六.ケンカの果て
柚月は、ゆっくり振り向いた。
この暗さでもわかる。
その姿。
「義孝…」
義孝は何も言わない。
代わりに、静かに構えた。
柚月も刀に手をかける。
おかしいほど、力が入らない。
無理やりに、ぐっと柄を握った。
暗い。
目が慣れているとはいえ、互いに影ほどにしか相手を認識できない。
義孝がすっとすり足で、右に回る。
柚月もそれに合わせて左足を引いた。
視線は義孝を捉えたまま、静かに息を整える。
首筋を、嫌な汗が流れ落ちていく。
刀を握る手が、震えそうだ。
それをこらえるために、ぎゅっと唇を結んだ。
互いに出方を見て、にらみ合う。
膠着を破ったのは義孝の方。
大きく踏み込み、柚月の左肩に向けて右袈裟に切り込んだ。
それを柚月は刀で受けてはじき、逆に切り込んだが、止められた。
かち合った刀が、ギリギリ鳴る。
押し合いながら、互いに顔が見えた。
文字通り、睨み合う。
五分と五分。
いや、本来なら、柚月の方が上だ。
だが、柚月には迷いがある。
それが腕を鈍らせている。
義孝が力で柚月を押しのけて小手をうち、それを柚月がかわして間合いを取った。
また、にらみ合い。
空を覆う闇に、ゆっくりと、薄く、白い光が混ざっていく。
夜明けが近づいている。
静寂の中、二人の呼吸の不協和音が響く。
だが自然と重なりだし、やがて柚月の方だけ、一瞬、止まった。
鋭い突き。
狙ったのは、義孝の左腕。
だが、義孝は読んでいた。
「あっ…」
柚月の口から、思わず声が漏れる。
渾身の一撃ははじかれ、そのはずみで、柚月の手から刀が飛んだ。
義孝が勝利を確信し、振りかぶる。
その一瞬。
柚月が胴を打ち込んだ。
鞘だった。
だが、効いた。
柚月の一撃は、見事に義孝のあばらを捉えていた。
義孝は膝が力を無くし、二、三歩後退ると仰向けに倒れた。
大の字になったまま、動けない。
声さえ出ない。
荒々しい呼吸だけが響いている。
柚月は刀を拾い上げると、義孝にまたがった。
両手で、刀を握る。
いつもとは逆さに、下に向かって突き刺すように。
そして、静かに振りかぶった。
刃が、義孝の心臓を狙っている。
義孝は、その切っ先をじっと見つめた。
――殺られるな…。
でも不思議と、本当はずっと、こうなることを望んでいた気がする。
目を閉じると、その目に、じわりと涙がにじんだ。
柚月の呼吸が聞こえる。
どんどん荒くなっている。
それが、意を決したように、一瞬、止まった。
風を切り、刀が突き刺さる音。
続いて、静寂の中に、再び柚月の呼吸が響き始めた。
それが、聞こえている――。
義孝はぱっと目を開けた。
目の前で、柚月の肩が揺れている。
「え…」
どういうことなのか、何が起こったのか。
柚月は義孝に馬乗りになり、刀にすがるように体を支えている。
その刀は、義孝の顔のすぐ横で、地面に刺さっていた。
柚月は刀から手を放すと、義孝の隣に、ごろんと大の字になって横たわった。
広げた片方の腕が、義孝の胸の上に乗っかっている。
その、重み。
感覚。
義孝の中に、一瞬にして遠い記憶がよみがえった。
懐かしい。
すっかり忘れていた。
子供の頃、よくケンカして、そのたびお互い疲れ果て、こうして並んで大の字になった。
義孝の中で、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
それと同時に、涙が溢れてくる。
止められない。
片手の甲で、それを隠した。
「なんで俺、お前を刺しちゃったんだろうなあ…」
後悔しかなかった。
柚月を、親友を刺した、あの瞬間から。
でも、平気なふりをしてきた。
そうでなければ、生きていけそうもなかった。
