第5話 初めてのお見舞い
「美……奈」
妹の美奈は、血塗れの部屋で春乃の身体をムシャムシャと貪っていた。
脇腹に肉の挟まった歯を立て、容赦なく思い切り噛み付き、引きちぎる。千切られた肉から血の滴が川のように流れ、えぐられた断面からはまるで噴水のように血が溢れ出す。春乃の体はもう力が入らず、痛みすら感じることができなかった。
既に四肢の肉を食われていたので、痛みに反応する神経が狂ったのだろう。
ただ感じられるのは、熱さ、だった。
熱い、ただただ熱い。
死の前兆か、それとも本当に狂ったのか。
10歳の少年には理解不能な感覚だ。
グチャリ、グチャリ、グチュリ、チュル
その割には耳がよく聞こえた。故にとても気持ち悪く、生々しい音が嫌でも無理矢理脳に伝わる。普通なら吐いてしまうようなものだが、胃から吐き出る気配もない。それにすら力が入らないのであろう。
ジュル、グチャリ、グチャ、グチャ……
襲人は食べ続ける。
たとえそれが人間なのだとしても。
たとえそれが愛する兄だったとしても。
一心不乱に。淡々と。
それは10年経った今でも変わらない。春乃の夢の中で呪いとして、彼女は同じ場所、同じ風景で彼を食べる。
彼はそれを、ただ恐怖することしかできない。
☆☆☆
「……」
瞼を開いた先はもう家ではなかった。あったのは頑丈そうな天井のみ。感染者が万が一暴れ出した際、逃さない為に特殊な加工を施された天井だ。
春乃はそんな天井に見下ろされる中、体を起こして周囲を見渡した。周りには天井と似たような色、質をした壁、強化ガラスがあった。どれも昨日の記憶と変わらず、完全に一致している。
「はぁぁ.…..」
それを確信した時、春乃は安堵した。瞬間、彼の頭をズキズキと頭痛が襲う。だが、もうその痛みに慣れてしまった春乃は、気にすることをしなかった。
頭痛の原因は単純明快。睡眠不足だ。
10年前。
あのパンデミックから少し経った時から、彼は重度の睡眠不足に見舞われている。だが、彼にとってはあの夢の中に居続けないこと。それが彼の正気を保つ、いや、生きていく上で一番重要なことだ。故に、彼の睡眠時間は極端に少く、長くて3時間、酷い時には1時間にもなる。明らかに不健康なことではあるのだが、彼にとっての優先順位は体よりも精神、心の方が高い為、敢えてこうせざるを得ないのだ。
とはいっても、それは彼が本能的、いや、無意識的に行なってしまう自己防衛機能のようなものなので、彼が望まなくても自然と頭と体が夢から抜け出すように働いて目を覚まさせてしまう。つまり、春乃のこの睡眠不足は彼の無意識によるもの。原因は夢に出てくる妹に食われる夢、ということだ。
春乃は時計を見る。時計の針は朝の6時を回ろうとしていた。
「今日は……まだ寝れた方か」
そう呟き、首をぐりっと回して側に置いていたスマホを開いた。もう昨日の時点で香里奈にバイトを休むと連絡はしてあるので、スマホに流れてくるニュースとかを眺めて朝食までの時間を潰そうとした。しかし、つい癖でメールのアプリを起動してしてしまった。
その時、連絡先の欄に見知らぬ名前があることに気がついた。
「ん? 誰だ、これ……」
そこには、“Ms.M”という名が書かれていた。
当然のことだが、彼には親戚含め友人と呼べる存在がいない。あるのは担当のドクターの名と喫茶店のオーナーの名のみだった。なので明らかに不自然でおかしい。
もしかすると、この2人経由で春乃を連絡先に加えた可能性がなきにしもないが、しかしそうだとしてもわざわざ春乃にする意味が無い。顔も知らぬ他人の知人を連絡先に加えてしまうほどの身の程知らず、ならば話は別なのだが。
「Ms.M? あ、連絡入ってる」
春乃は少し恐怖心が湧いたが、一応連絡を確認する。
その内容を見た春乃は目を見開き、ますます困惑した。
「……今日、お見舞い行くね?」
☆☆☆
「ヤッホー半日ぶり。こんにちはー」
昼過ぎの2時頃。
春乃の部屋に響いたのは、そんな少女の元気な声だった。
その声の主は、式日原 麻火恵。なんと彼女が手を振りながら部屋に入室、つまりお見舞いに来たのだ。
「……何しに来たの?」
春乃は動揺を隠せないどころか意味不明すぎて固まっていた。
「え? メールで送ったでしょう? 今日お見舞い行くねって」
「メール……あーMs.Mって君のことか。というか、分かるかそんなの」
春乃は今、ノリツッコミ的な感じになった。
しかし、分かる筈ないだろう。何せ相手は昨晩名前を聞いたばかりの人間だ。それで名前にピンとはこない。
