守護霊としての生活
「いい……か?」
鳥のせせらぐ歌声が、開け放たれた窓から微かに響く。朝を知らせようとしているのか、その甲高く綺麗な鳴き声を轟かせるいつもの風景に、俺はいつものごとく外を伺い、微笑んだ。
カーテンを揺らしながら同時に入ってきた風が温もりごと俺の体をすり抜け、目の前の鏡にぶつかる。
オレンジ色に縁どられた可愛い鏡の中には、スーツ姿の自分が映っていた。
安いやつだが目立たないうまい場所に毛玉は出来、ネクタイもちゃんときつすぎずゆるすぎずの堺になるようにした。黒地に目立つ汚れ等も見受けられないし、髪もちゃんと整えた。
なので俺的にはこれで決まっていると思うのだが……如何せん他に見てくれる人もいないので、本当に大丈夫かどうかはわからない。
こういう時、近くにあまり話せる人がいないのは不便だなと思いながら、俺は鏡越しにこの部屋の主を見つめた。
「ハンカチ、入れた、学生証、入れた、筆箱、入れた。あとは……」
スクールバックを前にして一つ一つのものを指でさして確かめている女の子。
大切な大切な女の子、川瀬実里。
あたふたと慌てている様子の彼女は、俺の前まで来てそのまま俺をすり抜け、鏡の台に置かれていた鍵を手に取った。
一瞬吐息がかかりそうな程近くまで来る姿にドキッとした後、実里の腕が自分の体に刺さった時に感じる、虚無感。
まさしくアメとムチな仕打ちに俺は一息つき、時計を確認しながら出て行く実里の後を追う。
「いってきます!」
二階にある実里の部屋から階段を下り、すぐにある玄関へ。そのまま靴を履き鞄を持ち直し、勢いよく実里は取っ手を引いた。
ドアの隙間から徐々に広がっていく青と白のコントラスト、今日この日を祝ってくれているかのように、綺麗な空。
背反し合っているそれらを優しく太陽が包み込み、道行く家々、電柱、コンクリート、端にある草や猫にまで、満遍なく注がれる。
もちろん前を歩いている実里にもその光は届き、ショートカットのサラサラの髪がほのかに漂う風に晒され、柔らかな雰囲気が辺りに漂う。
それは今日この日、入学式という輝かしい一日にピッタリな光景として、俺の目に飛び込んできた。
「新しい友達、できるかな」
真っ直ぐ前を向き、ずっと押し黙っていた実里が、か細い声でつぶやいた。
その声は雑踏の中ならかき消されているだろう程に小さく、言ったすぐあとに上を見上げていることから、答えを求めていない一人言であることが見て取れる。
「きっと、できるよ」
だが、俺は返事を返す。
聞こえていないとわかっていながらも、いつもそうせざるにはおえないのだ。
実里の不安、緊張、ネガティブな考えを、俺の言葉で解消してあげられたらと考えるのも、一度や二度ではない。
(せめて、想いだけでも届いたらな)
そんな無駄なことを考えながら、俺は実里の後ろから隣へと場所を移動し、じっと横顔を見つめた。
人通りの少ない道には、誰の視線も気にせずに色々と吐き出すことができる。
恥ずかしがり屋の実里は学校に着くまでの間、そんな新たな生活への始まりを、不安を、喜びを、空に漏らしていく。
その度に俺は「大丈夫」や「おまえは肝心な所で運がいいからな」などという励ましの言葉を述べながら、学校への歩を進めていった。
俺には、ある使命がある。
それは一人の人間からいついかなる時も離れてはいけない、その人間を生涯守り通さなければならない、というものだ。
生まれた時からそばにいて、死ぬ時までずっと一緒にいる存在。
片時もそばを離れないので、その子の事なら何でも知っている、ある意味ストーカーの上位に位置しているもの、それが俺というものだ。
世間一般的にいえば、それは守護霊と呼ばれている。
俺は実里が嬉しい時も、苦しい時も、辛い時も、機嫌の良い時も、彼女の表情豊かな顔を楽しみながら、一緒にいた。
だが当然、相手から視認されることなどあるはずもない。
空疎な生活。一人きりの時間の多さ。
