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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

現代短編

やり直しスイッチ

作者: 糸木あお

 有希子に初めて会ったのは7月31日だった。外は暑くて蝋燭がどろどろと溶けるみたいに次から次へと汗をかいた。くたびれたTシャツが身体に張り付いてすごく気持ち悪かった。


 夏休みなのに友達のいない僕は、ひとりで虫を捕まえたり、川でメダカを捕ったりした。虫かごには蝉やトンボがぎゅうぎゅうにつまっていて、暑苦しかった。


 後で逃がすつもりはあるけど、取り敢えず黄緑色のプラスチックで出来た虫かごに入れておいた。水槽は持ってないのでメダカはお母さんが飲んでたコンビニのコーヒーのプラスチックカップを洗って水を入れたものに入れた。今日は7匹。まあまあとれた方だ。汚い川だけどまあまあ魚はいる。暇をつぶすためだけに僕は小さい命を捕まえた。


 大きな公園にはたくさんの子どもがいるから行けない。行っても誰も仲間に入れてくれないからだ。お父さんが脱税で捕まってからみんな僕と遊んでくれなくなった。嫌がらせはないけど無視はされた。僕はじわじわと、ゆっくり追い詰まっていった。


 でも、僕よりも辛そうなお母さんにそんなことは相談できなかった。だから、学校でのことを聞かれればみんなと仲良くしていると答えたし、ヒロシくんの誕生日会に行くとか適当なことを答えていた。ちなみにヒロシくんなんて子は同級生にはいない。こんな嘘、いつかはバレる。でも、その場しのぎでもやらないよりはマシだった。


 お父さんが脱税で捕まって刑務所に入って、お母さんは心労で痩せて前の半分くらいになってしまった。お父さんは脱税したお金でおめかけさんという人にたくさん贅沢をさせたらしい。おめかけさん、変わった苗字だと思う。お父さんはその人にマンションを買ってブランド物の鞄や宝石を贈ったと親戚の人から聞いた。


 僕もお母さんもそれを聞いて驚いた。お父さんは真面目な人でそんなことをするなんて思えなかった。会社のお金を誤魔化しておめかけさんにあげていたなんて全く想像がつかなかった。お父さんは気が弱くてひょろひょろと青白くて秋刀魚と栗ごはんが好きだから、という理由で秋が好きな人だった。新聞に小さく載る顔は別人なんじゃないかっていうくらい悪人顔で僕はさらに驚いた。人間は、いろんな姿がある。


 夏休みが始まって10日ほど過ぎた7月31日、水筒のポカリがあと少ししかなくなって、心許なくて僕は日陰を求めて廃工場へ忍び込んだ。昔は学校で使うガラス製品を作っていたらしい。中学生が度胸試しで良く使う場所だった。そこで猫を見かけると聞いていたのできっと涼しいと考えたのだ。


 でも、僕が見つけたのはひとりの女の子で、猫じゃなかった。


 日本人形みたいなおかっぱの髪に白いワンピース姿だから最初は幽霊かと思ったけれど、足もあるし汗をかいてたから違うと僕は判断した。


「ねえ、こんなとこで何してるの?」

「あなたこそこんなところで何してるの?」


 僕のまわりであなた、なんて呼び方をする子はいなかったから新鮮だった。まあ、今は誰も僕のことを呼ばないけれど。


「陽が強いから涼みに来たんだよ、君は?」

「家に帰りたくないの」

「ふうん、そうなんだ。ここ、ガラスがたくさん割れてるから危ないよ」


「あなただっているじゃない。おんなじ子どものくせに」

「君っていちいちトゲトゲしてるんだね。そんなんじゃ友達出来ないよ?」

「あなただって友達いないんでしょ? ひとりでこんなとこ来て」


 涼しい顔して正論を言う彼女のことを可愛くないと思った。僕は彼女に背を向けて歩き出した。シャワシャワの蝉の声がうるさかったけど、ここにいても楽しくないし川でメダカでも捕まえようと思った。


「ねえ、待ってよ。暇だから少し話をしない? 塩飴もあげるから。熱中症予防になるのよ」

「わかった。でもさっきみたいな言い方しないでくれる?」

「うん。わたしハッキリ言うタイプだからすぐ人に嫌われるの」


「ハッキリというか無神経なんじゃない? あ、僕も今ちょっと無神経だった。ごめん」

「ううん、わたしもごめん。ちゃんと謝れてあなたは偉いのね。名前を聞いても良い?」

みなとだよ。君は?」

有希子ゆきこ、希望がある一生って意味なんだってパパが言ってた」

 

