七.心星 -ほっきょくせい-
「そうですか」
その夜、椿から報告を受けた雪原はそう言ったきり、窓の外を見た。
見知らぬ旧都の景色に、懐かしい都の風景が重なっていく。
幼い頃、雪原は大人が嫌いだった。
雪原麟太郎。
この雪原家の五男坊に、誰も期待などしていなかった。
存在さえ知らない者も多く、挨拶すると、「ほう、雪原様の」と驚かれたほどだ。
だが、結果は求められる。
学問も、武術も、できて当たり前。
だから、褒められることもない。
そのくせできなければ、「あの雪原なのに」とののしられた。
どこまでも、「雪原」の名がついてくる。
幼い麟太郎は、雪原の名が憎かった。
そんな、肩書ばかりを重んじ中身がない、武士の世を憎んだ。
こんな世など、終わってしまえと呪った。
そうして、すさんだ目で大人たちを、世を見ていた。
そんなある日、父が珍しく、麟太郎を城へ連れて行った。
九つの頃だ。
誰かが宰相に就いたとかの、祝いの席だと言う。
当時、麟太郎の父は参与だった。
また、父に媚びを売る大人達の、好機の目にさらされる。
そう思うと、麟太郎は煩わしかった。
だが、父の命に逆らうわけにもいない。
父の背に隠れるようにしてその場をやり過ごした。
その帰りだ。
城の廊下で、父に声をかけてきた人物がいた。
腰に、古い刀を帯びているのが目についた。
「これはこれは、宰相殿」
「いやいや、止めてください」
父のご機嫌な声に、宰相と呼ばれたその人物は手を振った。
物腰の低い、謙虚な人だった。
「うちの五男でして」
父が後ろに隠れている麟太郎を押し出して紹介すると、驚いたことに、男は麟太郎の前に膝をついてかしこまった。
「五男坊ですか。それは、兄上殿たちとは、また違った苦労がございますな」
そう言って、麟太郎の頭を撫でた。
温かかった。
手が、ではない。
初めて、辛い心根に気づいてもらえた気がした。
その日から、麟太郎は少し変わった。
ただ大人を、世を憎むだけではない。
いつか、見返してやる。
自分を認めさせてやる。
自分自身の力で。
そう心に決めた。
ゆがんだ目標のようにも思う。
だが、その思いが、麟太郎を、雪原を救った。
あの日会った、「宰相殿」と呼ばれた人。
恩人であり、憧れ。
その人は、国を思い、弱い者のための政を行った。
そして、くだらない嫉妬に陥れられ、都を去っていった。
雪原はあの日見たその人の刀を、今もはっきりと覚えている。
ほかの大人たちのように、己を誇示するような、身に合わないどこぞの名刀などではない。
その人らしい、謙虚な、無名の刀。
そしてそれを、最近になって都で見つけた。
「明日、日の出前に出ます」
雪原が窓の外を見たままそう言うと、椿は一礼して下がっていった。
翌朝、日の出までまだ時間がある早朝、ケン爺の家に再び客が訪れた。
気配に気づいたケン爺が縁側の雨戸を開けると、ちょうどその客が庭に入ってくるところだった。
客はケン爺に気づいて、一礼した。
雪原だ。
その後ろに、椿もいる。
ケン爺も一礼し、二人を招き入れた。
「陸軍総裁殿をおもてなしできるようなものは、何もありませんが」
ケン爺は、欠けた湯呑に水を入れて雪原に出した。
「随分、ご立派になられましたね。麟太郎殿」
「覚えていてくださり、光栄です」
雪原はややはにかんだような笑みを見せた。
だがその笑みの下には緊張が張り付いている。
「ただ者ではないとは思っておりましたが、あのお嬢さんは、麟太郎殿の隠密でしたか」
ケン爺がちらりと見ると、部屋の隅で椿が静かに頭を下げた。
「それで。こんなところに、何の御用でしょう」
ケン爺は、静かに雪原に視線を向けた。
まっすぐなその眼差しは、あばら家に住まう老人らしからぬ威厳を秘めている。
雪原は居住まいを正し、手をついた。
「単刀直入に申し上げます。国政に戻っていただきたい。栗原権十郎殿」
そう言って、床に額が付きそうなほど深々と頭を下げた。
椿からの報告を聞き、雪原は確信を得た。
昼間、椿が訪れた老人の家には、刀が一振り立てかけられていたという。
枝垂れ藤の紋があしらわれた刀。
それは、栗原権十郎が宰相に任命された際、時の将軍から授かったもの。
枝垂れ藤は、将軍家の家紋だ。
「これからのこの国には、あなたの力が必要です」
雪原は真直ぐな目でケン爺、いや、栗原権十郎に訴えた。
そこに、いつもの雪原らしい余裕はない。
懸命である。
が、栗原はすっと視線を床に落とした。
「新しい国は、若者の手によって作られるべきです。私のような、老いぼれの出る幕ではない」
「今この国に、新しい国を作れるような者はおりません」
雪原は、栗原の言葉を否定するように言い切った。
「どうか。また国政に。栗原殿」
