参.此処に
「あいつが帰る場所は、ここしかありませんよ」
清名にそう慰められ、椿は一人、鏡子が待つ雪原の別宅に帰った。
十日ほど経つ。
椿は井戸端で洗濯をしながら、ため息をついた。
後悔が、押し寄せては引き、引いてはまた押し寄せてくる。
なぜあの日、柚月を一人にしてしまったのだろう、と。
柚月が出ていく姿を見た者はいない。
朝、医務室には、空の布団だけが残されていた。
「それが終わったら、ご飯にしましょうか」
縁側から、鏡子が明るく声をかけた。
その顔は微笑んではいるが、その笑みに元気がない。
気丈にふるまっているが、鏡子も柚月が心配でならず、ろくに眠れていない。
「そうですね」
椿は精いっぱい微笑んで応えると、再び洗濯物を掴んだ。
ごしごしと、無心に洗濯板にこすりつける。
その手が、ピタリと止まった。
表が騒がしい。
来客。
この邸に。
来る人間など、限られている。
椿と鏡子は、まさか、と顔を見合わせた。
廊下を、足音が近づいて来る。
息をのむ二人の前に現れたのは、雪原だった。
「ああ二人とも、ここにいたのですね」
いつもの微笑みに、穏やかな声。
雪原はまだ何か言いかけていたが、椿が遮り駆け寄った。
「柚月さんが…!」
そうまで言ったが、気が逸るあまり言葉が詰まる。
「まだ戻らなくて!」
鏡子が後を継いだ。
「え?」
雪原は鬼気迫った二人に気圧され、目をぱちくりさせている。
「…柚月なら、宿場町にいますよ?」
「え?」
椿と鏡子は声を重ね、顔を見合わせた。
「十日ほど前ですかね。ふらっと現れて、復興の手伝いをしているって、現場から報告がありましたけど…」
と言いかけて、雪原は改めて二人の顔を見た。
二人とも目を見開き、驚きと不信が混じった複雑な顔をしている。
「知らなかった…みたいですね」
椿と鏡子が、息ぴったりに同時に頷く。
雪原は、おやおやと困ったように苦笑し、顎を掻いた。
「そうですか、それは悪かったですね。てっきりここから通っているのだと思って、知らせなかったのですが。さっき会ってきましたけど、元気そうでしたよ。話があるから一度戻るよう言ったので、そろそろ帰ってくると思うのですがね」
そう言って玄関の方をちらりと見ると、「あ」と、急に何事か思い出したように、鏡子に風呂の用意を頼んだ。
柚月は火災の後片付けを手伝っていて、煤だらけだという。
「まず風呂に入れないと。あれで歩き回られたら、家中煤だらけになります」
雪原は笑ったが、鏡子はまだ事態をうまく飲み込めていない。
「え? ええ…」
上の空のような返事はしたが、ころころと目を動かすばかりで、足は地面に根が張っているように一歩も動かない。
その横で、椿はみるみる笑顔に変わった。
じわじわと、胸の奥から温かい感情が湧き上がってくる。
柚月は無事だという安堵。
もうすぐ帰ってくるという喜び。
早く会いたい。
という、確かな想い。
「私、迎えに行ってきます!」
椿は駆け出した。
「え! 椿?」
雪原と鏡子が驚いた、その時。
カラカラと、玄関の戸が開く音。
皆の注意が一斉に玄関に向いた。
草履を脱ぐ音がし、廊下を、歩く足音が近づいてくる。
そして、廊下の角から薄汚れた袴がのぞき、柚月が現れた。
確かに、煤だらけ。
頬まで黒く、こすった跡がついている。
「どう…したんですか?」
柚月は、きょとんとした。
皆の視線が一心に向けられている。
しかも、雪原はいつものように微笑んでいるが、鏡子と椿は驚きと困惑が混ざったような複雑な顔だ。
「え?」
事態が分からず、柚月が困って頬を掻いた。
その様子に、やっと鏡子が微笑み、一気に空気が緩んだ。
「おかえりなさい」
鏡子の、安堵した顔。
「おかえり」
雪原の、穏やかに微笑み。
そして。
「おかえりなさい!」
椿の笑顔が花咲く。
柚月の中に、ザッと澄み切った風が吹いた。
鏡子、雪原、そして、椿。
皆の温かいまなざしが、自然と教えてくれる。
ここが、自分が帰るべき場所なのだと。
柚月の驚いた顔が、ゆっくりと、よく晴れた夏空のような笑顔に変わった。
「ただいま」
天高く、青く澄んだ空が、どこまでも広がっている。