 これが僕と有希子の出会いだった。夏休みはまだ始まったばかりで、暇な僕らは廃工場を拠点にして色んな遊びをした。川でメダカを捕ったり、神社で水風船を投げ合った。有希子はいつも白いワンピースだったから水に濡れて張り付いた服を見るとなんだかとても悪いことをしているような気持ちになった。


 蟻の巣にはちみつを流し入れたりブランコからどちらが遠くに着地できるか競争した。駄菓子屋で凍ったジュースを買って半分こした。青く染まった舌を見せ合って笑った。有希子はお転婆で運動神経が良くて虫も平気な顔して触るので男友達と遊ぶのとあまり変わらなかった。どこの学校に通っているかは知らないけどあの日廃工場に行ったのは良い選択だったと思う。


 クラスメイトに見られたくないから、彼女と遊ぶときはいつも少し遠いところに行った。誰かに揶揄われるのも、お父さんのことを有希子にバラされるのも嫌だった。有希子に知られて距離を置かれたらすごく落ち込むだろう。僕はもうこの時点で有希子のことが好きになっていた。天使の輪が輝く黒いサラサラの髪に触れてみたかった。


 5時のチャイムでいつも別れて家に帰ったけど、有希子は7時くらいまで時間を潰してから帰っているらしい。新しい母親と姉は有希子に対して暴力を振るうからなるべく顔を合わせたくないと言っていた。有希子は内緒だよと言って背中の痣を見せてくれた。白いすべすべの肌には青や黄色、それに紫のカラフルな痣があった。服で隠れないところには痣ひとつないのに服の下の肌は痣だらけだった。


 それを見たとき、汗でじっとりと張り付いたTシャツがより重たく感じた。こんなに細くて白くて折れそうな有希子に暴力を振るうなんて目の前に証拠を突きつけられても信じられなかった。そして、彼女の母と姉に対して怒りが沸いた。


「児童相談所って知ってる?」

「知ってるよ。うちに2回来たの。でもね、わたしのこと嘘つきだって言うから嫌い」


 有希子に対して母と姉からの直接的なひどい暴力がなかった頃、彼女は自分で児童相談所に電話をした。図書館に貼られたポスターで知って助けを求めたのだ。当時、母と姉からはごはんを食べさせなかったり、容姿を揶揄ったり髪を切られたりはしたけれど、今のように殴られたり蹴られたりはしていなかったそうだ。それでもガラリと環境が変わって辛かった有希子は電話口で助けてと言った。   


 数分の聞き取りの後、児童相談所の職員が翌日訪問することになり有希子は期待した。こんな生活からやっと抜け出せると久しぶりに明るい気持ちになったそうだ。しかし、その期待は呆気なく裏切られ、母と姉からの暴力はエスカレートした。


 彼女が希望を捨てて諦めかけた時、近所に住んでいた男の子が有希子のためを思って児童相談所に通報した。しかし、その間隔があまりにも短かったことにより悪戯と決めつけられてしまった。一応児童相談所から職員はやって来たが、前よりもかなりやる気がない対応で有希子は絶望した。大人は誰も信じてくれない。


 めったに帰ってこない父も彼女の話を信じてくれなかったため、より一層孤独感が増した。父からは気を引く為に大袈裟に言っていると思われ、小学生にしては多めのお小遣いを渡された。それにより彼女の栄養状態は改善されたがそれだけだった。


 たまに会う有希子が痩せても太っても彼女の父は好き嫌いが多いのか、くらいにしか思っていなかった。新しい妻と血の繋がらない娘との交流にばかり気を取られて、今や彼の唯一の血縁である有希子のことを少し疎ましく思っているようだった。


 また、母と姉はとても上手く虐待を隠すので父も気付かなかった。父の帰宅が近付くと彼女たちは跡が残るような暴力を行わず暴言や食事を抜くことで有希子に対して嫌がらせをしていた。有希子の父は忙しく、母親の不在を心配していたため、後妻を娶ったが彼の思うようにはいかなかった。懐かない有希子に悩む妻と義理の娘を見て彼は心を痛めた。しかし、有希子が虐待されているなんて父は夢にも思っていないと彼女は言った。


