五.真実から事実へ
鏡子が神妙な面持ちで柚月に手紙を渡したのは、二日後の朝だった。
玄関の戸に挟んであったという。
表に柚月の名が書いてあるだけで、送り主の名はない。
内容は短く、都の西にある小さな神社の名が書いてあるだけだった。
不安そうな顔で見つめる鏡子に、柚月はにこりと微笑んだ。
「腹、減りました」
そう言って、ぐしゃっと手紙を懐にしまい込むと朝食の席につき、以後、どちらもその手紙のことは口にしなかった。
夜も深まった頃、柚月は静かに裏木戸から外に出た。
大通りを渡り、西へ。
手紙が今朝届けられたのは、おそらく、雪原がいない隙を狙ってのことだ。
雪原が別宅を出たのは、昨日の夜。
それまで、ずっと邸に滞在していた。
見張られている。
だが、あの字。
柚月には送り主の検討がついている。
都に入ってすぐ、柚月に課せられた仕事は暗殺のほかにもう一つ、都の地理を覚えることだった。
どこでも暗殺をし、かつ、逃げ切るためだ。
まずは地図、それから、実際に歩き回って覚えた。
あの西の小さな神社に付き合ってくれたのは、あの人だった。
柚月が境内に入ると、真っ暗な中、社殿の陰に、傘をかぶった人影がすっと現れた。
柚月が近づこうとすると、奥へと進んでいく。
後を追うと、その人影は三つ角を曲がって、あばら家に入った。
窓から、わずかに灯りが漏れている。
柚月は戸の前まで来ると、止まった。
――本当に、あの人だろうか。そうだとしても…。
胸の内に、複雑な思いがめぐる。
――迷っていても、仕方ない。
柚月はぐっと拳を握りしめると、意を決して、開けた。
予想は、当たった。
殺風景な部屋の中、ろうそくの頼りない灯りに照らされて座っているその人は――。
「佐久間さん」
柚月の口元に、思わず笑みが漏れる。
が、再会を素直に喜べず、複雑な顔になった。
佐久間は明倫館の古株で、武術は得意ではないが、学問に優れた男だ。
年少の者の面倒見もよく、柚月にもいろいろなことを教えてくれた。
その時、あれこれ書き記してくれていたのが、あの手紙の字だった。
戸口の柚月を見つめ、佐久間も微笑んでいる。
「一華、よく、生きていた」
そう漏らすと、深々と床に額をつけた。
「守ってやれず、すまなかった」
「いや、そんな…」
突然の佐久間の行動に、柚月は慌てた。
だが、足は戸口から進まない。
「大丈夫ですよ、俺、運いいから」
そう言って笑ったが、やはり、複雑な顔をしている。
柚月が開世隊に裏切られたあの日、佐久間はあの山小屋にいなかった。
楠木が別の用を頼み、あの小屋に近づけさせなかったのだ。
後から事の次第を聞いた佐久間は、楠木に詰め寄って責めたが、楠木は取り合わなかった。
柚月が暗殺家業をしていたことも、その時知ったという。
「お前に、そんなことまでやらせていたなんて。優しいお前に…」
佐久間の顔が悲痛にゆがむ。
柚月の心を思うと、胸が痛んでならない。
この男は、特に柚月に情をかけていた。
だからこそ、知らされなかったのだろう。
あの日、あの小屋に呼ばれなかったのも、同じ理由だ。
「楠木は、もはや鬼だ。お前ばかりか、杉まで」
佐久間は憎々しげに奥歯をかみしめる。
柚月は佐久間を案じる気持ちが湧き、やっと足をすすめると、佐久間の前に腰をおろした。
「佐久間さん、今、どうしてるんですか」
「…一華」
床から上がってきた佐久間の目が、ギラリと光っている。
「擾瀾隊を知っているか」
柚月は嫌な予感がした。
「…噂程度には」
「俺もそれに参加している」
やはりそうか、と、柚月は途端に気持ちが沈んだ。
「剛夕様と雪原の対談以降、杉は対話での和解を進めようとしていた。杉はもともと、お前を、その…、切り捨てることも、よく思っていなかったらしい」
言葉を選ぶあたりに、佐久間の変わらない優しさがある。
が、ほかに表現のしようがなく使われた「切り捨てる」という言葉は、やはり柚月の胸を抉った。
