奇跡
「は~、終わった……。堪能した~」
「おまえははしゃぎ過ぎなんだよ」
「軼こそ落ち着きすぎだろ。対象者の入学式だぞ? いつもとは違う様子が見られるんだぞ? それに、あの紺色のブレザーに付けられた白い花……めちゃくちゃかわいいじゃないか」
今日の日程はあらかた終了した。
教室に行った実里たちは、説明を受けたあと入学式をし、その後自己紹介や時間割などを担任となった先生が説明して、また明日、とさよならの挨拶を交わし今に至る。
「じゃあな、晴!」
「おう、またな」
校門を背にもたれ掛かっている少女の隣に、ぽつんと立っていた晴に向かって、軼と俺は笑顔で手を振る。
対象者であろうその少女は、誰かを待っているのか押し黙ったまま、美しい外見に集まる視線をちらりとも見ずただただじっと前を見つめている。
そんな彼女の様子を眺めながら側を通ると、誰に見向きもしていなかった彼女が、なぜか俺に焦点を合わせた。
(……えっ?)
彼女の目に映っていたのは、決して初対面に向ける感情ではなく、悲しみ、憎しみ、妬み、怒りなどといった様々な負の感情が複雑に融合し、『クール』という体裁の中に放り置かれているものだった。
だがそんな表情を見せたのは一瞬だけで、すぐに彼女はそれを引っ込め、視線を逸らす。
「どうした、早く行くぞ?」
それを合図に、いつの間にか止まっていた俺の足も、再び動かした。
(なんだったんだ、一体……)
彼女は何か抱えている。
一瞬に映した本当の彼女は、俺が想像もできないほど、大きな闇を抱えているように感じた。
右手を左腕に、左手を右腕に沿え、肌をさする。
彼女を見て出来た鳥肌は、なかなか手ごわく元に戻らない。
「寒いのか?」
挙句の果てに、軼にまで心配される始末。
「……別に」
まだ立っている鳥肌から手を離し、もう大丈夫な振りをする。
「それより明日の新入生歓迎会、楽しみじゃない?」
「そうかぁ~? あんなの、ただの生きてる奴らの馴れ初めだろ。俺たちは対象者の側を離れられないんだから、全然面白くねえよ」
「でも五十メートル以内だったら、どこにいてもいいんだぜ? 退屈しない奴に出会えるかもしれない」
「……まあ。それもそうだけどよ~」
少し間の置いた沈黙の後、軼は曖昧に頷く。
「そんなこと言って、おまえは実里がいれば他の奴には興味ないくせに」
冷やかすように肘をぶつけてくる軼に、俺は顔をしかめ肯定の言葉を述べる。
「それの何が悪いんだよ」
いつも通り前を歩いている実里。
緊張のほどけた顔は普段より幾分はちゃけており、朝のような不安はなくなって、代わりにあるのは『希望』だった。
「おまえ、もしかして自分で言った言葉忘れてるのか?」
「何が?」
突如として真剣な表情をしだした軼に、俺は半ば驚きながらもその言葉の真意を尋ねる。
「奈津たちの中学卒業の日、一生叶わないのに、気持ちだけはどんどん大きくなるのが辛いからって、捨てられるようにがんばってたじゃないか」
……その一言で、俺は一気に、あの出来事がフラッシュバックした。
あれは、実里の卒業より少し前、冬のこと。
毎日受験勉強に励む実里のそばで、俺も自分の気持ちと戦っていた。
持ってはいけない相手に現れてしまった感情は、最初の頃とは比べようもないくらい大きくなっていき、俺の心を侵食していった。
実里を見ているだけでいい、そう思っていたのに、見ていたら辛くなって、守護霊としての役目をきちんと果たせていない日々が、しばらく続いた。
だから、俺は決意したのだ。
本来の目的を見失いそうだったから、いっそのことこの感情を捨ててしまえばいいんだ、って。
けれど、春休み。
実里の合格が決まり、歓喜に包まれていた俺の心は、少し油断をしてしまった。
ちょっとだけ、ちょっとだけ。辛くても、実里をあの感情を通して見たい。
今日まで。それでもうやめるから、せめて今、この瞬間だけは……。
自分の中で、何度この言葉を吐いただろう。
そしてその言葉を繰り返すうちに、言葉自体を忘れ、誓った思いすら、俺は忘れてしまっていたのだ。
「思い出したか?」
軼が顔を覗き込む。
「ああ」
浮き立っていた心がしぼみ、後悔が足を鈍らせる。
(あんなに悩んで、決めたことだったのに……)
実里を見ているのも辛かったけど、それ以上に、忘れることのほうが苦しかった。
だから俺は、より楽な方を――無意識のうちに、選んでしまったのかも……しれない。
「どうしても耐えられないんなら、やめてしまえばいい。それは個人の自由だ。でも、お前の場合は……叶うことは、絶対に無いんだ。だから、捨てるのを諦めるよりは、辛くても、苦しくても、今のうちにその煩わしい感情を、捨ててしまったほうがいい」
