瑠璃青の竜胆【後編】
瑠璃青の竜胆の続きです。
ちょっと利一の過去が「人間失格」じみてますね。
個人的には、傷を抱えてそれを乗り越えて来た人って、凄く魅力的な方が多いと思います。
利一の体付きが男性らしくなってくると、それまで散々利一を弄んできた女たちの目付きが変わってきたのを感じた。
徐々に混じり始めた利一への媚び。「嫉ましい女の子ども」から「宝生家の跡継ぎ」へと扱いが変わった。そして、利一はどうやら自分が、見目が悪い方ではないらしい事に気付いた。女たちに気に入られるようにつとめて振る舞うと、彼女たちから嫌な事を強要される事は減ってきたし、彼女たちを意のままに操る事さえできるようになってきた。
ちゃんちゃらおかしかった。女という生き物は、こんなに愚かなのかと笑った。こんな愚かな生き物に、自分は支配されて生きてきたのか。
始めは、ちょっとした復讐のつもりだった。
これまで自分にされていた事を、少しずつ女たちにもし返してやろう、そう思った。自分が受けた屈辱を、そのまま返してやろうと。
ところが、女たちは屈辱を受けるどころか、悦んでそれを受け入れた。
意味がわからなかった。憤りさえ感じた。利一は恍惚として踏みにじられる女たちに絶望した。自分が受けた屈辱はなんだったのか。この愚かな生き物を悦ばせるためだったのか。なら、何をしても自分は女たちの手のひらから抜け出すことはできない、いつまで経ってもこの女たちの欲望の吐け口でしかない。
焦りを感じていた利一の行動は増長していった。利一は自分の内部に沸き起こる凶悪な衝動のままに、家にあった脇差を持ち出した。もう駄目だ、殺す、殺してやる。本気でそう思っていた。自分がこの螺旋から抜け出すためにはそうするしかないと考えた。
しかし、倒れて血を流す女を見た時に、利一はこれまでにない興奮を覚えて戸惑った。美しい、と感じた。
女の白い肌を流れる赤い血に、利一の自身が屹立するのを感じた。これまで女の裸を見ても何の反応も示さなかったそこが、これまでにない程の主張をしていた。愛おしささえ感じた。ほぼ無意識に、利一はその血を啜り上げていた。これまで口にした何よりも美味に感じた。
幸いにして、女は死ぬことはなかった。利一はそれから、ほかの何を口にしても味気ないと感じるようになった。もう一度それを望んでいる自分に気付いた。
つまりは、うまくやればいいのだ。簡単な事だ。言葉巧みに相手の欲望を満たしてやれば、多少おかしなことをしても相手はこちらを非難することはない。実際、利一はうまくやった。女たちは自ら、利一に傷付けられることを望むようになった。あまりにも簡単で、利一は張り合いがないぐらいだった。利一は夜な夜な、女の血を飲みに歩き回るようになった。それはやがて女たちの間で「宝生の吸血鬼」と呼ばれ、美しい女が被害に遭うとされて、女たちの間ではその被害に遭うことをステイタスとさえするような節があった。
だが、女たちは口を噤んでいたものの、周囲には異変を察知された。まず利一は、普通の食事を受け付けなくなっていた。あまりにも味気ないので食べることに意義を見出せなかっただけなのだが、何も口にしない割にはあまり生活に支障をきたさなかった。人間の血というのは栄養のあるものらしい。だが、さすがに料理番は毎回利一の分の食事が残される事に疑問を感じていた。
そして、これが一番の決め手だったのだが、宝生が家の女に手を出すと必ず女の体に傷があることに気付いた。傷に触れると女たちは必ず恍惚とした表情を見せた。やがて女たちは段々体調を崩すようになり、眩暈やふらつきで倒れるものが増えた。貧血を起こしていたのだ。
すぐにそれは利一の仕業だと宝生の耳に入った。宝生はこれ幸いと利一を家から勘当し、女たちの間でまことしやかに流れていた「宝生の吸血鬼」の噂はしばらく尾ひれをつけて流れ続けたが、やがてなりを潜めていった。
「ヘマトフィリア、かの」
利一の話を聞いた恭助は、そんなことを呟いた。
「ヘマトフィリア?」
