雨とバス停と黒縞瑪瑙
黒縞瑪瑙。鎮静作用、睡眠障害の改善。
今回は風吹先生のバックグラウンドが少しわかります。ある意味、今作と次回考えてる作品の伏線。
その日は、雨が降っていた。
こう雨が降っていると、目の前にある乗合バスの停留所に人が降りてくることも少ない。下校の女学生が立ち寄る事も稀だった。
もう店を閉めて仕舞おうかとも思ったが、雨の日は何となく奈落も憂鬱で、店仕舞いをすることすら億劫で、なんとなくただぼんやりと店のカウンターから窓の外の雨を眺めていた。
夏の終わりの雨は、降る毎に寒さを増して、そして合間に秋の色合いを見せながらも、徐々に冬へと向かっていく。そして、雪の結晶が空から落ち始める頃は、それはそれで奈落の好きな季節ではあるのだが…この、夏とも言えない秋とも言えない中途半端な季節は、あまり奈落は好きではなかった。
やはり、店仕舞いしてしまおうか…そう思い始めた頃、入口の引き戸の曇り硝子に人影が写っている事に気が付いた。客だろうか、そう思って様子を伺っていると、入ってきたのは普段とはまるで違う様子の風吹だった。この雨の中を傘もささずに来たのだろうか、頭から服までずぶ濡れの状態だった。
「風吹…?」
声をかけてみたが、返事が無い。直感で、患者が死んだのだと思った。白衣の中のシャツに付けているのがいつものループタイではなく黒いネクタイだったし、それも普段ならだらしなく緩めているのに今の風吹はきちんと締めていた。何より、その纏う雰囲気の重さがある時は大体そうだった。
「…また一人、看取ってきたのか」
奈落がそう声をかけると、風吹は突然がしがしと片手で自分の頭を掻き毟り、手に当たったモノクルを掴んで衝動的に投げ捨てた。
「…おい!」
慌てて奈落は風吹に駆け寄った。なおも頭を掻き毟る風吹の腕をつかむと、風吹の沈んだ瞳と目が合った。それよりも、髪を掻き毟ったせいで普段は顕わにしていない彼女の額が出ていることに奈落は気付いた。そこには、酷く皮膚が引き攣れた火傷の痕が広がっていた。
「…!?…お前、それは…?」
「…なんだよ、旦那は見るの初めてか。なんだっていいだろ、人間生きてりゃ色々あるんだよ」
およそ風吹らしくない、酷くやさぐれた言葉をぶっきらぼうに投げられて、奈落は唖然とした。今日の風吹はまた一段と酷かった。風吹はそんな奈落の手を振り払うと、掻き毟ってぼさぼさになった前髪を戻して火傷の痕を隠した。
「随分前の…それこそ、餓鬼だった頃のだよ。殆ど覚えちゃいない」
そう言って、風吹は自分が投げ捨てたモノクルを拾ってまたかけた。多少、モノクルのフレームが歪んだようで、うまくつけられなくなっていたようだった。
奈落は無言で袂から手拭いを出すと、風吹のほうに差し出した。風吹はそれをばつが悪そうに受け取ると、濡れた全身をその手拭いで拭き始めた。
さて、どうしたものか。こうなった時の風吹は非常に扱いにくい…のだが、ある意味ではそういうところは、奈落と似ている部分でもあった。とりあえず風吹が寝椅子に座ったのを確認すると、奈落は何か気持ちの落ち着くような茶でも淹れてやるか、と薬棚に目を向けた。
考えあぐねて選んだのは、黒縞瑪瑙と新茶にした。
今は新茶が出回り始め、馥郁とした芳醇な香りのする茶が飲める季節だ。抹茶も好きだという風吹なら、嫌がりはするまい。
風吹の前にそれを出してやると、風吹はそれを覗き込んで呟いた。
「黒縞瑪瑙…オニキス」
「ほう、よく知っているな」
奈落の言葉に、風吹は白衣の中からシャツの袖を見せた。そこには、黒縞瑪瑙のカフリンクスが留められていた。
「昔、男から貰ったんだよ。多分作ったのは君のじいさんだけど。だから、これだけはわかる」
「…」
