第2話 10年前のトラウマ
グチャリ、グチュリ、グチャリ……
家の床に倒れ、意識が朦朧としている春乃の耳に聞こえたのは、そんな咀嚼音だった。
肉を食べる音なのだろうか? 聴いているだけで食事している者の美味しそうな顔が浮かんでくる。
浮かんでくるだけで特に深くは考えようとはしなかった。春乃の頭は今全く働いていない。
なんで倒れているのか。
なんで気を失っていたのか。
なんで視界がボヤけているのか。
なんで体がこんなに痛いのか。
なんで赤黒いペンキが壁に飛び散っているのか。
なんで周りでペンキで汚れた父母が散乱しているのか。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……
考えようとはせず、ただただそんな疑問だけが脳内に綴られていく。
グチュリ、グチュリ、チュル、グチャリ……
「……」
だが彼の視界の中には、1人だけ、白いナニかが動いていた。
その白いナニかも他と同様にペンキで汚れていたが、白い髪の長さから見てどうやら女性のようだ。
グチャリ、ブチュ、グジュ、ジュ、
すると、その女は背中を向けていたようで、春乃の方にその顔を向けた。同時に春乃は少しずつ視界を取り戻していく。
「……」
春乃の目に入ってきたのは、目の焦点が合わない感情を忘れた獣。誰のか分からない肉塊を血まみれになりながらも貪る白い妹の姿だった。
⭐︎⭐︎⭐︎
「……」
椅子に座りながら机に倒れ込む状態で春乃は目を覚ました。
時間は朝の8時。場所は大通りの喫茶店の中。
7時頃からアルバイトとして仕事を始めてから早1時間。どうやら開店前の掃除中に眠ってしまっていたらしい。その証拠に、机にはモップの柄が立てかけられている。
「またかぁ」
また、嫌な夢を見た。
春乃は頭を掻きむしりながら自分に呆れる。ここのところ彼は毎日この時間に居眠りをしてしまっている。完全に寝不足が原因ではあるのだが、夜に長く眠れない彼には仕方がないことなのかもしれない。しかし、だからといって許してくれないのがこの世の中だ。
「只見〜? 何寝てるのかなぁ〜?」
カウンターから響く声にギクッとした春乃は、すぐにその場を立ち上がり、声の方向を向く。
「あ、すみません。店長」
そこには長い黒髪を後ろで束ねたこの喫茶店の店長、道原 香里奈がいた。
「オーナーだ」
「オ、オーナー」
「よろしい。まあ女1人でやってた頃に比べればだいぶ楽になったから感謝はしてるけど、その居眠りだけはどうにかならない?」
「……ごめんなさい」
「謝るんだったらさっさと手動かす」
「……はい」
春乃は言われた通りに掃除を再開した。
彼がこの喫茶店でアルバイトを始めて、もう2年は経っただろうか。年齢でいえば18歳の頃からだ。
10年前のパンデミックで生き残った春乃だったが、その後、8年間はあの研究施設で隔離生活を送ることになった。
常人とは違う体質だった彼は、8年でその安全が立証され、晴れてあの施設での生活からは解放されたのだが、その後に待ち受けていたのは辛い現実だった。
何せ、彼1人の為に政府は殆ど何も行わなかったのだ。生活支援も、救済措置も、その何もかもが。唯一されたのはほんの少しの資金援助だけ。
その結果、彼は中学教育もまともに受けられなかったので高校への入学、転入は認められず、彼の経歴も調べればすぐに出てくるので会社にも入社することができなかった。
渡された資金も多いわけではないので、通信制の高校にも通うことができず、通えたとしても金がすぐに底をつくので、中卒でも雇ってくれるアルバイトしかやれることはなくなっていた。
そう考えてみると、彼の事情を知った上で快く採用してくれた道原 香里奈という女性の存在は彼にとって救いだったのかもしれない。
12時頃……
店内は真昼時ということも相まって、かなり混み合っていた。春乃がアルバイトとして入ったからといっても、人数は2人。人数不足は変わらない。
「すみませーん」
「はいっ」
春乃は注文を取りに脚を速める。
「すみませーん」
「はいっ、少々お待ちくださいっ」
だが1人では追いつかない。
「すみませーん」
「はいっ、ただいまっ」
故に調理を香里奈が、注文と会計を春乃と分けてやってもギリギリだ。いや場合によっては追いつかないまである。
だが、この時間帯のラッシュを抜ければ後は楽なものだ。故に、彼らは脳をフル回転させ仕事に励む。
20時頃……
「フゥゥゥ、今日もよく働いたあぁぁ」
香里奈は、人のいなくなった店内の誰も座っていない椅子にドカッと座り、テーブルにその上半身を乗せた。その姿はまるで今朝の春乃のよう。だが、当の本人は眠気など既に覚めきっている。
