壱.栗原権十郎
その夜、柚月は眠れず、離れの廊下に座り、庭の上に広がる空を見上げていた。
月は出ているが雲が多く、雲が月を隠しては暗くなり、雲間から月が覗いては、頼りなげな明かりが夜の闇を微かに照らしている。
ふいに、楠木と杉の姿が浮んだ。
その顔は、互いに信頼しあっている。
柚月は、あの二人には強い絆を感じていた。
それが――。
とても信じられない。
柚月はかき消すように、ガシガシと頭を掻いた。
そこにふと影が現れ、静かに柚月の隣に座った。
雪原だ。
何をしにきたのか、柚月の方をちらりとも見ず、じっと静かに庭の方を見つめている。
「柚月」
切り出した雪原の声は、いつもと変わらず、穏やかなものだ。
だが、重い響きがある。
「あなた本当は、柚月一華ではなく、栗原一華、という名なのではないですか?」
突然の、思いもよらぬところから腹の中の深いところに手を突っ込まれたような衝撃に、柚月はわずかに「え」と漏らして目を見開き、雪原を見た。
雪原の穏やかなまなざしは、まっすぐに柚月を捉え、「そうなのでしょう?」と聞いている。
雪原が密かに抱いていたこの疑念は、横浦の市場で、柚月が「栗原」の名に振り向いた瞬間、確信に変わった。
あれは、あの栗原と呼ばれた男に覚えがあったのではない。
呼ばれ慣れた名に、無意識に反応したのだ。
だが柚月本人は、雪原にその様子を見られていたことに気づいていない。
雪原は本当に何でも分かるんだな、と恐ろしくも感心した。
「もう、捨てた名前です」
そう言ってうつむいた。
口元はわずかに笑んでいるが、目が悲しい。
「捨てる必要はありませんよ。ただ、隠しておいた方が賢明でしょう。柚月と名乗るように言ったのは、楠木だったのではないですか?」
「そう…、ですけど」
雪原は頷いた。
「柚月は、栗原権十郎という人を知っていますか?」
柚月は首を振る。
「あなたからすると、おじいさんくらいの年の方ですよ。二代前の将軍の頃から仕えた方で、元は下級武士だったのですが、剣の腕一つで陸軍総裁に上り、将軍のおぼえめでたく、参与に迎えられ、ついには、宰相にまで上り詰めたお方です」
柚月は驚いた。
下級武士が陸軍総裁にまでになっただけでもとんでもない話なのに、さらに、参与にまで。
参与とは、この国の政を行う国政会議に参加できる役人で、実質この国を動かしている人間だ。
決まった定員はないが、だいたい五~十人程度。
基本的に、代々決まった家の出の者で構成され、この参与を出す家は、中央では「名家」とよばれる特別な家柄。
雪原家もその一つだ。
宰相とはさらにその上。
将軍の補佐役だ。適任者がいなければ、置かれないことさえある。
現に今はいない。
「そんな出世、異例中の異例です。ですが、それに値する人物でした。彼が国政に携わっている間は、本当に良かった。彼は弱い者を助け、国を豊かにしようとしていました」
その頃を思い出しているのか、雪原の顔は明るい。
「ですが、それだけ当然、嫉妬もあります。参与の一人が辻斬りにあうという事件が起きましてね。ケガをしただけで済んだのですが、その人物が、犯人は栗原権十郎だと言い出したのです。誰も彼に味方しなかった。その騒ぎの責めを受けて、彼は失脚し、妻子を連れて都を離れたのです」
そうまで言うと、雪原の顔が苦々しく曇った。
「私は今でも、あれは濡れ衣だと思っています」
雪原の声には、憎しみさえ籠っているように聞こえる。
「都には、特に市民の中には、今でも栗原権十郎を慕う者が多くいます。都で栗原の名は目立つ。そのことを、楠木は知っていたのでしょう。」
そう言うと、雪原は柚月にニコリと微笑みを見せた。
