第6話 『乳幼児による「よい子」・「悪い子」・「普通の子」』
レビテーションの制御が完璧になると、次にはもっと広いところを飛び回りたくなるのが人情というものだ。
『はあぁ、好奇心が体の奥から湧いてくるわ……
精神が乳幼児の肉体に影響を受けているのかしら……』
アナスタシアも窓から見える雲一つない青空へと飛び立ちたい衝動と戦う毎日をここ最近は送っている。
『1歳の乳幼児が空を飛ぶなんて知られたら今世のお父様とお母様はなんて言うかしら』
などと考えるアナスタシアだが、どう予想してもいい結果には結びつきそうもない。
アナスタシアは自分がよい子として振る舞った場合と悪い子として行動した場合を想像してみる。
『もし私が模範的な公爵令嬢としてお父様とお母様を安心させたいなら、やはり空を飛ぶ夢は当分封印しなければならないわね。
長女の私が文字通りヒコウ少女だなんて、公爵家としても外聞が悪すぎるわ』
と考え自分を納得させようと試みるのだが、大空への誘惑は日増しに強くなる。
『ああ、何の制約もなくたとえお父様とお母様に怒られても自由に空を飛べたらどんなにいいかしら。
トンビと競争し、渡り鳥を追い越して雲の彼方へ行ったらどんなかしら』
と、ヒコウの誘惑に苛まれる。
『公爵家の体面を考えるのさえ諦めれば……
いや、やっぱり、今世の両親が他の貴族から私がヒコウ少女だと後ろ指刺されるのはよくない。
なんと言っても、王家に弱みを見せることにつながりかねない』
自分が悪い子になってしまえば、卑劣な王家の陰謀を加速させることにもつながりかねないし、貴族の支持を集めておかないと王家の陰謀と戦えないことを考えると、やはり自分のわがままで公爵家によからぬ噂を立てさせるわけにはいかないとアナスタシアは考える。
『よい子も悪い子もだめとなると、後は普通の子よね……
でも……
そもそも普通の子はレビテーションで空を飛んだりできないわ!』
と考えるアナスタシアだったが、そもそもよい子だろうが悪い子だろうが、この世界の1歳児はレビテーションで空を飛んだりできない。
散々悩んだあげく、アナスタシアは結論に到達した。
『要はバレなきゃいいのよ。
みんなが寝静まった夜中に、一人でこっそり飛び回ることにしましょう。
昼間の景色が堪能できないのは残念だけど、バレるわけにはいかないから仕方ないわね』
大空の誘惑に負けたアナスタシアだが、公爵家の体面を守りつつ自分の欲求を満たす方向で妥協することにしたようだ。
アナスタシアは昼間に魔力の鍛錬を行い、夜の散歩に向けて十分な睡眠をとるべくいつもより早めに魔力をいったん使い切り爆睡する。
計画通り、深夜に目を覚ましたアナスタシアはふわりとベッドから浮かび上がり、窓へと空中を移動する。
閂がかかっているが、なんとかおぼつかない手つきで外すことに成功し、レビテーションで窓に体を押しつけて自分が通れるくらいの隙間を作ることに成功する。
このとき外した閂のつっかえ棒はそのまま窓の下に放置したのだが、これが後でちょっとした騒動の原因となることは、このときのアナスタシアには想像することはできなかった。
あたりは雲一つない満月の冷光に満たされ、昼程ではないが十分に明るい。初夏の心地よい夜風に吹かれながら、アナスタシアは夜空へと飛び立った。
夜のしじまはアナスタシアが考えていたよりずっと静かで、その空気は爽やかと言うよりしっとりとした冷たさをはらんでいる。
姿勢を直立から腹ばいに変えたアナスタシアは、徐々にスピードを上げつつ高みを目指す。
飛んでいる鳥もなく、静寂に支配される空間を、月光に包まれた1歳児が飛ぶ。
「うにゃふはふーーー」
『あははははーーー』と笑おうとしたアナスタシアだったが、まだはっきりとしゃべることができない1歳児の口から漏れた笑い声はなんとも気の抜けたものだった。
それでもアナスタシアのテンションが下がることはない。
高速で飛べばかなり寒いはずなのだが、気分が高揚しているせいか、はたまた体の内外を循環させている魔力のせいか全く気にする様子はない。
公爵家の周りをぐるぐる飛んで屋根より高く上がり、そのまま街の上空へと飛んでいく。
教会の屋根を越え、街の外壁に沿って高速移動する。
「にゃのいーーー」
『楽しいーーー』といおうとしたが、全く意味をなさない音しか出てこないのはお約束だ。
調子に乗って屋根ギリギリの高さを高速で移動したとき、目の前に大きな荷物を背負った男が屋根の上にいることに気がつく。
このまま飛べば間違いなく屋根上の男にぶつかるコースだ。
「むにゅかにゅーーーーー、ひんにゅうあいいーーーーー」
『ぶつかるーーーーー、緊急回避ーーーーー』と叫んだつもりがまたも意味のない音となっただけだったのだが、この声で屋根上の男がアナスタシアに気がついた。
といっても夜の闇に1歳の乳児が飛んでいるなど認識できるはずもない。
アナスタシアの来ているピンクの夜着はふわふわでもこもこしており、屋根上の男には米袋程度の大きさの白っぽい塊が自分に向けて高速でぶつかってこようとしているようにしか感じられなかった。
事態の異様さに我を忘れて立ち尽くす男……
言葉も失っている……
「にょいえーーーーー」
『のいてーーーーー』というアナスタシアの魂の叫びも、屋根上の男には全く理解できない。怪音を発生させながら突撃してくる正体不明の塊という認識だ
現在アナスタシアは、このまま飛ぶと男の左側頭部に激突することは明白だというコースを辿っている。
もし激突すればアナスタシアの未成熟な1歳児の肉体では大けがをしかねない。
まあ、実際にぶつかれば、高速で体外にも魔力循環しているアナスタシアよりも屋根上の男の方が大きなダメージを喰らったであろうが、そんなことはもちろん今のアナスタシアには分からない。
全力でブレーキをかけても絶対に間に合わないと本能的に悟ったアナスタシアは、自分の飛行コースを右へ曲がるように念じて魔力を制御する。
「まにゃえーーーー」
アナスタシアは『曲がれーーーー』と叫んだつもりである。
ギュン
間一髪、アナスタシアは男の鼻先をかすめるコースで激突を回避した。
「にょああーーーー」
『よかったーーーー』安堵の言葉は夜の帳に吸い込まれ、肝を冷やしたアナスタシアは後ろを振り返ることなく公爵家へと帰る方向に進路をとるのだった。
ところで、アナスタシアに激突されそうになった屋根上の男だが、実はアナスタシアの思いもむなしく屋根から転落して大けがを負っていた。
アナスタシアが鼻先を高速移動してバランスを崩したところに、アナスタシアの周りを高速循環していた魔力の流れによって吹き飛ばされ、そのまま転落したのだ。
裏路地に転落して意識を失っていた男は、明け方に巡回してきた警備兵によって保護され、そのまま窃盗の罪で拘束される。実はこの男、ここのところ街を騒がせていた指名手配の泥棒だったのだ。
捕まった男は気がついた後もしばらく、「白い塊がーーー、白い塊が攻めてクルーー」と、訳の分からない錯乱状態だったという。
人知れず----というか本人も認識せず----、お手柄だったアナスタシアであった。
次回更新は日曜日の予定です。
しばらくお待ちください。