「……うん、わかってる」
道の端の小さな花が目に入る。
そのか弱い体を冷たい冷気に晒しながらも、必死に前を向き、堂々とそこにいる力強い姿。
その花に、実里を重ねる。
「今度は生きてるやつじゃなくて、守護霊とか、死んだやつを好きになろうぜ。そのほうが、絶対楽だからよ」
自然と、涙が頬をつたる。
(――今度こそは)
覚悟が胸を満たす。
今度こそは、逃げたりしない。今度こそは、完全に捨ててみせる。今度こそは、絶対に――。
「じゃあな、理玖」
いつの間にか、実里と奈津の方向が別になる分かれ道にたどり着いていたらしい。
普段通り笑顔な二人はそのまま笑顔で別れを告げ、それぞれの道を歩んでいく。
「ああ、また明日」
服の袖で涙をぬぐい、苦笑気味の顔を軼に向ける。
そしてすぐさま実里を追いかけ、すぐ後ろをいつも通り歩いた。
人通りのない閑散とした道は俺の中にある寂しさを一層募らせ、気分を下降させる。
明るいことを考えようとあれこれ思い浮かべてみるけれど、全く効果がないので、目まぐるしく変わる思考はそのままにただただ足を動かし続ける。
「スー、ハー。スー、ハー」
だが、いつまでもこのままというわけにもいかない。
なので今度は何も考えないようにし、ひたすら気持ちを落ち着かせることに集中する。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
その行為を繰り返す。
「よしッ」
最後にガッツポーズをし、固めた決意を胸に燃やした。
そして一歩を、力強く踏み出す――!
「……え?」
そう、思った瞬間だった。
突如現れた『何か』が俺の視界を暗くさせ、逆に真っ白になる頭は、自分が何を考えているのか、また見ているのかわからなくさせていく。
「……実里!」
やっと動き始めた頭を動かし、地面に耳を付ける実里の元へと駆け寄る。
どこからか飛んできた黒い『何か』によって倒れた実里に、俺は聞こえるわけもないのに、何度も何度も、実里の名を呼ぶ。
「みのり、みのり……!」
倒れている実里はピクリとも動かず、それはまるで死んでいると言われてもおかしくなかった。
だが俺は、そんな実里の様子を見ても、何もしてやれない。
救急車を呼んでもやれない、人を呼ぶこともできない、何が起こったのかもわからない。
ただ呼び続けるだけしかできない自分が、歯がゆく感じる。
「みのり……!!」
引っ込み始めていた涙が溢れ出す。
祈るのは、人が通りますようにとただ一つ。
胸の前に持ってきた両手をギュッと握り、瞼を固く閉じ体を強ばらせ、誰かの声が聞こえる〝その時〟を待ち続ける。
――そして。
「……だ、だれ?」
やっと聞こえた声に希望を感じ、輝かせた顔を声の聞こえた先へと向ける。
「……へ?」
それは、すぐ近くから聞こえた。――俺の、目の前から。
「み、みのり?」
素っ頓狂な声が口から漏れる。
周りを見渡してみてもさっきと同様人は一人として居らず、実里の視線はしっかりと俺を捉えていた。
「お、俺が、見える……のか?」
そんなはずはないと思いながらも、半信半疑に問いかける。
「う、うん」
しかし、実里の口から出たのは肯定の言葉。
さっき倒れていたのが嘘のようにペタンとあどけなく足を曲げている実里は、もう大丈夫そうだ。
こちらを見開いた目で見ている姿は、とても可愛らしく、あどけない……って、そうじゃなくて!
なぜ、実里に俺の姿が見えているのだろうか。
ついさっきまでは見えていなかった、それは保証できる。だが、今は見えている。
まさかとは思うが、さっきの……さっきの、黒い何かが原因だろうか。
丸くてふわふわしていて、闇、みたいな。
「あ、あの?」
黙っている俺を不信がり、実里が俺の前で手をかざす。
「あ、はい!」
親指を顎に持っていき本格的に思考モードに入ろうとしていた俺は、我に返り再度実里を見据える。
先ほど鍵をかけたはずの気持ちが、解放されたいと訴える。
実里を見れば、疑問に思っていたことも、何もかもが吹っ飛んでしまう。
「……っえ?」
意識せず、俺は手を伸ばしていた。
実里の肩に、顔を埋める。
背中から感じる熱は人間らしく、とても優しい。
溢れそうになる感情はもう抑える術もなく、胸いっぱいに満ち足りる。
(……あったかい)
叶うはずもないと思っていたことが叶い、熱を持てないはずないのに、俺の体も熱を有しているような気になってくる。
「……実里」
おまえがただただ……好きだ――。