なので、香里奈が休んでいる間、彼は溜まっている汚れた食器をカウンター裏で洗っていた。
「店ちょ、オーナー今日もお疲れ様です。鍵閉めとか後始末とか、後全部やっちゃいますので、もう先に帰宅していいですよ」
「……その気の利かせぶりは朝からやってほしいものなんだけど。それにその言葉はとてつもなく嬉しいけど、私この店のマスターだから。なんでもかんでもバイトに押し付けるほど、腐っちゃいないよ」
彼女はそう言い、疲れる体に鞭を打ち、立ち上がらせ、モップを持ち出して掃除を始めた。
「それに、最近何かと物騒だろう?」
「物騒?」
食器を洗う手を止め、春乃は顔を上げた。
「何? 知らないの?」
「はい。恥ずかしながら」
それもそうだろう。何せ、春乃は常に金欠だ。故にテレビを買う金もない。そういう知識などは、全てスマートフォンから流れてくるニュースで得ている。よって、地方ニュースとかそういう限定的な所の情報は彼は知らないのだ。
彼女もそれを察したようで、せっかくなので春乃に教えた。
「あぁ、テレビ無いんだったか? なら仕方ないか。最近、ここら辺で行方不明者が続出してるらしくてねえ。それもほぼ毎日のペースで。ここ最近のこの時間帯になると人が全く来なくなるだろう? これもそのことが原因さ。お陰で内は、営業時間短縮を食らっちまったよ。全く、いい迷惑だよ」
「そうだったん、ですか」
本当に物騒なものだ。8年前に最悪な思い出を作らされたこの建裏で、またそんなおかしなことが起こるなんて、恐ろしい。
春乃はそのことに少し恐怖しながら、食器洗いを再開した。
後始末が終わった後、春乃と香里奈は火の元や窓の鍵などをチェックし店を出た。
店のclosedが掛けられた扉の前で、香里奈は言う。
「よし。じゃあ、これでいいか。只見はどうする? 途中まで送ってあげようか?」
「一応これでも成人した身ですよ。それにお互いに帰る方向反対なんですから、俺なんかの為に時間を割いて危険度を上げるより、自分の家に直進した方がいいんじゃないですか?」
「ふむ。まあそれもそうか。じゃあ今日もお疲れ様。また明日も頼むよ」
「はい、お疲れ様でした」
互いに別れを告げると、背を向け合い、自身の家へと向かって歩いていった。
空の色は、既に真っ黒に染まっていた。
行方不明事件の影響か道を歩く人の姿は殆どなく、そんな道を歩く春乃はその光景を寂しく感じていた。
「いつも人がいないのは、それが理由か……」
彼の歩く道は、家の塀に囲まれた特に面白味のなさそうな、そんな道だった。朝には学校へ向かう学生や出勤する会社員が歩く道であり、昼にはご近所さん同士の会話の場でもある道だ。歩行の頼りになるのは、道を点々と照らす街灯のみ。それがよりこの寂しさに拍車を掛けている。
「早く治ってくれないかな、そんなこと」
自分に出来るのは、平穏に戻ってくれるのを願うというそんな人任せなことだけだ。
俺なんかが解決できるわけでもないし、関わりたくもない。他人事、自分とは違う世界での出来事だ。そんなのに巻き込まれて、また壊される……そんなこと考えたくもない。
春乃はそう思いながら1人、寂しい道を歩き続ける。
そんな中、ふとおかしなものが彼の目に入った。
彼は今、街灯の照らす明るい部分に入り込んだのだが、その2つ先にある街灯下にソレはいた。
同時に、妹のあの姿が脳裏に浮かんだ。
(気のせい、か?)
春乃は見間違いだと思い、手で視界を覆った。
まず、彼が疑ったのは寝不足だ。目が覚めたつもりでいたが、やはりまだ頭が眠っているのかもしれないと。
次に疑ったのは街灯の光だ。かなり明るくて白い光なので、そう見えただけかもしれないと。
そうだ、このどちらかに違いない。春乃はそう確信し、視界を覆う手をどけた。
けれど、視界にはやはり白いソレがいたがいた。
見た目は男性。下半身には、工場で働いていたかのようなズボンを履いており、上半身は裸。その体には、目立った脂肪や筋肉というものが付いておらず、寧ろガリガリの細身。そしてその肌は、まるでチョークの粉を被ったかのように白い。
「嘘、だろ……」
春乃の顔が絶望と恐怖に染まる。脳裏に浮かぶのはやはり、肉を貪る妹の姿だ。あの表情のないただ野生に身を任せたようなあの顔だ。遠くから見ても彼には分かる。その男の表情が。妹と同じ表情なのだと。
問題はそれだけでは治らなかった。
春乃が恐怖のあまり視線がソレに釘付けになっている時、なんと春乃の目とソレの目が合ってしまった。