四.靄-もや-
旅館「松屋」。
その二階は、開世隊の隠れ場所であり、集会所でもある。
「もうやるしかない」
「武力行使! それしかあるまい。」
ろうそくに照らされた部屋の中、男たちがいきり立つ。
「一気に城に攻めあがれば、政府軍の腰抜けどもなど、あっという間に逃げ出すわ」
杉の声に、賛同する声が湧いた。
夜な夜な繰り返される集会では、日毎過激派の論調が強くなっている。
その中心にいるのが、この杉だ。
開世隊の幹部の一人であるこの男は、頭は切れるが激情家で熱くなりやすく、喧嘩っ早い。
そういうところに惹かれるのだろう。
隊員には、この男を慕う者が多くいる。
それがこの男を、首領である楠木に次ぐ立場に押し上げた一つの要因と言える。
「な? それしかないんだよ」
義孝は猪口の酒を飲みながら、柚月を肘でつついた。
男たちの議論は白熱していく。
「よ! そうだそうだ」
義孝は、猪口を振り上げ、さらにはやし立てる。
柚月は無言のまま、その場から消えるように廊下に出た。
障子戸を閉じると、男たちの声は幾分小さくなった。
暗い廊下に、窓から月明かりが差し込んでいる。
柚月は、救いを求めるように窓辺に行くと、思わずため息を漏らした。
胸に立ち込める黒い靄が、何か、大事なことを隠してしまっている。
これは迷いか、いや、と、問答が起こり、心が晴れない。
「どうした、柚月」
振り向くと、暗闇の中男が一人、手燭の灯りに照らしだされている。
その顔に、柚月は笑みが漏れた。
「楠木さん」
「議論に混ざらないのか?」
楠木はゆっくりと柚月に歩み寄り、窓からの月光を避けて立ち止まった。
「ああ、いや」
柚月は困ったように、苦笑いで首元を掻く。
楠木はふふっと笑った。
「お前には、ああいう熱いのは合わんか」
「そういうわけでは、ないんですけど…」
柚月の視線は申し訳なさそうに、楠木の胸のあたりを行ったり来たりしている。
「まあ、皆もお前みたいに若いやつの意見も聞きたいだろう。たまには参加してくれ」
楠木は柚月の肩をぽんぽんとたたくと、横を通りぬけた。
集会の部屋へ向かっていく。
その背中を、柚月は呼び止めた。
「楠木さん」
真っ暗な廊下。
窓から差し込んだ月明かりに照らされて、柚月はまっすぐに楠木を見つめている。
「俺ら、どこに向かってるんですかね?」
隠そうとしてはいるが、柚月の目には、不安と懐疑が混ざっている。
楠木は、真直ぐに柚月を見つめ返した。
「いい国を作る。弱い者が、安心して暮らせる国を。それだけだ」
楠木の答えは明瞭だ。
柚月は、何かを確かめるように楠木の顔をじっと見た。
暗闇の中、楠木の真剣な目が手燭に照らされ、まっすぐに柚月を見つめている。
やがて、なにか折り合いでもつけたのか、柚月の顔がゆっくりと笑みに変わった。
「そう、ですよね」
柚月は自分を納得させるようにそう言うと、楠木に一礼して去っていった。
その華奢な背中が、暗い廊下に吸い込まれていく。
楠木は、柚月の姿が闇にのまれ、消えてしまうまで、ずっと見送っていた。
***
外は夜風が気持ちよかった。
満月が近いらしく、提灯が無くても歩けるほどだ。
柚月が楠木と出逢ったのも、こんな夜だった。
『お前、名前は?』
遠い記憶の、楠木の声がよみがえる。
十歳の時だ。
柚月には何もなかった。
帰る家も、家族も、行く当ても。
残ったのは、腰に下げた父の形見の刀、一振りだけ。
とぼとぼと歩いているうちに、いつの間にか山道に入り、そこで、野盗に襲われた。
奴らは刀を狙って追ってきた。
必死で逃げた。
だが、逃げ切れるわけもない。
躓いて転んだところに、野盗の一人が、大きな太刀を振りかぶってきた。
