参.新たな始まり
「すみませんね。お邪魔してしまって」
雪原はそう言って、ニコニコしながら柚月の隣に腰を下ろした。
「いえ。むしろお邪魔してるのはこっちです。すみません、長居してしまって」
柚月が大まじめに言う。
雪原は思わず笑ってしまった。
そういう意味で言ったのではない。
この青年、青年と言うよりやはり少年のようだ。
「いえいえ。ここは別宅ですから。うちの者しか出入りもしませんし、遠慮する必要はありませんよ」
「別宅?」
「ええ。ちょっと愛人を住まわせていまして」
「へ?」
柚月は真面目な顔が崩れ、思わず変な声が出た。
愛人なんて言葉が出てくるなんて、思ってもみない。
それも、挨拶みたいなノリで。
が、雪原はただニコニコしている。
雪原にとっては、挨拶と変わらないほどのことなのだろう。
――…住む世界が、違う。
柚月はそう思うと同時に、確かに夢うつつ、椿以外にも世話をしてくれる人がいたように思えてきた。
一人は多分医者だ。白い服の男だった。
それともう一人。
椿より年上の、大人の女といった感じの人が――。
じわじわと、その顔が思い出され、そして思った。
雪原は面食いだ。
その女の人は、熱にうなされながらでも分かる、それくらいの美人だった。
「今、面食いだなって思いました?」
「え⁉ いえ」
雪原に顔を覗き込まれ、柚月は肩をビクッと震わせて素っ頓狂な声が出た。
本当にぞっとする。
雪原には、腹の内をすべて読まれるようだ。
「本宅には妻も息子もいるので、ちょっとね」
雪原は少し困ったような笑みを浮かべてはいるが、後ろめたさのようなものもなく、けろりとしている。
「そう…なんですね」
柚月は、中途半端な愛想笑いを浮かべながらうつむいた。
何と応えればいいのか、分からない。
だが雪原の方は、たじたじする柚月を気に留める様子もない。
というよりも、何か別のことを考えているようだ。
笑みを浮かべているが、空を見上げ、顎をさすっている。
その目に、空は映ってはいない。
ふいに、雪原が手を止め、顔からすっと笑みが消えた。
「剛夕様と、対談の場を持つことができましたよ」
柚月がはじかれたように雪原を見ると、雪原もゆるりと柚月の方を向き、真剣な目が合った。
「和解を取り付けるとこができました。とりあえず、総攻撃とやらは、防ぐことができましたよ」
「そう、ですか…」
ほっと安心する柚月に、雪原は険しい顔で続ける。
「これからですよ」
雪原の目に、一段と鋭さが増す。
「対談の場に、開世隊の幹部たちも同席していたのですが、率いてきたのは首領の楠木ではなく、杉でした」
「え?」
「さらに、萩の国主、松平実盛様が、今回の騒動のお詫びに登城されることになりました」
「松平様が?」
柚月は、息をのんだ。
実盛は、開世隊の存在を黙認していた。
首領の楠木は、萩では国の役人ではあるが下級役人だ。
そのため、実盛としては、都合が悪くなれば楠木ごと切り捨てるつもりだったのだろう。
だが、その実盛が詫びに来る。
それは、萩が開世隊を認めたことを意味している。
開世隊は、萩の後ろ盾を得たのだ。
「楠木はどこにもいません。都中を捜させたのですが、見つけることは出来ませんでした。もう、都にはいないのかもしれません」
萩に帰ったということだろうか。
――だとしたらっ…。
柚月は直感した。
楠木は、本格的に戦を仕掛けるつもりだ。
萩に帰ったのだとすると、それは撤退ではない。
国を挙げて戦う為。
その準備の為だ。
柚月は顔をゆがめ、ぎゅっと拳を握りしめた。
雪原の冷静な声が続ける。
「剛夕様は城には戻られましたが、城の中も、二分されたままです。私の邪推ですが、冨康様が先の将軍に毒をもったという話、あれはおそらく事実でしょう」
「えっ」
柚月は驚き、ぱっと雪原の方を見た。
にわかには信じられない。
実の父を手にかけるなど。
雪原は庭の方を見つめたまま、柚月の視線に振り向かない。
「この国では、身分階級関係なく、実ではなく名がものをいいます。持たざる者は、永遠に下層階級のまま。実力があったところで、認められることもない。いや、むしろ、実力がある者ほど、平穏を乱す悪とされ、忌み嫌われる。忌まわしい世ですよ。」
雪原の目は、どこか、遠い何かを見ている。
「その犠牲となった人間の憎しみは、深いですからね。」
つぶやくよう漏らすその声には、重みがあった。
雪原自身、そのことをよく知っているかのように。
「柚月」
雪原が振り向き、柚月と目が合った。
「志はまだありますか?」
雪原の目は、まっすぐに柚月を捉えている。
――志…。
柚月は戸惑った。
そんな立派なもの、自分にあっただろうか。
分からない。
よく分からないまま、ただ、楠木についてきただけな気がする。
「この国をいい国にする。弱い人が、安心して暮らせる国に。あなたはそう言ったそうですね。」
ふいに、柚月の目にじわりと光が戻った。
雪原は確認するように重ねる。
「いい国になったらいい、ではなく。いい国にする、と」
――なったらいい?
柚月の中に、怒りにも似た苛立ちが湧いた。
そんなこと、考えてもみなかった。
いや、諦めている。
いったい誰が変えてくれるのか。
この国を。
この腐った国を。
誰も変えてくれなかったではないか。
だからこの有様なのだ。
柚月は雪原の真剣な目を見つめ返した。
その眼差し。
まっすぐに、強い。
「願っているだけでは、何も変わりません。自分が動かなければ、何も変わらないっ!」
雪原は柚月の瞳の奥をじっと見つめ、うなずいた。
「十日もすれば、動けますね?」
「え? あ、はい」
「お礼をしてもらいたいのですが」
雪原はニヤリとする。
「ああ、そうですよね」
そう言いながら、柚月は「あ」と気が付いた。
金を持っていない。
「あ、お金はいいですよ」
察した雪原が、ひらひらと手を振る。
「体で払ってもらいますから」
そう付け足すと、雪原は穏やかに、だが、意味深な微笑みを残して去っていった。
渡り廊下の先、母屋の廊下に女が一人、雪原を待っている。
雪原が、愛人といっていた女だ。
どうやら、食事の用意ができたらしい。




