九.月夜に逃走る
かすかに、風を切る音。
次の瞬間――!
「ぎゃっ!」
目の前の男の悲鳴とともに、血しぶきが舞った。
男は無抵抗に倒れ、首から血を吹き出しながら絶命している。
と同時に、男の刀が消えた。
闇の中で短い悲鳴のような声が続き、次々に男たちが倒れていく。
見事に斬られている。
何が起こっているのか分からない。
皆うろたえ、脅え、やみくもに闇に刀を向ける。
柚月と義孝は、動揺しながらも目を凝らし、気配をうかがった。
何かいる。
だが、何がいる。
闇を睨む二人の前に、刀が一振り放られた。
刀が地面に当たる音。
二人ははじかれたように、その音の方を見た。
誰もいない。
だが、柚月はふわりと温かな風を感じ、同時に、腕を掴まれた。
懐に誰かが入り込み、掴まれた腕が、その人物の肩にかけられる。
知っている顔。
だが、にわかには信じられない。
椿だ。
柚月は驚きで大きく目を見開き、声も出ない。
椿は柚月を抱え起こすと、そのまま走り出した。
「お、追え!」
事態に気づいた義孝が声を上げと、ほかの者たちが慌てて二人を追い始めた。
椿は足場の悪い険しい道を、手負いの柚月を抱えながら器用に走り抜ける。
速い。
ケガをしているとはいえ、柚月はついていくのがやっとだ。
とはいえ、肩を組んだ状態ではそう速くは走れない。
追っ手がすぐそこまで迫ってきている。
姿が見えた。
追い付かれる。
柚月が応戦しようと、椿から離れようとした瞬間、逆に椿が柚月を抱き寄せ、そのまま道から外れて、急勾配の斜面に突っ込んだ。
低木の枝か、草か。
なにか分からないものが、次々にぶつかってくる。
少しでも体勢を崩せば、転がり落ちる。
そうなれば、ただでは済まない。
柚月は必死で全神経をとがらせた。
一方椿は、柚月を支えながら器用に木を避け、時に斜めに伸びている木の根元を踏みつけて方向転換をし、どんどん下っていく。
こんな急斜面なのに、滑っているのではない。
走っている。
男たちは、二人が飛び込んだ先を見下ろした。
落ちていくような音は聞こえてくるが、それもどんどん小さくなっていく。
姿は闇に消え、何も見えない。
「死んだな」
一人がぼそりと漏らす。
「いや、死体を確認するまで安心するな」
「行くぞ」
男たちは再び、険しい道を駆け出した。
急斜面は、永遠に続くのではないかと思うほど長かった。
――…死ぬかと思った…。
やっと平らな地面にたどり着き、柚月はへたり込んだ。
椿は柚月を残し、近くの塀の陰から、あたりの様子をうかがっている。
どうやら、都の端、町人たちの住居が立ち並ぶあたりらしい。
幸い、まだ追っ手の気配はない。
椿は素早く柚月の元に戻ってくると、座り込んでいる柚月を抱え起こし、歩き出した。
柚月は義孝に刺された傷のせいで、左足にうまく力が入らない。
ほとんど引きずるような状態だ。
目がかすみはじめ、だんだん意識もぼやけてきた。
出血がひどい。
徐々に重くなっていく柚月を、椿は必死で支えた。
進む速度も、だんだん落ちていく。
大通りの近くまで来た時、人の気配に気づき、二人は家の陰に隠れた。
数人。
わずかに声も聞こえる。
明らかに何かを探している。
奴らだ。
椿はあたりを警戒しながら、家の陰を選んで進んだ。
歩を速める。
だが、何かに躓き、柚月が倒れこんだ。
呼吸が荒い。
柚月はなんとか上体を起こすと、そのまま壁にもたれかかった。
屋根の端に、月が見える。
きれいな満月だ。
『殺せ』
楠木の冷たい目が、脳裏によみがえる。
捨てられた、という絶望。
だが、頭のどこかで、いつかこうなるのではないかとも思っていた。
「柚月」となった、あの夜から。
――もう、太陽を見ることは、ないかもな…。
かすんでいく意識の中、そう思った。
たどってきた道には、まるで道標のように血の跡が続いている。
体は思うように動かない。
追っ手の気配は近づいてきている。
――見つかるのも、時間の問題か。
柚月は椿の肩を押した。
「行きな。あんた一人なら、逃げ切れるよ」
振り向いた椿に、柚月は優しく微笑む。
「どこでもいい、武家屋敷に駆け込め。そこまで奴らは追ってこないから」
柚月はもう、微笑みにも、手にも、力がない。
だが、懸命に「行け」と言う。
自分を置いて――。
椿は柚月の腕をぐっと掴んだ。
肩をかし、立ち上がる。
「もうすぐです」
力強くそう言うと、柚月を抱えて再び歩き出した。
武家屋敷が立ち並ぶあたりに来た頃には、柚月はほとんど、椿に引きずられるように歩いていた。
追ってくる気配は、もうない。
椿は邸の裏木戸の前に立ち止まると、周囲に人気が無いことを確認し、木戸を開けた。
中に入るなり、柚月は力尽きたように椿の肩から滑り落ち、そのまま地面に倒れた。
目の前に、敷き詰められた玉石が広がり、わずかに、湿った土の匂いがする。
「遅かったですね。心配しましたよ」
男の声が降ってきた。
穏やかな声だ。
柚月はなんとか顔を上げ、声の方を見た。
すぐそばに離れのような建物があり、男が一人、廊下に立っている。
身なりのいい。
見覚えがある。
団子屋で椿と一緒にいたあの男だ。
「お通ししなさい」
男は、椿にそう言うと去っていく。
椿はその後姿に、かしこまって一礼した。