第5話 『偶然の産物』
さて、1才になって這い回れる能力を獲得したアナスタシアは、早速行動範囲を増やすべく行動を開始する。
なんとか単独行動をしようとするアナスタシアに立ち塞がったのは、母のラトラシアと乳母兼メイドのミリーナであった。
母とメイドはどちらかがいるときにアナスタシアが床を這い回るのは、温かい目で見守ってくれているのだが、壁につたい立ちしてドアを開け、廊下に出ようとするとすぐに抱き上げられてベッドへ連れ戻される。
寝たふりをして二人がいなくなるのを待ってから行動を開始しようとしたが、残念ながら赤ちゃん用ベッドに取り付けられた転落防止の安全柵に阻まれてしまい、今のアナスタシアの体力でこれを乗り越えることはできなかった
なんとか自由に動きたいアナスタシアだが、母とメイドのガードは堅く、ベッドで寝かせつけられているとき以外は必ずどちらかの視線がある。二人がいないとき寝かされているベッドの転落防止柵は、伝い歩きすらおぼつかない今の体力で安全に乗り越えることはできそうもない。
『やはり、よちよち歩きができるようになるまで、部屋の外への探索は諦めるしかないのか』と思い始めたとき、奇跡は起きた。
いや、正確には起きていたのに気がついたというべきだろう。
そのときアナスタシアは、ベッドに寝かされている状態でいつもの通り魔力循環の練習を行っていた。
『より高密度に……
より高速で……』
心の中で唱えながら体中の血管や神経に魔力を循環させる。
運動神経に沿って頭から背骨を通って手足に……
そして手足から感覚神経に沿って脊髄、間脳、大脳へ……
心臓から大動脈を通って体の隅々へ……
毛細血管から静脈やリンパ管を通って心臓へ……
早く、早く、早く……
太く、太く、太く……
そして、速く、速く、速く……
ふと気がつくと、アナスタシアは乳幼児用ベッドからわずかに浮いていた。
正確に言うと、アナスタシアの体内に収まりきれない程になった魔力が、体内のみの循環にとどまらず、体表面も循環しており、その高密度な魔力がアナスタシアの体をベッドから持ち上げていたのだ。
『えっ!?』
その状況に驚いたアナスタシアが魔力の循環を止めると、2cmほど浮いていたアナスタシアはポフッと柔らかいベッドへ落ちた。
『今、私浮いてた!?
それならもう一度できるかしら』
アナスタシアは先ほどの感覚を忘れないうちにと、再び魔力を循環させる。
体内の魔力循環をどんどん高速高密度にしていき、やがてそれが体外へと循環する領域を広げたとき、再びアナスタシアは1cmほど浮いた。
『これだ!
この感覚だわ』
アナスタシアは空中浮遊、レビテーションを習得した。空中浮遊幼児誕生の瞬間であった。
それからアナスタシアは試行錯誤を繰り返す。
魔力を循環させるとき下から上への循環をより高密度で速くすると体が浮く高さが増していくことに気がつくのに3日かかったが、その制御は日増しに正確になっていく。
縦方向への移動が可能になれば、その応用で横方向への移動も可能となるのにそれほど時間はかからなかった。
1ヶ月もすると、公爵家の皆が寝静まった丑三つ刻に、広い子供部屋を高速で飛び回る乳児の姿があったのだが、その様子を見たものは誰もいなかった。もし見つかっていたらどんな騒ぎになっていたか予想もつかないが、見つからなかったことはアナスタシアにとって本当に運がよかったといえる。