月あかりに、その太刀が一閃、白く、ギラリと光った。
もう、いいか。
そう思った。
その瞬間。
父の顔が浮かんだ。
温かい女の声が聞こえた。
きっと、母の。
「一華」
そう、呼ばれた気がした。
次の瞬間、柚月は刀を抜いていた。
どう振るったか、覚えていない。
ただ、無我夢中だった。
そして気がつけば、目の前には野盗たちの死体が転がっていた。
頭の中は真っ白だった。
だが次第に沸き起こる、どうしようもない罪悪感。
人を、殺してしまった。
その事実に、手が震え、握った刀がカタカタと鳴った。
何も、見えない。
何もかもが、血でぐっしょり汚れている。
そこに通りかかったのが、楠木だ。
空には、丸い月が浮かんでいた。
初めて、人を斬った夜だった。
以来柚月は、楠木に育てられたといっていい。
楠木が開く塾、「明倫館」に入り、そこが学びの場であると同時に、柚月にとっては「家」だった。
柚月にとって、楠木はただの恩人ではない。
その考えに賛同し、師と仰ぎ、父と慕っている。
だから、楠木が開世隊として兵を挙げた時も、迷わずついてきた。
この国をいい国にする。弱い者が、安心して暮らせる国に。
楠木の考えは、あの頃と変わっていない。
そう信じている。
なのに、なぜ――。
心が晴れない。
また、ため息が出そうになって、飲み込んだ。
その時だ。
突然、人の気配を感じ、柚月は反射的に身構えた。
一瞬にして張り詰めた空気。
あたりを探るように、耳を澄ます。
遠くはない。
一人…いや、二人か?
警備隊にしては少ない。
「こんなところにいらっしゃいましたか。雪原様」
微かに声が聞こえた。
男の声。
慌てている様子だ。
「雪原」の名が、引っかかる。
柚月は家の陰に潜みながら、声がした方に近づいて行く。
すぐに少し開けた場所に出た。
大通りから横道に入ってすぐのあたりだ。
男が二人立っている。
身なりからして、上級の武士と、その家臣といったところか。
家臣らしき男は、なにやら困っている様子だ。
「一人で出歩かれては困りますよ。陸軍総裁ともあろうお方が」
――陸軍総裁⁉
柚月の緊張が一気に高まる。
――雪原麟太郎か!
雪原は柚月に対して背を向けて立っていて、顔は見えない。
だが、凛とした立ち姿が、いかにも上級武士らしい。
「籠を呼んでまいりますので」
家臣らしき男はそう言って一礼すると、大通りの方に駆けて行く。
雪原が一人、残された。
こんな好機はあるだろうか。
柚月の緊張が、さらに高まる。
息を殺し、静かに鯉口を切った。
だが、迷った。
雪原麟太郎は、開世隊の強敵になることは間違いない。
だが、斬るよう指示が出ているわけでもない。
独断で動いていいものか。
柚月が葛藤しながらじっと雪原の背中を睨んでいると、ふいに雪原が口を開いた。
「私を斬りに来たのですか?」
穏やかな声だ。
背を向けたままだが、明らかにその言葉は柚月に向けられている。
気づかれたか、と、柚月が刀を抜こうとした瞬間、また雪原が口を開いた。
「私を斬っても、この国は何も変わりませんよ」
何かに射抜かれたような衝撃だった。
柚月はピタリと止まり、刀を握る手に、力が入らない。
大通りの方から、人の気配。
近づいてくる。
柚月は我に返ると、一歩、二歩、後退り、家の陰を伝ってその場を去った。
懸命に走った。
とにかく、距離を取らなくては。
走りながら、柚月は胸の内をかきむしられるようだった。
人を斬っても、この国は変わらない。
何も、変わらない。
どこかで分かっていながら、最も認められないことだ。
だから、自ら胸に靄を張り、隠してきた。
目を背けてきた。
その弱さまで、見事に見抜かれたようだった。