 有希子の話を聞くたびに、自分はまだマシで彼女の方が不幸だと思った。お父さんが刑務所にいてみんなから無視されても、有希子の白い肌に浮かぶ痣を思えば、もう少し頑張る気力が沸いた。有希子と一緒にいれば僕は不幸な人間じゃなくなるような気がした。だから、僕は有希子がずっとここに来てくれるように祈った。もし、彼女が虐待から解放されても僕に会いに廃工場まで来て欲しいと毎日額縁に入ったご先祖さまの写真にお祈りをした。


 有希子の財布にはいつも何枚かの1万円札が入っていて、それで好きなものを買った。電車に乗ってデパートでパフェも食べた。明るく綺麗なレストランで見る有希子も良いけど、やっぱり薄暗い廃工場でお互いに触れ合うくらい近くにいる彼女のほうが好きだった。有希子の日焼け止めとシャンプーの混ざった甘い匂い。あの場所なら誰にも見つからずに2人だけでいられるから、いつの間にか廃工場に行くと心が安らぐようになっていた。


 有希子と出会って仲良くなって1ヶ月が経った。明日から学校が始まるから有希子にしばらく会えなくなるのがさみしいと思った。でも、違う学校だから仕方ないとも考えた。有希子は朝からなんだか元気がなかった。


 もしかして、有希子も同じ気持ちなんじゃないかと思って僕は少しだけ嬉しくなった。夏休みのほとんど毎日を一緒に過ごして、彼女の背中にある痣に湿布を貼った。間違いなく有希子と1番親しいのは僕だと確信していた。


「ねえ、明日から学校だね」

「……うん」

「嫌だね。宿題は終わったけど今みたいに会えなくなっちゃうね。平日は難しくても休みの日なら会いてるからまた遊ぼう」

「あのね、湊。わたし明日引っ越すんだ。だから、もう湊には会えないの。ずっと言えなくてごめん……。せっかく仲良くなれたから言い辛くて。ごめんね」


「うそ、そんなの酷いよ! 引っ越してどこに行くの?」

「九州だよ。ずっと下の方。ここから行くなら飛行機とかになっちゃう。だから、もう会えないよ」

「嫌だ! 有希子の馬鹿! もう知らない」


 僕は有希子の肩を掴むと、彼女の唇に無理やり自分の唇を押しつけた。そして、彼女を突き飛ばして廃工場から走り出した。僕の頭の中は有希子に裏切られたような気持ちでいっぱいだった。


 そんな僕の気持ちに応えるように急に土砂降りの雨が降り出した。ずぶ濡れで服が張り付いて気持ち悪かった。有希子が引っ越してしまうなんて信じたくなかった。有希子のことが好きだから、ずっと一緒にいたかった。


 そんなことを考えながら歩いているとひょろりと背の高い男の人とぶつかった。全体的に黒っぽい服を着たその人は死神のような不吉な顔をしていた。左右非対称にニヤリと笑って僕の手を掴んだ。


「やあ、湊くん。君に素敵なプレゼントだ。ここにあるスイッチを押すと君が戻りたい時間を何度も繰り返すことが出来る。勿論、お代はいらないよ。頑張ってね、君に幸運がありますように」


 彼はそう言ってから僕の手に黄緑色の小さなプラスチックで出来たおもちゃを握らせて来た。そして、一瞬目を離した瞬間にその場所から消えていた。何かの冗談か熱中症で見た幻覚かと思ったけど手の中には確かにスイッチのようなものがあった。


 ふざけてる、と言ってスイッチをゴミ箱に捨てることは簡単だ。だけど、これを持っていないといけないような気がして僕はそれをズボンのポケットに入れた。


 夏中遊んだのに僕は有希子の家がどこにあるのか知らなかった。それどころか彼女の苗字だって知らない。有希子も僕がどこに住んでいるかなんて知らないだろう。でも、僕は父さんのことを知られたくないから意図的に隠していた。一度、有希子にどのあたりと聞かれたときに僕ははぐらかした。犯罪者の息子だと知って彼女に嫌われるのが怖かったのだ。


 次の日、廃工場でどれだけ待っても有希子はやって来なかった。すごく悲しくて寂しくて涙が溢れそうだったけど夕方まで待って、家に帰るとお母さんが僕に飛びついて来た。


「ああ! やっと帰ってきた。川で小学生の女の子の死体が見つかったって聞いて心配してたのよ! いろんな場所を探してもいないし、やっぱりキッズケータイを持たせれば良かったってお母さんずっと考えてたのよ」

