第4話 パンデミックの予兆
研究所に運ばれた春乃は、すぐに身体検査をさせられた。ウイルスが悪化していないか一応の確認だったが、特に問題はなかった。
その後、隔離室で春乃は防護服を着た明美にえぐられた肩の手当てをしてもらっていた。
隔離室はその名の通り、感染者を保護という名目で隔離する窓一つない部屋だ。出入り口のある部屋の5分の1の面と感染者の入れる面を強化ガラスで分断することで、対面で会話、監視することが可能なシンプルかつ面白みのカケラのないような所だ。
春乃は強化ガラス内で手当を受けていた。抉られた肩はもう殆ど治りかけていたが、自然治癒を促すためには必要だ。
「よし、これでいい筈」
明美は手当を終えると、強化ガラス内から出て防護服に消毒をし、それを脱いだ。
「それにしても、まさか新しい被害者が春乃君だったとはね。幸運と呼ぶべきか不幸と呼ぶべきか、いやこれは不幸か。でも、不幸中の幸い?」
「何が不幸中の幸いですか? こっちは10年前のトラウマと対面して意気消沈中なんですけど」
春乃はその発言に少々イラついた。
「まあ、そうだね。でも、襲われたのが自分でまだよかったじゃないか。適合者じゃない誰かが襲われていたら、被害はもっと増えてたからね」
「適合者だからって、ただ免疫が強いからって、そんなので」
眉間にシワを作りながら、春乃は視線を逸らす。
すると、隔離室の中に春乃と明美に加えてもう1人いる者が口を開き出した。
「適合者っていうのは免疫じゃないよ」
そう口にしたのは、春乃をあの襲人から救った赤髪の少女だった。少女は続ける。
「適合者は、その名の通り襲人病ウイルスに体が適合した人間のこと。数万分の一の確率だけど、適合すれば襲人化しなくなって、人によるけど普通の感染者と同じように身体能力が超人並みになったり、再生能力が凄く速くなったり、カッコいい超能力が使えるようになったり。そんな厨二病全開超人になってしまった人のことよ。退院前から聞いてたでしょ?」
「どうでもいいよ、そんな補足。俺からしたら対して変わらないし。というか坂城先生、彼女何者なんです? めっちゃ速く動く人を目で追って捕まえたり、同じように速く動けて高くジャンプしたり、人の頭を握力だけで潰したり、そして軽く殴って貫通させたり、人間なんですかそもそも」
「彼女の名前は式日原 麻火恵。君と同じ適合者さ」
明美の言葉に春乃は目を見開き、壁に寄りかかる少女に目を向ける。少女はそれに対し「ヤッホー」と手を振り返す。
「君も……俺と同じ?」
「そう。この建裏市内で確認されてる3人の適合者の内の1人。つい最近、この施設から晴れて解放された身だけど、今彼女にはこの市内で起きている問題解決に協力してもらっている」
「問題……それってやっぱり、俺を襲ってきた襲人、ですか?」
明美は頷く。春乃はそれを予想こそしていたものの、確定したことに恐怖し、肩を震わせた。
「8年前のパンデミック。それでまだ発病していない感染者は直後に建てられたこの施設に全員収容した筈だった。でも2ヶ月程前、警察が街で既に発病している感染者を発見した。警察は私達の確認ミスだという理由で事態を終息させようとしたけど、その事例は次々と見つかっていった。あまりに見つかるものだから、世間の混乱を防ぐために公にはなってないけどね」
「……じゃあ彼女は、その襲人達の排除の為に?」
「ああ。もちろん政府に申告はした。けれど政府は元から私達に相当な税金を注ぎ込んだから、対策部隊を作るには時間が掛かるとだけ返ってきた。でもそれじゃあ、被害は増えるばかり」
「だから、私が協力してるってことね。研究所はなけなしの人員を集めた救護スタッフを作るので精一杯。警察程度の対処じゃ事態は改善しない。なら、人を超えた私が手伝うのは、当然のことよね!」
麻火恵はよっかかっていた壁から背を離すと、明美に向かって聞いた。
「そういえば明美さん。あの話、この人にした?」
「……いや、それは」
聞かれた彼女は、目を逸らしながら気まずそうにする。
麻火恵はその表情で察したのか「あっ、そう」とだけ言う。すると麻火恵は、強化ガラスに両手を付けて、その先にいる春乃を見た。
「じゃあ私が聞く。ねえ、只見さん? 春乃さん?」
春乃は戸惑い「な、何?」と反応する。
「アナタ、私の襲人退治に協力してくれない?」
「……は?」
喉から声が出た。一瞬だけ春乃の思考回路は停止する。
しかし、麻火恵にはそんなことお構いなしだ。
「私、前々からアナタのことが気になっててね。まあ正確にはアナタの能力だけど。それが私の襲人退治に必要だし、効率ももっと上がると思ったから、どう?」
彼女はニッコリと笑顔を作る。
「どうって。つまり、俺に君がさっきしたみたいなことをしてほしいってこと? 夜の街を徘徊する襲人相手に戦えと?」
「そうそう。強制じゃないけどね、強制じゃ。あくまで強制じゃないから」
強制というワードを強調する。どうやら麻火恵は、春乃が首を縦に振ることを望んでいるようだ。