身を乗り出すように詰め寄るが、栗原は黙っている。
雪原は床を睨み、拳を握りしめた。
「あなたが都を去られてから、国は荒れるばかりです。皆、肩書やうわべだけ。中身がない。彼らの頭には、己の出世と、保身しかありません」
雪原の握りしめた拳に、更に力がこもる。
「そもそも、あなたが都を去る必要などなかった。柴田殿が辻斬りに襲われたと言っていた時刻、あなたは火急の用で城に上がられていた。あなたに柴田殿を襲うことなどできない。その理由もない! 皆知っておりながら、柴田殿の顔色を窺って、申し出なかった。そんな奴らが行う政で、国がよくなるはずがない!」
栗原の口元が、わずかに笑んだ。
「麟太郎殿」
雪原が顔を上げると、栗原は穏やかな笑みを浮かべていた。
優しい。
麟太郎の知る栗原だ。
「私は、時代の波に、飲まれたのですよ」
栗原は、湯呑の水を一口飲んだ。
「時代が、また大きく動き出しましたな」
湯呑の水を、じっと見つめている。
「やはり、私の出番ではありませんよ、麟太郎殿」
「栗原殿!」
食い下がる雪原を、栗原は遮った。
「あなたがおられるではありませんか。周りからも、望まれているのでしょう」
帝への謁見などという大役を任されたのが、何よりの証拠である。
「私は…」
雪原は言葉に詰まり、唇をかみしめた。
「私は…、自信がありません」
じっと床を見つめ、言葉を絞り出す。
「私は、ただただ、世を憎んでいた。私を嘲笑する大人たちを、世の中を、見返すことのみに情熱を注いできた。外務職に志願したのもそうです。政府の要職が約束されている兄たちには、正攻法では叶わない。そう、思っただけです…」
雪原は幼い頃からそう考え、海外に目を付けた。
無理を言って貿易船に乗せてもらい、自ら海外に出向いて外国語を習得したのもそのためだ。
海外の驚異的な技術を知ったのは、偶然にすぎない。
だが、いずれ必要になると確信した。
これこそが、兄たちに対抗しうる力なのだと。
だが、それはすべて――。
「私はただ、自分の存在を認めさせたいだけ。民を慈しむ心などない。私も、…ほかの政府の連中と同じです」
栗原は、湯呑をことりと床に置いた。
「だから、あの青年を傍に置いておられるのではないのですか?」
栗原の目が、真直ぐに雪原を捉えている。
「柚月一華、といいましたかな」
雪原は目を見開き、口が真一文字になった。
図星だ。
「お嬢さんが、会わせてくださったのか?」
椿はかしこまった。
「いえ。あなた様が旧都にいらっしゃることまではつかめましたが、正確な場所までは分かりませんでした。昨日お会いできたのは、偶然です」
「…そうでしたか」
栗原は頷き、懐かしそうな目で、床を見つめた。
「私の妻に子が宿ったおり、ちょうど、出兵の命が下りましてね。生きて帰ってくるかも分からないから、せめて子の名前を決めてから行ってくれというものですから、妻には、男の子なら権時、女の子なら一華とつけるように言ったのですが。私の息子は、男の子に、一華という名を付けたようです」
栗原は、くすりと笑った。
そこ顔は、どこか嬉しそうである。
そして、その笑みがすっと消えると、雪原に向いた。
「アレは、人を斬っておりますな」
この平和な世。ほとんどの武士にとって、刀がただのお飾りになっているこの時代に。
雪原は答えをはばかり、視線を落とした。
「嫌なものでね、同類は分かるものですよ」
栗原は剣の腕一つで出世を重ねた。
それは同時に、多くの人を斬った、ということでもある。
軍人の出世とは、そういうものだ。
「頑固なところは、私によく似ておるようです」
そう言うと、栗原は嬉しそうに微笑んだ。
つられて雪原も、肩から力が抜けた。
「剣の腕もです」
自然と笑みが漏れる。
栗原は頷いた。
「やはり、お連れになるべきは、アレですよ。私ではなくね。アレはきっと、あなたのお役に立ちましょう」
栗原の気持ちは揺るがない。
雪原は、頷かざるを得なかった。
雪原は庭の端まで来ると、振り返り、一礼した。
その後ろで、椿も頭を下げている。
栗原は縁側から応え、二人の姿が見えなくなるまで見送った。
あたりを包む朝靄に、光が混ざり始めている。
大きく深呼吸すると、朝の澄んだ空気が栗原の胸を満たした。
遠い昔、都から逃れ、自分と一緒にいては危険だと、幼い息子と妻を見知らぬ地に置き、別れた。
自分の代わりにと、自身がずっと帯びていた刀を託して。
二度と会えはしないと思っていた。
それがまさか、孫に会える日がこようとは。
栗原は目を閉じ、思った。
権時が子を一華と名付けたのは、気づかせるためだったか。
目の前にいるのが、孫ですよと。
「長く生きてみるものだな」
東の空が、だんだんと白くなっていく。