「女の子の死体? それってどこの学校?」


「あなたとは違う学校の子よ。身体中に痣があったんだって。怖いわ。犯人もまだ見つかってないのよ。しばらく、集団登下校になるって連絡が来たから明日からは地区の子たちと行くのよ。あと、犯人が見つかるまで放課後は外で遊んじゃ駄目よ。あなたまでいなくなったらお母さんもう生きていけないわ」

「わかった。じゃあ図書室で本でも借りてくるよ。最近のテレビつまらないし」


 痣が身体中にある小学生の女の子と聞いて嫌な予感がした。お父さんのパソコンで事件について調べると川又有希子かわまたゆきことあり、間違いなく僕の知っている有希子だった。


 インターネットで調べれば被害者の顔写真なんてすぐに出てくる。ついでに住所もわかった。そしてこれは知りたくなかったことだけど、有希子の身体の中からは犯人の体液が見つかった。一瞬僕が加害者だと疑われているのかと思ったが、体液が見つかったのはもっと決定的な場所からだった。有希子は完璧に被害者なのに酷い言葉も書かれていた。


 僕は有希子に馬鹿と言って無理矢理キスして突き飛ばして逃げて行った。彼女は死ぬ前に僕のことを思い出しただろうか。死ぬってことは痛かったり苦しかったに違いない。有希子にもう一度会いたいと思って僕は有希子の家へ向かった。有希子の家のまわりには野次馬が何人かいた。多分記者だろうという見た目の人もいた。


 一瞬だけ触れたすこし冷たい唇はもっと冷えているのだろうか。なんとか忍び込もうとしたけれど警察の人が見張っていて入れなかった。僕は自宅に戻り、神に縋る気持ちでやり直しスイッチを押した。その途端に酷い吐き気がして僕は気を失った。


 目が覚めると自室だった。熱中症かなにかだったのだろうか? しかし、どこか違和感がある。終わらせたはずの宿題が机の上にあり、カレンダーの月が7月になっていたのだ。信じられずに頬をつねったら普通に痛くて、すぐに帽子をかぶって廃工場に向かった。


 アスファルトがジリジリと焼けるような暑さも今は全く気にならなかった。今日は7月31日、有希子と僕が出会う日。大丈夫、もう一回経験したことだから絶対に上手くいく。今度はもっと早く有希子に好きだと伝えよう。彼女が1ヶ月で引っ越すとしても文通とか電話とかメールとか出来るはずだ。


 黒いおかっぱに白いワンピースの後ろ姿を見つけて、今すぐ飛びつきたいくらいだったけれど僕は紳士的に声をかけた。


「ねえ、君、こんなとこで何してるの?」

「あなたこそこんなところで何してるの?」

「陽が強いから涼みに来たんだよ、君は?」

「家、帰りたくないの」

「そっか、実は僕もそうなんだ。ねえ、僕たち似たもの同士じゃない? きっと友達になれるよ」


「えっ、良いの? わたしと、友達になってくれるの?」

「勿論。僕の名前は湊だよ。ねえ、塩飴持ってない? 熱中症になりそうなんだ」

「うん。丁度持ってるからあげるわ。わたしの名前は川又有希子、よろしくね、湊くん」

「よろしく、有希子。早速だけど何して遊ぼうか?」


 僕たちは神社の中になっていた枇杷を洗わずに食べてタネを遠くまで飛ばしあった。前に有希子とスイカを食べた時もそういえばタネを飛ばして遊んだ。それまでだって特別だった毎日がもっともっと特別になった。


 それから僕らは毎日遊んだ。ブランコでどっちが遠くまで跳べるか競争したり、夕方のプールに忍び込んで泳いだりかき氷を食べたりした。その間に僕と有希子は恋人同士になってかき氷のシロップ味のキスをした。有希子の日焼け止めとシャンプーの匂いを近くに感じながら冷たい舌を見せ合った。前よりはきっと上手くできたと思う。


 今回の8月31日は有希子がなんと言おうが一緒にいると決めた。僕は近所のホームセンターで唐辛子のスプレーとレンチと結束バンドを買ってリュックの中に仕舞った。有希子から引っ越すと告げられた時、それなら今日はずっと一緒にいたいと言って彼女のそばから離れなかった。


 前回と違う行動をしたからか彼女は変質者に襲われることはなかった。だから、僕は有希子を家まで送ってから自宅へ戻った。


 いつもよりもずっと遅く帰ったからお母さんは心配してたと怒ったけど、有希子の命を救えたからそんなことは些事だった。僕はやり遂げたことに満足して布団に入った。夢も見ないくらい深く深く眠った。


