいじゃん。気になるからさ、ね? 今日の給料少し分けるからさ、ね?」
「金で釣るな見苦しい」
「ええー」
まるで流れるように続く会話のキャッチボール。その光景を、どうしても言いたくない春乃とどうしても聞きたい麻火恵を、香里奈は面白そうに眺めていた。
その後、後始末を終えその日の業務を終了した3人は、店の外に出た。
「それじゃあ、2人は同じ方面から帰るのか?」
と、香里奈が並ぶ2人に確認する。
「……そうなのか?」
「そうですねー。家の方面がお互いに同じなので。それに最近物騒ですし、彼の家ここから少し遠いのもあるので」
まるで今知ったかのような反応をする春乃。
それに反して麻火恵は元から決めていたかのように流暢に話した。
「そうか、なら安心だ。私の家は2人よりは遠くないから、多分1人で問題ないだろう。それじゃあ2人ともまた明日。夜道には気をつけろよ。そして只見、後輩しっかりとエスコートしろよー?」
香里奈はそうふざけるように言いながら、2人に背を向けて去っていた。
残された2人はその背中を見届けながら、
「守られるのこっちなんだけどなぁ」
内の1人がポツリとそう呟いた。
春乃の家までの帰路を、2人はある程度の間隔で並んで歩く。
道は相変わらず人がいない。まだ8時なのだというのに、誰1人としてすれ違うことがない。故に恐ろしいくらいに静かだ。たまに聞こえるのは野良猫の鳴き声くらいで、それ以外は常に無音の世界。家庭内の生活音すら流れてこない。
寧ろそれは人の中にある不安を煽ってくる。ただでさえ3日前にここで襲われた春乃にとっては、余計にその効果が強かった。
そんな中、麻火恵は口を開く。
「いやー働くって楽しいね。私最近知っちゃった」
「ああそう。それはよーござんすね」
「やっぱりこう、頭使うっていうか、考えながらっていうか、なんというか、なんか楽しかった」
「それはまた幸せなことで」
「やっぱり、働くっていうのは人間特有のものだよね。それぞれに職があって、それぞれ別のことをする。人間以外の動物にはできない、素晴らしくて面白いものだよね?」
「そうだな」
彼女のお喋りに対し、春乃はテキトーに相槌を打っているだけだった。静寂故に声が響くので、春乃としてはあまり声を上げたくはない。
だがそんな時、
「アナタはどう? 楽しくない?」
「え? 何が?」
「だから、仕事だよ仕事」
「ああ仕事ね。そうだな……」
急に投げかけられた質問に、春乃は考え込んだ。今まで仕事にそんな感情を求めたこともなかったので、改めて考えてみると、返答が難しく思えた。
悩んだ春乃だったが、どうにか自身の返答を絞り出す。
「楽しいってよりは、やりがいを感じるって感じかな。最初は金の為だけに始めたことだけど、やっていくうちに働くことが誰かの為になるって思って、嬉しくなって、それで続けられて、それで……?」
不思議に思った。今改めて考えてみると、他人の為に頑張ることが嬉しいと感じている自分がいたということになるのだ。
それに少々驚いた。自分のことしか考えていない自分に、こんな気持ちがあったのだということを。
「それで?」
話を急に止めた春乃に、彼女は興味津々で続きを急かす。
我に帰った春乃は、話を思い出し、続ける。
「……それで、今の俺になってるんだと思う。続かなかったら、今頃どんな人間になってたか。もしかしたら、今よりもさらにクズになって無職化してたかもしれないな」
「フフッ、何それ」
麻火恵は春乃の言葉を可笑しく思い、少し笑う。そして、横にいる春乃の目を真っ直ぐに見て否定してきた。
「でも、私はアナタのこと、悪い人とは思えないな」
「そんなの分かってるさ。善人でもないしな、俺。あと、クズと悪は似てるけど違うからな、履き違えるな」
その後も暫く話は続いたが、やがて終わった。
そして、再び静寂が戻る。春乃が自分で音を発した後なので、先程よりも彼には静かに思えた。
「……そういえば、これ、俺の護衛だろ? 一応の」
やがて、静寂に耐えきれず、春乃は口を開いた。
「うん。一度襲われてるもの。もし何かあったらって感じ。だって、襲人病には未知の部分が多すぎるもの。どんな習性で、どんな人を優先で狙ったりとかもよく分からないし」
「そっか。なら、俺を無事に送り届けたら、その後はまた、襲人探しに?」
「ええ」
「明日も?」
「うん」
「明後日も?」
「うん」
「またその次の日も?」
「当然」
「休みとかは」
「ないよそんなの。奴ら、待っててくれないし」
「……」