途端に固まってしまった奈落を見て、風吹は怪訝そうな顔をした。どうも奈落はこの手の話題に弱いし、そもそも風吹にそういった相手がいたことが意外で堪らない、といった表情だった。
「…なんだよその反応は、失礼だなぁ。僕にだってそういう相手が居たんだよ」
居た、ということは、今は関係は終わっているのだろうか。そういえば、風吹からそういった話をきちんと聞いたことがない。聞く必要がないと思っていたし、風吹が自ら進んで言うこともなかったのでそういった事とは無縁なのかと思い込んでいた。
思えば奈落は異性どころか同性からもそういったものを貰った試しがない…贈った事はあっても。もしかしたら風吹はそういった事に関して、もしかしたら奈落よりも進んでいる可能性がある。突然奈落は、風吹に対して妙な…色気、のようなものを薄っすら感じた。
「まぁ、どうでもいいよその話は…これ、どんな効能があるの?」
「あ、あぁ…まぁ、有り体に言えば鎮静作用がある。随分気が荒ぶっていたようだったからな。他にも安眠作用などがあるが、鉱石茶なのでそこまで強く効くことはない。気休め程度だ」
「ふぅん」
「あとは…まぁ、これは迷信だが。魔除けの石と言われているよ」
自分で聞いておきながら効能にはぱっとしない反応をしたくせに、魔除けという単語を聞いた途端に風吹は茶を飲む手を止めた。
「ありもしない魔物を怖がっている時は、自分の軸が揺れている時だという。その石は持つ者の軸を安定させて、自己実現のために地に足をつけた行動をとらせるとか、忍耐力を身につけさせるとか…まぁ、魔を避けるというよりは、魔を恐れる自分を奮い立たせるという意味が強いんだろうな。それをお前に贈った奴は、随分お前のことを理解していると見える」
「…へぇ。そうだったのか」
そう呟いて、風吹は自分のカフリンクスを眺めた。素朴な黒くて丸い石がついているだけのそれは、祖父の作と言われると納得できるぐらいすっきりとしていてセンスのあるものだった。
「…いや、何のことはないんだ。身内が一人亡くなったんだよ…ついさっきね」
まったく「何のことは」無くはないことをぼそりと呟いて、風吹は言葉を続けた。
「シゲさん…。父の…父と言っても義理なんだけど…その父の母親…つまり、僕のお祖母さんに当たる人が亡くなったんだ。父は独身だったから、その人が僕の母親代わりでね…父が気紛れで拾ってきたような義理の孫の僕に、良くしてくれた人だったんだ」
今日は随分と、今まで聞かなかったような風吹の話を聞く日だ。しかし、そういう事情ならやむを得まい。とりあえず奈落は、聞き役に徹する事に決めた。
「その人がさ…もう、僕頼み込んだんだよ。頼むから僕んとこに掛るの辞めてくれって。僕は死神って言われてる医者だよ?もうどうしようもなくなって、どこの医者も手に負えなくなった患者がくるとこだ。僕がやってる診療なんて碌なもんじゃない。僕が出来ることなんか、全身が痛い痛いと言って苦しむ患者にモルヒネ打つぐらいなんだよ。そんな碌でもない医者んとこに最初っから掛かってさぁ…どうせ老い先短いんだから、お前の学になるように自分の体で勉強なさい、死んだら腑分けでもなんでもしていいから、とか言うんだよ…。ばっかじゃないの、そんなことできるかよ…」
そこまで言うと、風吹は奈落が渡した手拭いで顔を覆って俯き、肩を震わせた。
あまりの風吹の痛々しさに、優しい言葉をなにか見繕っていた奈落だったが、事情を聴いて気が変わった。奈落は呼吸を整えて息を吸い込むと、思い切り腹に力を込めた。
「馬鹿者!!」
あまりの大きな声に、風吹は一瞬ビクッと体を震わせて奈落のほうを見上げた。涙に濡れた目は、何が起こったのかわからず戸惑っているようだった。
「なら、お前のいるべき場所はここではない!疾く診療所に戻り、腑分けを始めるのがお前の責務ではないのか!涼しくなってきたといってもまだ9月だ、遺体の腐敗は早いぞ。祖母の厚意を無駄にするな!!」