 次の日、引っ越す有希子にひと目会おうと朝早くに彼女の家に行くと、そこには引っ越しのトラックはいなかった。その代わりにパトカーや救急車、消防車が止まっていた。黄色いテープが家のまわりに貼られていて、なんだかとても不吉な予感がした。


 集まっていた人たちを警察が解散させようと躍起になっていた。それでも彼らのお喋りは続き、僕の耳に届いた。


「無理心中だって。末の娘さんだけ亡くなって奥さんは骨折で入院らしいわよ」

「川又さんの奥さんって後妻でしょ? 有希子ちゃん可哀想だわ。あの子いつも1人でいたじゃない」

「児童相談所も来てたのよね? 結局、防げなかったじゃない」

「本当に可哀想だわ。お父さんがいない時に殺されるなんて」


 誰も有希子を助けなかったくせによく言うと思った。でも、有希子を助けられなかったという点では僕も同罪だった。


 僕はすぐに家に戻って、机の中に仕舞ってあったやり直しスイッチを押した。強い吐き気とめまいがしてから意識を失った。目が覚めると部屋に掛けられたカレンダーは7月だった。僕はまた7月31日に戻ってきた。今度こそ有希子を救うために。


 僕は有希子との出会いをやり直して前よりも上手く有希子と接した。有希子が僕に対して心を開くのも前回より早かった。僕たちはすぐに付き合って抱き合ってキスをした。


 有希子に、湊くんって大人っぽいというかなんかこういうこと慣れてるねと言われた時、君とは3回目だからとついポロリとこぼしてしまいそうになった。


 今度こそ有希子を救うと考えた8月の第2週、また前回と違うことが起きた。連続殺人事件。被害者は男子大学生、会社員の男性、そして、有希子の母だった。引っ越しの件はもっと早くに聞いていたけれどそれもなくなった。僕は今度こそ有希子を救えると思った。


 でも、9月1日に彼女は他殺体で見つかった。犯人は僕だ。未来の僕。やり直しスイッチを渡してくれた死神のような男が有希子の胸にナイフを突き立てた。白いワンピースが赤く染まって、それからジワジワと黒ずんでいった。有希子が地面に倒れ込んだ時、未来の僕は神に祈るようなポーズをしていた。


 いつもよりもセミの声がうるさくて僕は耳を塞いだ。ふらつく足で僕は自宅に戻った。その間も白いワンピースに染みていく真っ赤な血が目から離れなかった。僕は有希子のために運命を変えようと思った。机の中のやり直しスイッチに手を伸ばす。3回目、今度こそ僕は彼女を救う。


 カレンダーは7月、七夕の笹や短冊、織姫と彦星が描かれている。僕は廃工場に行くのをやめた。僕が出会わないことで有希子の未来を変えようとした。児童相談所に何度も通報をして虐待を証明した。本人の言葉は信じなかったくせにネット掲示板で晒して正義感から通報する人がたくさんいたから対応が変わった。


 有希子は遠くの福祉施設の一時保護所に移動することになった。彼女のこの先を僕は知れない。でも、彼女が死なないことが一番だった。


 だから足元に転がる不吉な黒い男の死体は廃工場に放置した。これでもし僕が捕まっても良いと思った。今の僕には有希子を助ける方法はこれしか思い浮かばなかった。


 僕は有希子と過ごした幸せな夏を絶対に忘れない。彼女を救うために何度も繰り返した夏は僕にとって特別だった。未来の僕だってきっと有希子のことが特別だった。


 だから、今ここにいる僕は有希子から離れる。彼女の可能性を僕が邪魔しないために。二度と、彼女に会うことはなくても、心の中で有希子の幸せを願った。僕の初めての恋人、繰り返した幻の夏の思い出をずっと大切に生きていこうと思った。


 涙を拭って顔を上げると、アスファルトの向こうに逃げ水が見えた。明日から9月といえどまだまだ暑い。塩飴を口に放り込んでから僕は帰路についた。一瞬だけぬるい風が吹いたときに、有希子の日焼け止めとシャンプーの甘いの匂いがしたような気がした。


夏らしい短編が書きたくて書きました。評価や感想を頂けるとやる気が出ます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 2週目の青春している感じが好きです。
[良い点] 短いながらに色々な要素が詰め込まれていて読んでいて面白かったです [気になる点] 語尾が「〜た。」で終わるのが多くて、少し単調だなと感じました。
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