春乃はつい足を止めてしまった。
(なんだよ、それ)
「どうしたの?」
そんな春乃に、麻火恵はどうしたものかと問う。
春乃は自ら静寂作り出し、ここまで来て考え出す。言うべきか、言わないべきか。他人に全てを任せているただの傍観者に、他人を言う権利があるのか。
「君は……いや」
だが、ここで言わなくてはいけない。それは、彼女が壊れてしまわない為に必要なことだ。
「お前さ……」
「ん?」
「ちょっとは、自分のこと、考えろよ」
「え?」
まだ声が小さい。どうやら未だに迷っているらしい。
(それじゃダメだろ)
「……俺は、お前みたいな勇敢な奴じゃなくて、臆病で卑怯で他人任せなクソ野郎だけど、ハッキリ言わせてもらう。お前、もっと自分のこと大事にしろよ!」
俺の声が無音の世界に木霊する。
麻火恵はそれを聞いて驚く。
「分かってるさ。救えるものならなんでも救いたいし、誰かの為に戦うことに喜びを覚えるのがお前の性分。だから、お前にとってそれは苦痛ではないのかもしれない。けれど、俺にはそれが、見てられない」
“何様につもりだ“
(分かってる)
“お前なんかに言われたくない“
(分かってる(
“この偽善者が!“
(分かってる。分かってんだよそんなこと! でも、それでも、ここまで来たんだ。言わせてくれ)
「……そのままだと、いずれ壊れる。気がつかない内に、心がボロボロになる。そんな様を、今後あの店で見せられる俺の身にもなってくれ。体が頑丈でも、超人的な再生が可能だとしても、心は防げない。たとえそれが、お前でも。だってそうだろう? お前は人間なんだから」
「……」
麻火恵は黙り込む。今、彼女は一体何を思っているのか、春乃には知る由もない。
「だから、お前は」
その時だった。春乃が言いかけた瞬間、彼のポケットの中のスマホが鳴り出した。
こんな時に一体誰だと思いながら、春乃はスマホを取り出し、画面の表示を見る。
「……オーナー? どうしたんだ、こんな時間に」
そこには、先程別れたばかりの香里奈の名前が表示されていた。
春乃の呟きに、黙っていた麻火恵が動き出し、スマホ画面を覗き込む。
「言い忘れか何かかな?」
「それだったらメールだろ普通。緊急の何かか?」
不思議に思い、春乃はその電話に出た。一応麻火恵にも聞こえるように、出た瞬間にスピーカーモードに切り替える。
「オーナー? 一体どうし」
どうしたのかと言いかけた時、スマホから息を乱す香里奈の声が流れてきた。
「只見か⁈ そこに式日原もいるな⁈ 不味いことになった! こう言うのもなんだが、とにかく助けてくれ!」
「はい? 一体、どういう」
状況が理解できない春乃は聞き返す。すると、香里奈から衝撃の言葉が出てきた。
「白い奴らに追いかけ回されてんだよ、今!」
「は⁈」
聞いていた春乃は、その言葉を聞いて叫んだ。
白い奴、恐らくそれは襲人と見て間違いない。つまり香里奈は今、襲人の集団に襲われている、ということになるのだろう。
「数分くらい逃げてるんだけど、全く撒けなくて、ヤバい!」
「そんな……オーナーまで」
「今、オーナーはどこにいますか? できるだけ分かりやすくお願いします」
麻火恵はすぐに聞き返す。その声質は、いつもの陽気な感じではなく、冷静で真剣なものだった。
どうやら、彼女も焦っているらしい。冷静な態度を装っているものの、想定外のようだ。
「普通に帰り道だ帰り道!」
「アナタ知ってる?」
麻火恵は春乃に確認を取る。
「え、あ、ああ」
春乃はあまりの出来事に、動揺を隠せていなかった。
「じゃあすぐに向かいます。それまで、どうにか噛まれないよう注意してください。接触注意です」
麻火恵がそう注意をしながら電話を切ると、春乃は処理の追いつかない頭をどうにか動かし、スマホをしまう動作をどうにか行った。
麻火恵は春乃の目を見る。
「行ける?」
「俺もってことか? ……でも、ッ!」
一瞬迷いが生まれたが、それな自分自身に春乃は問いかける。
(待てよ。今怖気付いてる場合か? ここで怖いから行かないなんていう理由で、また身近な人を失うことになるかもしれないんだぞ。それだけは……ダメだ)
「……行ける。俺も行ける。道のりは走りながら教える。その後は俺を置いて先に行け!」
覚悟を強制的に決め、春乃は力強い返事をした。それに満足した麻火恵は少し微笑む。
「じゃあ、急いで走って。途中まではアナタの速度に合わせるから」
「分かった。行くぞ」
そして、春乃と麻火恵は今来た道の反対に向かって走り出した。