そう一気に捲し立てると、奈落は一度、大きく肩で息をした。自分からこんなに大きな声が出るとは思わなかった。
ぽかんとする風吹と、しばらく見つめあったまま沈黙が続いた。
沈黙を破ったのは、風吹の大きな溜息だった。
「旦那、声でかいよ…耳がキーンってする…」
「失敬な。お前が生温い事を言っているから気合を入れてやったのだ」
そういうと、ようやく風吹はいつもの表情を取り戻して、自嘲気味に笑いながら歪んだモノクルを外した。
「生温い、かぁ…旦那はきっついこと言うなぁ…」
「何を言っている。私ほど優しい人間はいないと自負しているが?」
大真面目にそう言う奈落を呆れたように眺めて、それでも風吹は多少、思い当たる節はあるように呟いた。
「…まぁ、そうかもね。大概、旦那も甘いよね」
「どういう意味だ」
「べっつにー」
そういうと、風吹は黒縞瑪瑙の入った緑茶を飲み干して、茶托に戻した。
「どれ、怒られたから帰ろっかな」
「風吹」
帰り支度を始めた風吹に、しかし奈落は声をかけた。その声は先ほどのような覇気を込めたものではなく、諭すように優しい口調に戻っていた。
「この店の外に、乗合バスの停留所があるだろう」
「…なんだよ藪から棒に…あるね」
「アレができて、私はえらく交通の便が良くなった。駅までアレ一本で着くようになったからな。非常に便利だ」
「?…まぁ、そうだね」
「だが、技術はこれからもっと進歩していくんだろうな。きっと未来には、もっと早い乗り物が出来て、その頃にはあんなバス停なんて、何のために存在していたものなのかわからなくなる日が来るのかもしれない」
「…何が言いたいの?」
「…私は、そんな遠い未来まで生きることは出来ないだろうさ。それこそ、お前が言うように人間だからな、色々あるだろう。だが、確実にお前よりは長生きする…してやるよ。どんなにお前が死神と言われようと」
奈落の言葉に、風吹は一瞬顔を歪ませて、そのまま天井を仰いだ。
「旦那はさぁ…そういうところが、甘いよね」
奈落は無言で風吹に近付いて、しっかりと風吹を抱きしめた。もともと風吹との身長差はそんなにあるわけではないが、少し高めの下駄のおかげで風吹の顔は大体奈落の肩あたりにきていた。風吹は恐る恐る奈落の背に手を回して、しばらく奈落の胸で肩を震わせていた。
「…旦那さ、晒で抑えてるけど実はおっぱい大きいだろ」
「軽口が叩けるようになったならもう大丈夫だな」
「あっごめん。もうちょっとこのままで」
そうは言ったが、風吹は手を前に回して奈落の胸をまさぐり始めた。奈落はとっさに風吹を引きはがして押しのけた。
「もう帰れ!」
「ははは、そうするよー」
そう言って手をひらひらと振った風吹に、奈落はなおも声を掛けた。
「お前、父親はご存命なのか?」
「うん…なんで?」
「ああ…いや。大事にするといい。立派なお祖母様に育てられた方だ、悪い人物ではなかろうと思ってな」
そう言うと、風吹は普段よりも良い笑顔を見せた。それはいつものへらへらした笑い方ではなく、本当に心からの笑顔で、奈落は一瞬どきりとした程だった。
「ああ…父もシゲさんも、自慢の身内だよ。…有難う」
そう言って帰ろうとする風吹に、奈落は顎で玄関先の傘を差した。風吹はにやりと笑ってその傘を手に取り、引き戸を開けて雨の中に消えていった。
「やれやれ…いつも騒がしい奴だな」
まあ、そうでなければ風吹では無いと独りごちて、奈落は笑って溜息をついた。
後で祖父の恭助を捕まえて、常盤家を聞き出そうと奈落は思った。付き合いのある人間の身内だ、香典ぐらいは出さねばなるまい。
外はまだ雨が降り続いていたが、不思議と先程の陰鬱な気分は無くなっていた。
終




