九.鬼
柚月は、義孝と同じように楠木ともあるいは、と、淡い期待を抱いてしまっていたのかもしれない。
だが、楠木と対峙した瞬間、それは叶わないと悟った。
三山が交差する場に祀られた祠。
楠木は、その祠に腰かけていた。
じっと、地面をみつめ、まるで、遅れてくる誰かを待ちわびているかのように、苛立ちと逸る気持ちを抑えている。
異様だ。
楠木自身だけではなく、楠木を取り巻く空気までも。
柚月は、自然と足が止まった。
近寄れない。
その気配に、楠木がゆっくりと顔を上げた。
ギラリと光る目が、柚月を捉えている。
柚月は一瞬、一歩引きそうになったのをかろうじて踏みとどまった。
風に乗って、血の匂いが漂ってくる。
――人を、斬ったんだな。
それがまた、楠木の異様さを煽り立てる。
「よう。一華」
久しぶりに聞く楠木の声は、以前のそれとは違っていた。
何かにとりつかれたような、不気味な声音をしている。
「お前、随分出世したみたいじゃねえか。政府の、それも、陸軍総裁様なんかに、べったりくっついてよ」
楠木は、嘲笑するような調子でそう言うと、一変、鋭い眼光で柚月を睨んだ。
「で、何しに来た」
柚月は、背中が冷たい汗でぐっしょり濡れている。
だが、ぐっと拳を握りしめると、楠木に真正面から向いた。
「あなたを、斬りに来ました」
柚月の真直ぐな目が、楠木を捉えている。
その目に、楠木はニタリと笑った。
「本当に、偉くなったもんだ」
そう言って、ゆらり、と立ち上がる。
その様はさながら、亡霊。
柚月はビクリと脅えたように肩を震わせた。
楠木が、のそりのそりと向かってくる。
柚月は、地面を踏みしめ、構える。
手が、顎が、震えそうだ。
それを、必死で無視して楠木に集中した。
楠木は、ゆっくりと、近づいてくる。
その顔が、はっきりと見えた。
ギラギラ光る目は、この世を捉えてはいない。
『あれは、鬼だ』
佐久間の言葉が、今、現実として目の前にある。
父と慕ったこの人は。
師と仰いだこの人は。
もう、人ではない。
人では、なくなってしまった。
柚月は深い悲しみの感情が沸き、それをかき消すように鯉口を切った。
楠木は加速しながら抜刀し、右薙ぎに切り込んだ。
柚月の右腹から横一線、楠木の刀が走る。
それを柚月は刀で払った。
楠木は、すぐに一歩踏み込んで胴に一刀入れる。
柚月は刀で受けたが、その重さ。
柚月の知る楠木のものではない。
まるで、鬼の力が宿ったかのようだ。
強い。
「この国はなあ、一華。腐ってるんだよ」
押し合う刀が、ギリギリとなる。
柚月は競り負けそうになるのを、必死に耐えた。
「お前も知っているだろう。城に蔓延る馬鹿どもを。肩書が立派なだけで、中身なんて何も無い、空っぽだ。覚悟も責任感もない。民の苦しみも、国の利益も考えちゃいない。あいつらは、自分の保身にしか脳みそ使ってないからなぁ! この国は、そんな奴らが支配者気取りだ。松平実盛の姿を見ただろう。あの名ばかりの国主を。あいつが何をした。国は潤ったか? ああ? 衰えるばかりだったろう!」
楠木の力が増し、柚月はわずかに押されたのをこらえた。
こらえながら、胸に、苦々しい思いが湧いている。
柚月も知っている。
萩の民は貧困にあえぎ、治安は悪化するばかりだった。
その結果、野盗が横行し、あちこちで村が襲われた。
奴らは、ただ物を盗るだけではない。
どれほどの人が、犠牲になったことか。
女、子供、老人。赤ん坊さえ。
にもかかわらず、国主である実盛は、その野盗の始末さえ明倫館にやらせた。
萩の軍を使わず。
存在を認めてさえいなかった、小さな私塾に押し付けたのだ。
「だからっ…」
柚月は懸命に持ちこたえながら、声を絞り出す。
「だから、いい国を作ろうとしたんじゃないんですか? 弱い者が、安心して暮らせる国を」
それを信じてついて来た。
そして。
「そのために、俺は…! …俺は…っ」
楠木の口元が、ニヤリと笑んだ。
「ああ、よく殺してくれたよ」
楠木の冷たい目が、柚月を見下している。
柚月は、心が抉られ、一瞬怯みそうになった。
変えようのない事実が、逃れようのない罪が、否応なく襲ってくる。
柚月は自身を鼓舞するように、刀を握る手に力がこめた。
「俺は、あんたを信じてた!」
柚月がわずかに押した。
が、それを楠木の力が押し返してくる。
楠木の、蔑むような不気味な笑みが、ぐっと近づいた。
「ああ、そうだった。そうだったなぁ。お前は本当にかわいいよ。バカみたいに信じてな。あんな戯言を」
「…戯言?」
柚月は、カッと怒りが湧き、怒りに任せて押し払うと、楠木の腹を左薙ぎに払った。
楠木は後ろに飛びのきかわす。
二人の間を、ざっと風が吹いた。
柚月は肩で息をしながら、楠木を睨みつけている。
その目に宿る、強い怒り。
楠木はゾクリとした。
えもいえず、心地いい。
「なら、あんたは、何のために…。何のために、こんなことを」
多くの犠牲を払って。
柚月の声には、怒りが浸透している。
楠木がふっと、真顔になった。
不気味なほどに静かな表情だ。
「何の為?」
楠木がまとう空気が、変わった。
「そんなものは、決まっている」
言いながら、一足飛びで斬り込んだ。
柚月ははじいたが、楠木は追撃の手を止めない。
「あいつらはなぁ、一華。安全なところから出ようともせず、その上努力まで忘れ、結果、その立場が脅かされることを恐れて、能力がある者を認めない。偉そうなだけで!」
楠木の目は、さらにギラギラと光り、常軌を逸していく。
それと比例して、刀がさらに速く、重くなる。
柚月ははじくので精いっぱいだ。
「なにが家柄だ! 肩書だ! そんなものに何の価値がある‼」
楠木の激しい一撃に、柚月ははじきながらもよろけた。
楠木が大きく振りかぶる。
「あんな屑どもより、この俺が劣るなど。そんな世など、認めん! この俺が、あんな奴らの下に置かれるなど‼」
渾身の力で振り下した。
柚月は飛びのいてかわすと反撃し、小手、胴、肩と、少しずつ楠木に傷を負わせるが、楠木は出血しているのも全く意に介さず、疲労さえ感じている様子はない。
柚月が一歩飛びのき、にらみ合いになった。
柚月の息はさらにあがり、肩が大きく上下している。
それに対し、楠木は穏やかなものだ。
「間近で見た中央政府はどうだった。ああ? 同じだっただろう。この国にはな、屑しかいねえんだよ」
楠木の形相は、もう人ではない。
「俺こそが、この俺こそが! 国を統べるにふさわしい‼」
楠木が振りかぶった瞬間、柚月の背で、七輪山からわずかに朝日がのぞいた。
空を、世界を、一気に照らす、目もくらむような閃光が走る。
力強い光が、楠木の目を打った。
楠木がひるんだ。
その一瞬を、柚月は逃さなかった。
がら空きの胴を右から横一線に切り払い、返して、足を切りつけた。