それは春乃も分かっているだろう。彼女が求める程に春乃の超能力は強力だ。
春乃は隣にいる明美に視線を送った。明美は気まずい顔をしたままだ。
「……さっきの妙な会話からして、坂城先生もそれを望んでるんですか? 俺があのトラウマと退治することを」
「いや……麻火恵が言ったように、前からこの話は彼女の口から出てて、適合者を両方相手する私だから、私経由でその話を持ち出したかったのだろうけど」
「確かに、坂城先生は今までそんな話は一切してはきませんでしたね」
「当然だろう? 自分から志願した麻火恵はともかく、君は事情の知らない市民。しかも、襲人に強い恐怖心を抱いている。そんな君に手伝えなんて言える程、非情になれる訳がない」
それは彼女自身の願いでもあるのだろう。もうこれ以上春乃を、10歳で時が止まっている少年を、危険な目に合わせたくないという彼女の願い。それがこの話を彼女がしてこなかった理由だ。
「けれど、君が望むなら、私は止めない。どちらを望むにしても、私は受け入れるよ」
曲げられない男の信念には、手を加えようとしないということなのだろう。手を出した結果その線がブレ、危険で不安定な方向に曲がらないように、と。
明美が言い終わると、横から麻火恵が割り込んできた。
「ちなみにね、アナタが戦うことを望むか望まないかに関するこの施設内でのアンケートがあったみたいなんだけど、明美さんどうでした?」
「……大半が本人の意思を尊重する、だそうよ。だけど、願うなら協力してほしい、という感じかな」
「願うなら、か」
気になった部分を春乃は繰り返す。
「それじゃあ今までの話を聞いた上で、どう? 私の襲人退治に協力してくれる?」
麻火恵は、再び満面の笑みを浮かべて春乃に再度聞いてきた。余程の確信があるのか、答えを聞きたくて待ちきれない感じだ。
春乃は彼女へ回答する為に、その重々しい口を開く。だが、返ってくるのは彼女が望む回答ではなかった。
「……する訳、ないだろ」
彼女の顔が固まる。
「俺が適合者として得たものは自然治癒能力の促進と、超能力だけで、君みたいに超人的な身体がある訳じゃない。加えて、これといった戦闘訓練も受けたことがない。そんな俺が協力したところで、足手まといになるだけだ」
「そ、そうかもしれないけど、それは」
「それにアンケート結果聞いたけど、なんだよそれ。ハッキリ言うことができないだけで、遠回しには協力しろって言ってるものじゃないか。坂城先生を悪く言うつもりじゃないけど、今まで面倒を見てきてやったんだから、その恩返しくらいしろって意味に聞こえるよ」
春乃の声は震えていた。まるで、10年前の全てを失った日を思い出しているかのように、今にも泣きそうだった。
「……俺は、君みたいに勇敢じゃない。襲人はいつまで経っても怖いし、未だに夢に出てきて眠りを妨げてくるし、もう、関わりたくも見たくもないんだよ。そんな俺が快く頷く訳、ないだろ」
彼が言い終わると、しばらくそこには何もなかった。沈黙がその部屋を支配したのだ。
麻火恵は春乃の答えが意外だったのか、彼女も口を開けずにいた。だが、沈黙の中で彼女は無理矢理口を開いた。
「……あーマジかー。まあ分かったわ。じゃあ私、帰るね」
声質は低くて暗いものではなく、寧ろさっきと変わらない明るいものだった。無理して明るく、という訳でもないようだ。彼女はそうあっさりと言うと、すぐに出口へと向かい、退出した。
その背中を見送った春乃の顔は、どこか悲しげで、悔しそうに歯を噛み締めていた。
「……こうなるだろうね。予想はしてたさ、だから言わなくてもよかったってのもあるね」
明美は麻火恵が退出すると、理由を付け足すように言った。
春乃は気づかれぬように表情を戻し、口を開く。
「まあ、何。一応適合者だからまた隔離生活ってことにはならないけど、2日はここにいてもらうことになるからそこは理解して」
「2日ですか……分かりました。バイトに行けないのは痛いですし、店長に申し訳ないですけど、仕方なし、ですね」
「安心したまえ。前とは違って君には信頼性がある。だからスマホや娯楽物も言えば持ち込みOK、暇には困らない筈だと思うから。じゃあ、私もこれで失礼。落ち着きないことこの上ないと思うけど、ゆっくりしてって」
明美はそう言うと、部屋の出入り口に向けて歩き出す。「おやすみ」と背中を向け手を振りながら、彼女も退出していった。
部屋に残るのは春乃1人。
会話相手がいなくなったので静かになったが、彼は寂しいなどという感情に支配されることはなかった。
その後、彼はすることもないので眠ることにした。しかし、眠るとはいったが正確には横になるだけだった。夢に出る妹が怖いので、彼はすぐに眠りにつくことができない。よって、形だけでもという理由で横になるのだ。
「……今日も難しいか」
瞳を閉じるとあの光景がぼんやりと浮かぶ。
本人も我ながら恥ずかしいと思ってはいるのだが、こればかりは10年経っても改善されることはない。カウンセリングを受けても、薬を飲んでも、夢に出てくるのはあの光景。妹に食われるあの光景だ。