守護霊には、それらが強いられる。
しかし、その状況を救ったのもまた実里であった。
実里は大人しめで、波乱万丈の人生があるというわけでもないが、じっと見ていると色んな些細なことに表情を動かす姿が伺える。
飽きることのないそれが、俺にとってどれほどの救いとなってくれたか。
実里には一生知る由もないことだが、俺はそのことに感謝し、この身を捧げて、最後まで見守り続けると決めたのだ。
守護霊としてではなく、自分の意思で。
どんな危険にも実里を合わせてやるものかと、意気込むのだ。
「おまえ、キモい」
そんな覚悟をせっかく改めていたところに、嫌味たっぷりに声をかけてきたのは、同じ守護霊である軼。
今風のカッコ良さげな茶髪を武道場の窓から流れる風に揺らされ、寒いだの邪魔だのと嘆いている。
「なんだよ、ただ見てただけじゃねえか」
そうだ、俺はいつものように実里を見ていただけだ。知らない人に囲まれ、あたふたとしている実里を、拳を握り締め冷や汗を垂らしながら、見守っていただけなのだ。
「いやいや、にやけてるのをただとは言わねえだろ。完全に変質者の目だったぞ、このストーカー野郎」
「…………」
「イッテ、何すんだよ」
「悪い悪い、そこになんか変なものがあったものでな」
「おいおい、変なものってまさか、俺の足とかいうんじゃないだろうな」
「まさかまさか、こんなに黒い足がこの世に存在するはずがないじゃねえか」
「世間ではそれを『黒い足』じゃなくて、『靴下』って言ったと思うんだけどな」
容赦なく避難の言葉を浴びせる軼に、俺はとりあえず膝蹴りを見舞うことにした。
痛がる軼をほくそ笑み、実里の隣にいる少女に目を向ける。
軼は知ってのとおり、守護霊だ。つまり対象者が近くにいる。
その対象者というのが実里の幼い頃からの友達、奈津になる。
実里と奈津は仲がよく、いつも一緒にいた。必然的に俺たちも一緒にいることが多かったため、俺はこいつの扱いには慣れてしまった。
面白いことが大好きな軼は、テンションの落差が激しく、中間というのが存在しない。
今は入学式であまり知り合いが居らず、することが何もない。
まあ、守護霊というのは基本的にすることがないのだが、それでもおもしろいことを探してくるのが軼の特技だ。
だが、今はそれすらもないのだろう。
軼のテンションは非常に低く、言葉は容赦のない毒舌混じりとなっている。
こういう時は面倒なので、あまり会話せずに放っておくほうがいいのだ。
「ていうか、お前の格好変じゃね?」
実里たちから窓の外へと視線を移動したところでかけられた声に、どんな言葉も無視しようと思っていたのに、俺は思わず軼の方を見て大きく目を見開いた。
「ん? なんだ、なんでそんな不思議な人を見る目で俺を見るんだ?」
耳に付いたピアスを丹念に手直しし始めた軼を一度見て、それから自分の格好を見る。
ワイシャツの上から黒いジャケットとズボンを履き、ボーダーの入った赤いネクタイをビシッと決め、ちゃんと髪の毛もセットした、スーツ姿の自分。
おかしいところなど、何一つとして、ない。
――バシッ。
そこで、なぜか頭に感じる衝撃。さっきの仕返しかと疑問に思いながら、俺は抑えた頭を隣に向ける。
「『よし、大丈夫』みたいな顔してんじゃねえよ。キモいんだよおまえ」
「……そんなに罵倒すること無いだろ」
「変なおまえが悪い」
やはり、さっきの仕返しのようだ。
俺の言葉を真似ながらしたり顔で耳に手を当てる軼を、完全に無視しようと俺は心に決める。
だが、その前になぜ自分の格好が変なのかだけは知りたい。
「よし」
やっとピアスが決まったらしい軼を俺は見上げ、問いかける。
「で、なんで変なんだよ?」
「何が?」
冗談をかます軼に拳を振り上げ、ヘラヘラ顔の顔に一発入れてやろうかと考えるが、寸前で止め話の続きを促す。
「じゃあ聞くが、スーツってのは普通どんなやつが着る?」
やっと話しだし室内を見回す軼の目を追いなから、俺は考える。