壱.此処から
これは、日本という国が無い世界の話。
まして、幕末などではない。
だが、ここにもまた――。
都の夜は静かだ。
日が落ちると、昼間の華やかさが嘘のように静まり返り、町は、どこまでも深く、吸い込まれそうな漆黒の闇に包まれる。
今宵もまた。
空に細く尖った月が浮かぶのみ。
その微かな光では、都に根を張る闇を晴らすことはできない。
人々は息をひそめ、ただ何ごともなく時が過ぎることを願い、朝を待つ。
その願いを打ち砕くように、闇の中を駆け抜ける影がひとつ。
それを、数人の男たちが追う。
入り乱れる足音。
静寂は、破られた。
「マズったな…」
柚月は裏道を駆けながら、ちらりと後ろを気にした。
足音は、じわじわと距離を詰めてきている。
「いたぞ! こっちだ」
「チッ」
男の声に、思わず舌打ちが出る。
二人、いや、三人か。
柚月からも男たちの姿が見えた。
――ほかにもいるな。
足音は、まだある。
柚月は男たちを振り切ろうと一層速度を速めようとした、その瞬間。
陰から何かが!
あっと思ったが、かわせない。
「きゃっ!」
ぶつかった衝撃とともに、微かに声が聞こえた。
――女⁉
少女、とは言わないが、若い娘だ。
柚月は驚くと同時に、跳ね飛ばされて転びそうになっている女を、反射的に抱き留めていた。
「ごめん!」
支えながらゆっくり座らせ、顔を覗き込む。
「大丈夫?」
女は応えようと顔を上げたが、はっと何かに気づき、大きく目を見開いた。
その目には、驚きと恐怖が映っている。
柚月に対して、ではない。
その後ろ。
息を切らせた男が一人、柚月の背中を睨んでいる。
追い付かれた。
柚月も気づいている。
――逃げ切んのは、無理か。
左手で刀を握った。
が、右手は垂らしたまま、柄に掛けない。
鯉口は切れない。
目の前で、女がへたり込み、動けなくなってしまっている。
ここで刀を抜けば、巻き込んでしまう。
一方男の方は、柚月しか目に入っていない。
躊躇いもなく刀を抜いた。
「やっと、捉えたぞ!」
男が振り上げた刃が、わずかな月明かりに一閃、白く光った。
女は咄嗟に身を縮めて声も出ず、帯に差した扇子をぎゅっと握りしめる。
柚月はカッと怒りが湧いた。
だが、頭は冷静だ。
女を背中にかばうように男に向き直ると、鯉口を切った。
「お前が、ひと…!」
振りかぶった男が、何か叫ぼうとする。
それを黙らせるように、柚月は抜刀と同時に男の腕を切り上げた。
うめき声とともに、男の手から刀がはじけ飛ぶ。
刀が宙を舞った時には、切り返した柚月の一刀が、男の胴に入っていた。
さらに続けざま、柚月は崩れる男の肩を踏み台にターンと跳ね上がると、すぐ後ろにいた男を左肩から斜めに切り落とし、もたもた刀を抜こうとしているもう一人の腹を、横一線、右薙ぎに払った。
その姿。
決して短身ではない。
が、夜の闇の中、女と見間違うほどに華奢な体。
それが躍動し、ザンバラ髪のような無造作な短髪が、身のこなしの速さに従って、明王の髪ように逆立ち踊っている。
目にも留まらぬ速さ、とは、こういうことを言うのだろう。
突然の、しかもあっという間の出来事に、女はただただ呆然としている。
切られた男たちは、うめきながらわずかに動いているが、立ち上がりそうにない。
残りは二人。
追い付いて来たのだろう。
息を切らせながら構えてはいるが、腰が引け、じりじりと後ずさりをしている。
柚月は踵を返し、女の元に戻った。
「立てる?」
聞いたが答えは待たない。
女の腕を掴んで引き起こすと、そのまま手を引いて駆け出した。
どこをどう走ったか。
気づけば、武家屋敷に囲まれていた。
ずいぶん北に戻ったらしい。
追ってくる者もいない。
柚月はするりと女の手を放した。
「ケガしてない?」
女はコクコクと頷く。
息が上がって、声が出ないらしい。
「こんな夜更けに、何してんの? 危ないよ?」
――俺が言うのもおかしいけど。
柚月は自身でそう思いながら、女を安心させるように笑顔を見せてやった。
だが、女はまだ息が上がっていて、なかなか声が出せない。
しばらく肩で息をした後、胸に手を当てながら、「ふー」と大きく一息吐いた。
「お使いで外に出たのですが、遅くなってしまって。でもまさか、あんな…」
言いかけて、言葉を詰まらせる。
先ほどの光景がよみがえったのだろう。
それ以上は触れなかった。
「助けていただいて、ありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げると、「では」と、そのままいそいそと去ろうとする。
「あ、送るよ」
柚月は慌てて呼び止めた。
女がきょとんとした顔で振り返り、その瞬間、柚月は無意識に息を飲んでいた。
初めてまともに見た、女の顔。
怒濤過ぎて、今の今まで気が付かなかった。
頼りない月明かりでもわかる。
この女。
――…かわい。
人を切った後だ。
まだわずかに気が立っている。
それでも頭の中で冷静さを保っている部分が、自然とそう思っていた。
だが、ただ可愛いだけではない。
なにか不思議な感じもする。
どこか、浮世離れしているような…。
なぜそう感じるのか、柚月自身分からない。
不思議に思いながら、気づけば女をじっと見つめていた。
女の方も、柚月をじっと見つめている。
何か疑っているのか、確かめるような目だ。
柚月は、はっと我に返り、慌てて両手を振った
「あっ、えっと、変な意味じゃなくて、その…ほらっ、危ないから!」
しどろもどろで、かえって怪しい。
女は黙ったまま、じっと柚月の顔を見つめている。
「いや、ほんとに」
言えば言うほど、怪しい人間のようだ。
だが裏腹に、柚月の声もまなざしも優しく、その態度には誠実さがにじんでいる。
女は、くすりと笑った。
その様子もまた、かわいい。
「ここで大丈夫です。すぐそこですので。ありがとうございます」
そう言って軽く会釈すると、すっと夜の闇に消えていった。
これは、日本という国が無い世界の話。
まして、幕末などではない。
しかしここにもまた、古い価値観を打ち砕き、新しい風を呼び込もうとする者達がいる。
これは、遠い夜明けまでの話。
すべては、ここから始まった。
幕開けの話である。