「血液嗜好症、異食症の一種だ。性的興奮も伴っておるから、血液淫虐症かもしれんな」
利一は目から鱗が出るような感覚を覚えた。自分のこの衝動はただ頭がおかしいだけだと思っていたので、そういう分類の病があることに驚いた。
「貧血などの症状から妊婦が異食症になることはあるが…お前さんの場合は心の病だな。異食と性倒錯が絡み合って、まあ傍目から見れば吸血鬼のような状態になったんだろう。今も飲んでるのか?」
「…前ほどではないけど、たまに。花街やカフェーの女給がやりやすい」
「そうだろうな」
そういうと、恭助は煙草を吸うために煙管を取り出した。だが、利一があからさまに嫌な顔をしたので、その手を止めた。
「…ああ、駄目か」
「煙草の匂いは嫌いです。酷く気分が悪くなる」
「ふむ、厄介な男だな」
そういうと、恭助は煙草を吸うのは諦めたのか、煙管をしまい込んだ。そしてそのまま、話を続けた。
「お前さん、童貞だろ?」
「…は?」
「女を抱いたことがない」
「いや何を…そうですけど…」
なぜ突然、利一の女性経験の話になったのだろう。煙草に対する嫌悪感のせいだろうか。利一は少々苛立ちを覚えた。まぁそもそも、童貞を指摘されて不快感を覚えない男などいないが。
不思議と利一は、女性の扱いに長けて、あれだけのことをしていたにも関わらず、女性を抱いたことはなかった。そこに興味を示さなかったというのもあるし、幼いころに植え付けられた恐怖感から女性を性愛の対象として見ることができなかった。利一が女性に抱いていたのは「吸血衝動を満たすための対象」というただそれだけだった。
「まぁ、アレをもみ消すときに、宝生家の下女たちに話を聞いたんだがな。お前は女を傷つけてその血を飲むことはあっても、性交渉に及んだという話はひとつも聞かなかった。お前が何を思ってそうしたのかは知らんが、皮肉にもそれが、女たちがお前に入れあげるひとつの大きな要因になったようだな」
「え?」
「女にとっては必ずしも褥を共にすることが、欲望を満たすことにおいて重要視されることではないということだろう。甘い言葉をかけられて傷付けられる。案外そういう事が、女が求めていることなのかもしれねぇな」
「…」
「しかしお前さんは凄いな。童貞なのにその天性のたらしっぷりか。末恐ろしいもんだ」
そういうと恭助は、からからと笑った。
自分の異常な行動をただの病気だと切って捨てられ、天性のたらしと笑われて、怒ってもよさそうなものだが利一は妙に心が軽くなっているのを感じた。不思議な老人だと思った。
「…一体、どんな方法で口止めをしたんですか?」
「そいつぁ言えねえな。企業秘密だ」
「薬屋なのに?」
「薬屋なのにだ」
利一と恭助は、にやりと笑いあった。利一とて、恭助が本当の事を言うとは思っていない。なかなか食わせ物の老人だ、そうそう尻尾は出さないだろう。
利一は妙に清々しく、気分が良かった。こんなに気分がいいのはいつぶりだろう。そういうえばいつの間にか鼻水も止まっていた。あの忌々しい鼻洗浄が効いたようだ。
「そうだ。お前がさっき魅入ってたその絵だがな、竜胆が描いてあるだろう。その竜胆の青が瑠璃の粉を使ってるんだ」
「…見てたんですか」
利一は絵に心を奪われていたことを恭助に指摘されて、気まずさを覚えた。たった今それ以上の恥ずかしい性癖を知られてしまった後だったのだが、なんとなくそれとは違った気恥ずかしさだった。
「絵の事は儂もよくわからんのだがな、石の粉も絵具になるという事で、画家も時々うちから商品を買っていく。岩絵具と言うらしいな。花の色は瑠璃で、葉の色は孔雀石かの…うちの孫が手慰みに描いたんだがな」
「えっ?」
恭助の言葉に、利一は先程見かけた恭助の孫という女性を思い返した。恭助には悪いが、あの無愛想で素っ気ない女性が描いた絵とは思えない。群生する竜胆の迫り来る感じや、ひとつひとつの花の繊細さ。そこはかとなく艶めいたものすら感じた。この絵を、あの女を捨てたような女が?