「それで? なんで俺を入れたんだよ。後、なんで俺のお見舞いなんてしに? もしかしてまた昨日のように協力しろって言いに来た?」
春乃が口にしたのは疑問だった。
それに対して麻火恵は驚く。
「え、何? アナタ、私の考えてること分かるの?」
(やっぱりそうだったか。昨日は素直な奴だなって思ってたが、逆。寧ろ、しつこいタイプだ)
春乃は確信する。
「大体察せるだろそんなの。それで、質問に答えてくれない?」
「ああ質問ね質問。まあ、今アナタが言ったことも目的ではあるわね。やっぱり私、アナタを諦めきれないみたい。昨日アナタが言ったこと、確かに身体能力が普通レベルだと足を引っ張っちゃう時もあるかもしれない。でも、それを差し引いてでも私はアナタのあの能力が欲しい……なんか、この言い方だと利用するみたいよね?」
「ああ、そうにしか聞こえない」
「だよねーあんまり意味変わらないし。まあでも、その話だけでも聞いてみて欲しいなって思ってかな、この目的は。引き込むのはそこからかなーって」
「……? この目的、は?」
まるでまだあるかのような言い方に春乃は再び疑問を覚える。
「ええ。でもそれはあくまで目的の1つ。私の目的はまだある、いや寧ろこっちの方がメイン。まあ、その目的達成には確認が必要なんだけど、そこで、アナタにとても失礼な質問をしてしまうから怒られそうで怖い」
麻火恵は苦笑いしながら、気まずそうに言いながら、目を逸らす。
当然、春乃には意味が分からない。
「俺が怒る失礼な質問、なんだそれ。俺自身も何がトリガーで怒るかどうか分からないけど」
本人も自覚できておらず、分からない様子だ。
そんな春乃に麻火恵は聞いた
「じゃあ聞くね。アナタ……友達とかいないでしょう?」
「……うん、まあそうだけど」
「あれ? 怒ったりしないんだ、この禁断の質問」
「いやまあ事実だし。何年も入院して社会から切り離されてたんだから、いなくてもおかしくないし」
春乃の気の乱れない普通の返答を前に麻火恵は見開き、驚いた。
そして、それにらっくりしたのか彼女は息を吐いた。だがその反応は安心したといものに加えて、何故か残念そうな感じだった。
「ふーん、なんだぁ。反応薄くて安心した、けどなんか残念」
「どっちだよ。逆にそれ、君も人のこと言えないんじゃない? ここを出たのは俺よりも後って聞いたぞ」
「ああっ、また私のこと読まれた。やっぱりアナタってエスパー?」
「似たようなやりとりさっきもしたけど、そんな訳あるか」
春乃の言動に麻火恵はクスクスと笑った。
「それで、友達がいないことが俺のお見舞いに来た理由?」
逸れた話を元に戻す。
麻火恵はそれに対し頷く。
「うん、そうね。1人じゃ寂しいと思って。友達とかがいないと、お見舞誰も来くて孤独だし。アナタもそうじゃないの? 私そうだったし。まぁどちらにせよ、私この2日間お見舞来るから、存分に感謝なさい」
「ええ? 明日も来んの?」
春乃は明らかに面倒くさそうに声を上げた。相当面倒に思っているのだろう。
麻火恵は当然と言い、胸を張り、腰に両手を当てる。
「君さぁ、俺なんかと話して何が楽しいんだよ」
「だってアナタ、私と同じだもの。10年前に適合して、身内がいなければ友逹もいない。そんな自分と似たような人といるのって、なんだかうれしいって思うから。だからこれは、アナタの為であって私の為でもあるの」
これは、彼女にできた一種の娯楽である。
自身と似た存在、只見 春乃という男といるのがうれしい。単純な感情ではあるものの、それですら彼女には楽しいと感じられているのだ。それが
だがしかし、春乃にはそれがよく理解できなかった。
「頭幸せな人だな、君は......まあいいや。それの何がうれしいのか俺にはよく分からないけど、それで満足するなら好きにしてくれ」
春乃は無関心に言い捨て、スマホをいじり出した。
「ちょっと! なんでそこでスマホ使い出すのー⁈」
強化ガラスに麻火恵は両手をバンと打ち付ける。
流石は適合者の馬怪力といったところだろうか。ガラスから、聞こえてはいけないようなミシミシという変な音がした。
「なんだよ。まだ何か?」
「あるに決まってるでしょ! なんでそこでスマホ使い出すの? 私アナタと話す為にここに来たんだけど⁈」
春乃はあぁと声を漏らすと、開いたスマホを閉じた。
そして、明らかにやる気のない無気力な目を麻火恵に向ける。
「……俺なんかと話して、楽しいか?」
「分からない、けど楽しそうだから。とにかく、話そ? 何か話そ?」
ますます春乃には理解できなかった。