「だが」
佐久間の語調が強くなる。
「楠木は、そんな杉を。今回のことは、杉の一存だと、密かに国主、松平実盛様に報告したのだ」
即日杉は捕らえられ、十分な詮議もなく、切腹させられたという。
実盛としても、一刻も早く事態を納めたかったのだろう。
それをきっかけに、開世隊は明確に分裂した。
「杉を慕っていた一部の者が楠木を襲い、逆に返り討ちにあった。あいつの腕は確かだ。それを機に、楠木は、杉を支持する者だけでなく、杉に同情する者さえ許さず、そればかりか、隊を抜けようとする者まで斬って捨てた」
便乗した血気盛んな都の郎党も加わり、杉派狩りは、日を増すごとに激しくなっている。
開世隊は、もはや隊とは名ばかり。
荒くれ者の集まりだという。
「先日、俺も市中で囲まれ、これまでかと思ったところ、お前に助けてられたのだ」
佐久間は脇に置いている笠に手を置いた。
その笠。
柚月は、武士同士の喧嘩に割って入ったことを思い出した。
「じゃあ、あの時の、笠の男って」
「俺だ」
佐久間はバツ悪そうににやりと笑った。
「楠木を殺すしかない。でなければ、こっちが殺される。そのために、擾瀾隊を結成したのだ。」
情報を共有し、助け合うために、身を寄せ合っている。
「…萩に、帰った方が」
残してきた家族もいるだろう。
柚月がそう言いかけると、佐久間は首を振った。
「萩はもはや、開世隊の、いや、楠木のものだ」
今となっては、実盛もまた、楠木を恐れている。
かつては、利用し、切り捨てようと考えていたというのに。
「萩に戻れば、即刻、処刑されるだろう」
帰る場所もない。
擾瀾隊とは、そう言う者の集まりだ。
「一華」
佐久間は手をついた。
「擾瀾隊に参加してくれ」
「え?」
驚く柚月に、佐久間はさらに迫る。
「お前の力が必要なのだ」
佐久間は柚月の腕を知っている。
むごい願いだということも分かっている。
だが。
「今の擾瀾隊は脆弱すぎる。そう遠くないうちに、根絶されるだろう」
生き残るには、柚月に頼るしかないのだ。
「頼む! 一華…‼」
目の前で、佐久間が額を床につけ、深々と頭を下げている。
柚月はその姿を、じっと見つめた。
佐久間のこんな姿を、見たことが無い。
できれば、見たくはなかった。
「やっぱり、都を出たほうがいいですよ」
柚月の諭すような穏やかな声に、佐久間はぱっと顔を上げた。
柚月の優しい目が、佐久間を静かに見つめている。
「しかし、萩には」
「萩でなくても、どこか。別の地に一度身を隠したらどうです。楠木さ…。いや、アノ人の一番の目的は、中央政府のはずです。地方まで、追ってはこないですよ」
柚月は、残党を、とは言わなかった。
明倫館の人間を、そう呼びたくない。
「俺たちを見捨てるのか。今の地位が惜しいか! そもそもお前、なんで雪原なんかのところにいる‼」
佐久間は願いがかなわず、苛立ちをあらわにした。
命がかかっている者の、鬼気迫った語調だ。
柚月は傷つき、唇をかみしめた。
「なんでって…」
成り行きだ。
だが、それだけではない。
「佐久間さんは、いったい、何のために戦ってるんですか?」
思わぬ問いに、佐久間は答えがない。「え?」と漏らしたきり、柚月の顔を見た。
柚月は、悲しそうな笑みを浮かべている。
雪原は、護衛といって連れながら、柚月に様々なものを見せた。
海外のこと、その力、上流階級の古びたしきたり、国の現状。
それは総じて、世界は広い、ということ。
それまで、柚月は楠木の背中しか見てこなかった。
その狭い視界を、雪原は大きく広げてくれた。
光を見せてくれた。
反対に、佐久間の話には、未来が見えない。
「ごめん、佐久間さん」
柚月はそう漏らすと、さっと立ち上がり、あばら家を出た。
ポツリ残された佐久間は、柚月の最後の顔が、悲しそうな笑みが、いつまでもまとわりついて離れなかった。