「…そう意外そうな顔をするな。失礼な奴だ」
「あっ、すみません」
「時々、何かに没頭して抜け出せなくなる事があるようでな。今はもう描いていないし、描き上げたのもこれだけだ。儂ゃ爺馬鹿でな、素人目だがいい絵だと思っとる」
恭助ははばかる事なく目尻を下げていた。余程孫が可愛いのだろう。
「まぁ…確かに、いい絵だと思います」
「だろう?」
「この絵、頂けませんか?」
「何を言っとるかそんなもん金を積まれても」
「構いませんよ」
恭助の言葉を遮るように女の声がした。いつの間にか階段の途中から顔を出した恭助の孫が、こちらの方を無気力な目で眺めていた。
利一は半分冗談で言ったつもりだったので、描いた本人から許可が降りたことにびっくりした。だがそれ以上に、女の無気力な目に、利一は絵を見た時と同じような感覚を覚えた。
「えええ、だってお前これせっかく描いたのに…」
「欲しいという人に差し上げる方が絵も本望でしょう」
「だって折角店に飾って欲しいって儂に…」
「じい様は老い先短いじゃないですか」
「いやいやいやいや、あの、落ち着いて下さい、別に無理にとは…」
孫からのつれない反応に、恭助は本気でしょげている。容赦無い。この女、容赦が無い。
「…しょうがないですね。じゃあじい様には新しく描いて差し上げますから、その絵は差し上げて下さい。それならいいでしょう?」
その瞬間、恭助の顔がパッと輝いた。おかしい。これがさっき自分の不祥事を揉み消したと言っていた老人だろうか。
恭助はにやにやしながら利一の方を見て言った。
「いやぁ、奈落がそうまで言うなら?儂のために描いてくれるって言うなら?それはもう断る理由なんかないのぉ。仕方がない、その絵はこいつにくれてやるわい」
その隙に、女はまた上に戻ろうとしていた。利一は思わず、声をかけていた。
「あの!」
女の動きが止まり、目線を利一の方に向けた。またあの無気力な目。だけど、なんだろう。ずっと見ていたいと思ってしまう。
「…いいんですか?この絵…頂いてしまって」
「欲しいんじゃなかったんですか?」
「あ、いや…そうではなくて…いやそうなんですけど…」
要領を得ない利一に、女は不審そうな顔をした。利一はこの女の表情が動いたのを、初めて見た。
「…大事な、絵なのかなと」
「別にそんなことはないですよ。手慰みに描いたものです。お気に召したなら差し上げます」
そう言うと、女は二階へ行ってしまった。利一はしばらく、女が立ち去った方を眺めていた。
「童貞じゃのお…」
そんな利一を見ていた恭助は、ポツリとそんなことを呟いた。
「…なんだその話は。覚えとらんな」
部屋に飾っておいた絵を見て、奈落がそう答えた。
まぁ、そんな気はしていた。なんなら絵を描いていたことも覚えてなさそうな勢いだ。これではその後、恭助は新しい絵など描いてもらえなかったに違いない。可哀想に。
極楽堂二階の客間は現在、利一の部屋として使われている。その部屋に、ひとつだけ飾られている絵がその時のものだった。
「わたくし、この絵大好きなんです。この青い竜胆の群生も素敵なんですけど…一番好きなのは、この手前の鈴蘭」
女給姿の利一は、にこりと笑ってそう答えた。
奈落は、利一の過去に関する事はほとんど知らない。吸血鬼と呼ばれていた事も、女の格好をする様になった根源の出来事も。利一はあの後、訓練して普通の食べ物に舌を慣らしていったので、普通の食事を取れるようになった。吸血衝動は…まぁ、ないと言えば嘘になるのだが、今はそこまででもないし、今更そんなことをしたいとも思わない。
そんな全てを、奈落は知らない。だが、知らなくていいと思っている。自分もあの時彼女がなぜあんなに無気力な目をしていたのか、それを知る事は出来ないのだから。
「鈴蘭ねえ。この鈴蘭はなにで描いたんだったかな…白いから胡粉か?」
「多分、水晶末ではないでしょうか?すごく透明感のある色合いをしていますから」
「ふうん…そうだったかな…」
ここまで覚えてないと、些か気持ちがへこむ。一応、初めての出会いの時のことだというのに。どれだけ無気力で、どれだけ自分に興味が無かったのか。
だが恐らくは、そんな彼女だからこそ惹かれたのだ。これであの下女たちのように、自分に対して色めき立つようならここまで夢中にはならなかった。そして、自分が描いたものを平気で人に渡してしまうその執着の無さは…恐らく、自分とも通じる彼女の歪みだったのではないかと思う。
「わたくし、鈴蘭って奈落さんのようだと思ってます。小さな花ですが、とても可憐で美しいですよね」
そう言って奈落に微笑みを向けると、奈落はそっぽを向いてしまった。恥ずかしいのだろう。わかりやすくて可愛らしい。
「…ちょっと可愛らしすぎるのではないか…?私には似合わんだろう…」
「うふふ、そんなことないですよ」
そう、そんなことはない。
だって、鈴蘭はその根っこに、熊をも殺す毒を持っているのだから。
終