楠木は正しいと信じてきた。
だから、柚月を裏切り、殺そうとまでした。
でも、気持ちは揺らいでばかりだった。
本当に正しかったのだろうか。
親友を利用し、その命を奪うことの先に、自分が望んだものがあるのだろうか。
信じて来たものは、正しかったのか。
いやそもそも、自分はいったい、どんな未来を望んでいたのだろう。
義孝は迷い、揺らぎ、光を失った。
暗闇に放り出され、道を見失ってしまった。
あの夜からずっと、その暗闇をさまよってきた気がする。
「…ごめん」
義孝は顔を隠したまま、涙に負けそうになる声を、絞り出した。
その言葉に、これまでのすべてが、暗く重い何もかもがきれいに洗い流され、柚月は思わず笑みが漏れた。
胸の中が、馬鹿馬鹿しいほど、清々しい。
柚月が義孝の胸を拳で小突くと、小突かれたところを抑えながら、義孝も笑った。
長いケンカが、ようやく終わった。
二人並んで、寝転がったまま、空を見上げた。
子供の頃と同じように。
あの頃と変わらず、広く深い空が、どこまでも広がっている。
その色が、夜の漆黒から、淡い紺に変わりつつある。
「お前、随分立派になったよな」
義孝は空を見上げたまま言った。
「え?」
「いい着物着て、陸軍総裁様のご一行に交じってさ」
「見てたのかよ」
柚月は苦笑する。
「俺はいつも、お前がうらやましかったよ。お前は下級だっていうけど、れっきとした武士だしな。俺はどうあがいたって、百姓出だ。それは変えられない」
柚月はちらりと義孝を見た。
義孝は、遠く、空を見上げている。
「武士になりたかった。変えたかったんだ。自分を」
言い訳か、謝罪か。
「知ってる」
柚月は、すべてを受け入れるように応えた。
義孝は、誰よりも武士に憧れていた。
初めて刀を与えられた時の義孝の顔を、あのはじけるような喜ぶ顔を、柚月は今も鮮明に覚えている。
「あの頃は、よかったな」
義孝が懐かしそうに言う。
明倫館で過ごした日々。
川で魚を取ったり、山で虫取りしたり。年長の者にいたずらして、共に叱られることもしばしばだった。
ただ、楽しかった。
あの頃、何も持たない自分たちは、希望だけがあった。
語り合う未来は、いつも明るかった。
その未来を懸命に目指してきた。
…はずだった。
あの頃に帰りたい。
義孝は、どうしようもなくそう思った。
これも、後悔だろうか。
虚しかった。
あの頃思い描いた未来は、どこに行ってしまったのだろう。
どこで、見失ってしまったのだろう。
義孝は、大きなため息をついた。
「でっかいため息だな」
柚月は茶化したが、義孝の気持ちは伝わっている。
「うるせえよ」
義孝に、笑みが漏れた。
空がまたわずかに、だが確かに、明るくなっていく。
「もうすぐ夜明けだ」
柚月がぽつりと漏らす。
「この国も」
そう言うと、ゆっくり体を起こした。
「義孝」
義孝が視線だけ向けると、振り向いた柚月と目が合った。
「一緒に生きよう。新しくなる、この国で」
義孝は目を見開いた。
優しくて、明るくて、それでいて意志の強い目。
今、義孝をまっすぐに見つめているのは、昔からよく知っている柚月のそれだ。
義孝はこみあげてきたものを必死でこらえ、空を見上げた。
「そうだな。お前がそう言うなら、そうしてやってもいいよ」
柚月はぱっと笑った。
笑いながら、また義孝を小突いた。
「やめろ」
じゃれあいながら、義孝は決意した。
もう二度と。
――二度と、こいつを裏切らない。
決して。
「あとでな」
柚月はそう言うと、ゆっくり立ち上がり、義孝を振り返った。
「おう」
義孝は寝転がったまま、遠のいていく柚月の背中を見送った。