「いい名です。時代が変われば、また名乗ればいい」
「俺、その栗原さんと、なんも関係ないですよ?」
柚月は、苦笑交じりに笑う。
「下級武士っていうところは一緒ですけど、武士っていうのもおこがましいくらいの貧乏な長屋育ちで。親父は近所の子供に読み書き教えてるだけで、刀を抜いているところなんて見たこともなかったし。てか、刀なんてほとんど家に置きっぱなしで。正直、これも、錆びついて抜けないんじゃないかと思ってたくらいです」
そう言って脇に置いていた刀を持ち上げた。
雪原はその刀をじっと見つめ、やはり、と思う。
「確か、御父上の形見でしたね」
「はい」
「御父上以外、親戚もいない」
「はい。母親も俺が小さい頃に死んじゃって、顔も覚えてないくらいで」
「…そうですか」
雪原はもう一度、柚月の刀をちらりと見た。
古い、無名の刀。
だが雪原は、その刀に確かに見覚えがある。
それからまたしばらく、雪原は別邸に来なかった。
時折、母屋の方から鏡子の三味線の音色が聞こえてくる、静かな日が続いた。
柚月は離れの部屋で、ただただ雪原を待った。
にわかに玄関のあたりが騒がしくなったのは、十日ほど経ってからのことだ。
雪原だなと、柚月は察した。
何か新しい情報があるのか。
気が逸ったが、渡り廊下まで来て足が止まった。
母屋から、鏡子の嬉しそうな声が聞こえてくる。
そこに、雪原と椿の楽しそうな声も交じった。
柚月は離れの部屋に戻り、畳の上に大の字になった。
天井が見える。
もう、見知らぬ天井ではない。
いつの間にか、随分馴染んでいる。
だが…。
――…他人の家だな。
柚月は目を閉じた。
そのまま眠ってしまっていたのか、人の足音に飛び起きると、あたりは薄暗くなっていた。
障子戸からひょっこりと顔を出したのは、雪原だ。
「柚月、こちらで一緒に食べませんか」
そう言って、にこりと笑う。
柚月は戸惑ったが、雪原がやや強引に連れ出した。
雪原に連れられて母屋に行くと、部屋にはすでに鏡子と椿が座っていて、四人分の夕食が準備されていた。
鏡子が茶碗に飯をよそい、柚月は不思議な気持ちで受け取った。
皆で食べる食事。
雪原と鏡子が何でもないようなことで笑いあい、それに椿も交じって笑っている。
懐かしい。
柚月はそう感じ、同時に、記憶がありあり蘇った。
あれはまだ、萩にいた頃。
明倫館では、塾生が皆集まって食事した。
それぞれに夢や思想を語り合い、くだらない冗談も言いあった。
男ばかり。
にぎやかで、楽しかった。
なんでもない、日常の景色。
温かい思い出だ。
都に来てからも、食事は開世隊の皆とともにとることが多かった。
だが、孤独だった。
政府の要人の暗殺があるたび、皆喜んでいた。
柚月の手とも知らずに。
仲間にも言えない秘密を抱え、人を斬っているという自責の念ばかりが募っていく。
柚月は、何を口にしても味を感じなくなっていた。
「お口にあいませんか?」
ふいに鏡子に顔を覗き込まれ、柚月は急に現実に引き戻された。
「ああ、いえ…」
慌てた。
慌てるあまり、咄嗟にぱっと顔を逸らし、うつむいてしまった。
このままでは、なんだか失礼だ。
「…うまい…です」
うつむいたまま、ぽそりと絞り出した。
「そう、それは良かった。私、旧都の味付けだから、薄すぎるかなって、気になっていたのですよ」
鏡子が、ほっとしたように笑みを浮かべる。
「鏡子は、旧都の出でしてね」
そう言って、雪原もまた、にこりとした。
柚月は味噌汁を口にした。
温かい味が、口いっぱいに広がる。
「うまいです」
柚月は、噛みしめるようにそう言った。