昨晩会った奴との会話の何が楽しいのだろうかと、春乃は思いながら渋々承諾した。
「じゃあ、何話すの?」
「うーん……」
麻火恵は腕を組み唸った。どうやら何を話すのかを考えているらしい。
考えてこいよ、と春乃は内心思った。
少し経つと、少女はアッと何か閃いたかのような反応をした。
「好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、趣味とかジャンケン!」
あー、これは面倒な2日間を過ごす羽目になりそうだ。
☆☆☆
春乃と麻火恵の2日間の会話は、意外と盛り上がった。
白熱とまではいかないが、途切れて気まずくなったり、つまらなかったりなどはなかった。
内容は自分の今の現状についてや、不謹慎だが感染者あるあるだ。
現状については、春乃は今現在格安のボロアパートに住んでいて、ほぼ毎日ある喫茶店のアルバイトで生活費を賄って生活している事を伝えた。麻火恵はそんな春乃のギリギリの生活に驚いた。
式日原 麻火恵、年齢は18歳。
麻火恵は、1ヶ月前に安全性が証明され、条件付きでこの研究所を退所し、今では明美と同居しているらしい。加えて、金は国から出された資金がまだ残っているので困っていないという。春乃は麻火恵に資金が残っていることに驚き、自分より貰っていることを知って、待遇の差に心底絶望した。
お互いの過去については触れることがなかった。
それはプライバシーだ。侵害してはならないという暗黙の了解となっていた。
だがしかし、春乃は直接的ではないものの、少しだけそれに噛みついてしまった。
「ジャンケンで楽しいって、幼い頃とかやったりしなかった? というか何百回目だよ」
春乃は合間があれば無限にやっていると思われるジャンケンの中、拳を振りながら聞いた。ちなみに負けた。
「いや、昔の自分のことなんて何も覚えてないから。だから経験はないし、アナタとやったのが今の記憶上初よ」
「は?」
彼女はサラッとおかしなことを言ったが、気にする素振りすら、いやそもそも自分の今の発言に気がついていないようだった。
春乃は一瞬固まってしまったが、そのことに敢えて触れずに流した。言ったことに気が付かず話そうとしないのなら、深読みはよそうと思ったからだ。
ジャンケンのような適当な遊びをしている中、麻火恵はふと時計を見上げた。
時間は既に夜の5時を回っていた。
「あ、もうこんな時間じゃん。そろそろ夕ご飯食べて支度しなきゃ」
麻火恵はそう言うと急いで帰宅の準備を始めた。
5時に夕食とは中々に早いものだが、春乃は気になっても聞こうとしなかった。
しかし、どうやら今日は聞いてみることにしたらしい。
「君ってさ、こんな早く夕飯食べるの? もうこんな時間って、まだ5時、太陽もまだ顔を出してるだろう?」
この部屋には窓がないので時間感覚が狂いがちだが、確かに時期的に今が秋だとしても、まだ日は上っている時間帯だ。
麻火恵は答える。
「ああーまあそれはね。私、日が落ちたら襲人どもの相手しに行くから」
「アイツら……昨日もそうだったけど、それ毎日やってんのか?」
「当然。だって私、その条件と引き換えにここを出たから。自分でやりたいって言い出したんだけど」
彼女は少ない荷物をまとめると、出口へと歩き出す。
「おいっ!」
それを彼は声だけで引き止める。
足を止めるが、それに振り返る事なく麻火恵は無言で耳を傾ける。
しかし、
「……いや、なんでもない。引き止めて悪い」
何も言えなかった。
そして彼女は振り返り、優しい笑みで「行ってくるね」と告げ、部屋を出ていった。
「……」
白い部屋に取り残された春乃は、自身の行いに歯を噛み締めた。
彼があの時言おうとした言葉。
それは「気をつけろよ」と心配するものかもしれないし、「頑張れ」と応援するものだったのかもしれない。
だが彼は直前、そう言おうとする自分に嫌気が刺した。
「何言おうとしてんだよ、俺……そんな資格、あるわけないだろ……」
戦う者に対して、何が助言だ、何が応援だ、何が心配だ。何もしようとしない自分に、そんな上から目線に言う資格など存在しない。こんな自分にできるのは、ただ見てることだけだ。だってそうだろう。そうあることを望んでいるのだから。
でも……それでも、気づく以前に何となく分かってたはずなのに、何で俺は善人の真似事などしたいと思ってしまったのだろうか。それの、意味が分からない。
春乃は自分自身の行動が愚かであったと理解したが、それに反して何故そう思ったのかの理解はできなかった。