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弐.女心と男の苦労

「おかえりなさい」


 柚月が(やしき)に着くと、玄関で鏡子が出迎えた。


「ああ、はい」


 柚月はまた、あいまいな返事だ。

 いつものことだが、いつもと様子が違う、ということに、鏡子は気づいている。

 先に帰ってきた椿の様子もおかしかった。


 いつものように、「ただいま帰りました」とは言ったが、顔を伏せ、鏡子の横をすり抜けると、さっさと部屋にこもってしまった。


 多分、泣いていた。


 柚月は、風呂の用意ができている、と言われ、言われるまま風呂に入り、離れに戻って廊下に座ると、ぼんやりと空を見上げた。


 やはり、分からない。

 椿は、何を怒っていたのか。

 しかも。


 ――泣いてた…。


 椿の顔が浮かぶ。

 赤く染まった頬。

 涙がいっぱいにたまった目。

 何かが胸にずしっと重くのしかかり、柚月は胸をさすった。


 涙でいっぱいの目で、睨むように見つめてきた。

 あの時、椿は何を言おうとしていたのだろう。


 分からない。

 でも、あの涙は、自分のせいなのだろういう、ということはなんとなく分かる。

 分かるだけに、罪悪感だけが胸にある。


「うーーん…」


 柚月はうなだれて、ポリポリと頭を掻いた。

 夕飯は鏡子と二人きりだった。

 椿は知らせが来て、雪原の元に行ったという。

 柚月は、どこかほっとした。


 だが、一晩寝ても、答えは出ない。

 忘れられもしない。

 得体のしれない罪悪感が気持ち悪い。


 ――義孝(よしたか)なら…。


 うまく乗り切るんだろうな。

 ふとそう浮かんで、かき消した。


 井戸端では、洗濯をしていた鏡子が井戸から水をくもうと、井戸に落としてある桶、鶴瓶(つるべ)の綱を引いていた。


 滑車がついているとはいえ、水が入った桶を引き上げるのは力がいる。

 ぐっと力をいれると、急に軽くなった。


 驚いて振り向くと、柚月が綱を握り、桶を引き上げるのを助けている。

 そればかりか、桶の水を盥に入れると、今度は「何か手伝いましょうか」と言う。

 鏡子は驚いた。


「何でもしますよ。洗濯でも。掃除でも」


 鏡子はさらに驚いた。

 この国、特に武家社会では、男子は台所に入るな、とさえ言われる。

 家事は女の仕事、というわけだ。


 柚月は男子、しかも武士だ。その立場で、家事を手伝おうかなどという人間は珍しい。

 いや、まずいない。


「そんな。旦那様に叱られます。お気持ちだけ」


 鏡子はやんわり断った。

 だが、柚月は縁側に座り、動かない。

 うつむいたまま、足をプラプラさせている。

 鏡子は洗濯をしながら、やはり何かあったのだな、と思った。


「椿なら、戻っていますよ」


 試しに言ってみると、柚月はビクリと肩を震わせた。


「…はい」


 そう言ったきり、人差し指と親指を擦り合わせ、それをじっと見ている。

 鏡子は横目でその様子をちらりと見たが、洗濯の手は止めない。


「ケンカでもなさったのですか」

「うーん、ケンカというか…うん」


 はっきりしない。


「なんていうか。…なんで、怒ったんですかね?」

「知りませんよ」


 鏡子は思わず、くすりと笑いが混じっててしまった。

 柚月はよほどそのことで頭がいっぱいらしい。

 鏡子に話しかけているようで、ずっと椿のことを考えている様子だ。

 困ったようにポリポリと頭を掻き、どこかしょんぼりしている。


 その姿が、鏡子には微笑ましい。

 だが、これだから男は、とも思う。


「花がいいですよ」

「え?」


 柚月が顔を上げると、鏡子は手を止め、仕方がないなという顔を柚月に向けた。


「花をあげると、女はたいてい喜びます」


 柚月の困り顔が、みるみる晴れていく。

 言葉もなくコクコク頷き、頷きながらもう半分立ち上がっている。


「ありがとうございます!」


 そう言うと、嬉しそうに飛び出していった。

 同じ頃、雪原は自室で書簡に目を通しながら、椿の背中を気にしていた。


 朝、別宅に戻って以来、なんだか椿の様子がおかしい。

 もしかしたら、その前からおかしかったのかもしれない。

 が、気づかなかった。

 最初は気のせいかとも思ったが、やはり、そうではないらしい。


 椿は続きの間で、机に向かっている。

 (ふすま)を開け放しているので、背中が見える。


 いつものことだ。

 だが、その背中が、いつもと違う。

 と、思う。


 怒っているのか? と思うが、椿が怒っている姿などあまり見たことが無い。

 確証が持てない。


 だが、こんな様子の女に声をかけると、ろくなことが無い。

 ということを、雪原は経験から知っている。


 書簡と椿の背中とを交互にちらちら見ていたが、らちが明かない。

 雪原も、鏡子を頼ることにした。


「今日はいい天気ですね、洗濯日和だ」


 言わなくてもいい独り言を言い、さりげなく立ち上がると、井戸端に向かった。

 別に何か悪いことをしたわけでもないのに、自然と忍び足になっている。

 途中、嬉しそうに走ってくる柚月とすれ違った。


「柚月、どうかしたのですか?」


 縁側に来た雪原は、鏡子に聞いた。


「どうしたのでしょうね。」

 鏡子は洗濯する手を止めない。

 が、その顔は笑っている。


 雪原は、縁側に腰を下ろした。

 鏡子は洗濯板で、ごしごし何かをこすっている。

 しばらく座っていたが、鏡子は振り向きもしない。


 なぜ、雪原が来たのか。

 鏡子にはだいたい想像できている。


「椿ですがね」


 やはり、思った通りのことを言い出す。

 鏡子は手を止め、あきれたような顔で振り向いた。


「椿にお聞きになればよろしいでしょう」


 そう言うと、再びごしごし手を動かし始めた。

 これだから男は、と思っている。


 男が頼りなげに女の顔色を気にするのは、たいてい、不用意に女の機嫌を損ねたからだ。

 その原因は、男が女心を分かっていないことにある。

 そして、女の怒りの理由が分からないだけに、どこに埋まっているとも知れない地雷を恐れるように、ひやひやする。


 だが、恐れるばかりで、直接聞きもしない。

 話し合おうともしない。

 お門違いなところで、一人右往左往するばかりだ。


 まあ、聞いたところで、女の方も素直に答えないことが多いのも事実だろう。

 それどころか、さらに怒り出すということも、ままある。

 男の行動も、ある種当然と言えば当然のことだ。


 今回は少し事情が違うが、鏡子は何があったのか知らない。

 どうせ柚月が何かやらかしたのだろう、と思っている。


 だが何にしても、柚月は椿と話し合えばいいし、雪原は椿に聞けばいい。

 鏡子にしてみれば、二人して何をしているのだ、という話なのだ。


「うーん」


 雪原は頼りをなくし、困り顔で頬を掻いた。


 分かり合えないのは、仕方がない。

 男と女は別物なのだから。

 女も男心など分からない。

 だが、分かりあおうとすることは、重要である。


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