彼と彼女のテクノス 第1話 夏の夜の出会い編
彼と彼女のテクノス 夏の夜の出会い編
written by Beter Bakaran, dedicated to Technos
いつものように一人で電車旅に出掛けていた裕二は、ローカル線の最終列車で、今夜の宿に向かっていた。ちょっとした地方都市である。今、電車が通っているのは、そのベッドタウンというところか。随分深夜なので、眠りについた家もあるようだが、いくらか離れたところに住宅地の明かりが見える。
電車に乗っている人は、裕二だけだった。人々が通勤する方向とは逆なわけだから、自分のように、旅行の都合などでなければ、この時間に、都市の方向に向かう電車に乗ることなどないのだろう。
ぼんやりと車窓の外を眺めていたところ、電車が駅で止まった。駅には人影もない・・・いや、ホームを渡る歩道橋の上に、人が立っている・・・女性が手にハイヒールを持って、裸足で立っている。
こんな時間の、人気もない駅で、靴を脱いで橋の上・・・幽霊にしては、くっきりし過ぎている。
まさか、自殺か、と考えた裕二は、後先も考えず、席を立ち、電車を走り降りた。
電車を飛び出した裕二の後ろで、最終電車の扉が閉まる。が、そんなことを気にする余裕もなく、裕二は歩道橋を駆け上った。
「やめるんだ! 早まるんじゃない!」
歩道橋を駆け上った裕二は、女性に声をかけた。
「えっ?」
女性は、ちょっと戸惑った声で答えた。若い、というか、まだ少し幼さも残る、女子大生だろうか。
「えっ・・・て、自殺・・・じゃないの・・・?」
「はぁ?」
「いや、橋の上で、靴とか脱いでるし・・・こんな時間に・・・」
「えっ、ああ、そうかぁ。ごめんなさい」
話を聞くと、彼女は自殺する気など全然なく、ちょっと酔っ払ってはいるけれど、靴を脱いでいたのは、慣れないハイヒールを履いて足がいたかっただけだという。実家の親に迎えに来てもらうのを待っていて、暇だから歩道橋の上から夜景を眺めていたという。
「紛らわしい・・・最終電車が行っちゃったよ・・・」
とんだ勘違いで、最終電車を降りてしまった裕二は、しかたがないので携帯電話で宿まで行くのにタクシーを呼んだが、到着まで30分から1時間はかかるという。
「ごめんなさい。でも、あなたも、かなりのお人好しですね」
そう言って、くすりと笑った彼女が、思いのほか可愛かったので、こんなトラブルも、旅のエッセンスなのかもしれないと、裕二は思うことにした。
ふたりとも待ちぼうけになってしまったため、そのまま歩道橋の上で、なんとなく夜景を眺めていた。
すると、なぜか、彼女が泣き出した。
「ど、どうしたの?」
女性を泣かせたことなど一度もない裕二は、少し狼狽したが、小さな声でしゃべる彼女の話を聞こうと、少し距離を縮めた。
聞くと、彼女は大学の2年生で、付き合っていた先輩の男と久しぶりのデートだったらしい。慣れない女の子らしい服を来てみたり、初めてハイヒールなど履いてみたりしたけど、全然だめで、ふられてしまったという。
彼は半年も中国に留学していて、スイスの時計会社に就職が決まったらしく、最初からブラジルの支店に配属されることになったらしい。ますます遠くなってしまうし、もう別れようと言われた。
付き合っていると言っても、ずっと海を越えた遠距離恋愛だったし、彼が自分のことを、本当に好きだったのか、全然わからないという。
「付き合っていたのか、いないのか、わからないような関係の中で、彼が私にしてくれた彼氏っぽいことは、この時計をプレゼントしてくれたことだけ」
彼女は、裕二に時計をつけた手首を差し出した。少しだけ香水の匂いがした。
小さめの銀色の文字盤に、クラシックな形・・・後で知ったことが、パテック・フィリップというスイス・ジュネーブの時計会社が1932年に完成させたフォルムで、その後多くの時計のデザインに影響を与えたカラトラバというものだ・・・12時の方向にはダイヤモンドがあしらわれ、文字盤そのものもプラチナ箔が貼ってある。ガラスは、硬質な輝き・・・サファイア・ガラスだ。
「私は、時計のことは全然わからないの。この時計が、高いのか安いのかも、よくわからないし。テクノスってブランドみたいだけど、知ってる?」
「いや知らないな。僕が知っているのは、オメガぐらいかな」
「そうだよね、彼も学生だったんだから、そんなに高級な、有名なブランドなわけがないよね」
「でも、けっこう高そうに見えるよ。彼は時計会社に就職したんでしょ。時計は好きで、詳しかったんだろうね。きっと、自分の買える範囲で、一番素敵だと思うものを選んだんじゃないかな。それで、スイスの時計会社に採用されたんだから、彼のセンスは本物だったんじゃないかな。良い時計だと思うよ。僕も詳しくはないけど」
裕二の応えを聞いた彼女は、少し意外そうな顔をしたが、少し嬉しそうにも見えた。少なくとも、涙は止まっていた。
「そうか、私は彼のそういう気持ちとか夢とか、わかってあげられていなかったのかもしれない。彼の夢を、精一杯伝えてくれていたのに・・・」
彼女は、彼女の腕を飾る時計を、まっすぐ見つめた。
「彼は世界に飛び出していける人だったんだから、私みたいなハイヒールもまともに履けない女の子じゃついていけなくて当然だったんだね」
彼女は、かといって、自嘲する様子でもなく、ただ今まで気づかなった事実を認識して、納得したかのようにつぶやいた。
真剣な顔になった彼女に、少し、裕二は慌てた気持ちになった。
「まあ、僕なんか、中小企業で何年も経理をやっていて、海外の支店に赴任とかありえないし、のんきに生きてるし、君がハイヒールに慣れないのと同じで、ジャケットとか高級時計とか多少は格好つけろって会社の人に言われるんだけど、全然うまく着こなせないし、そんなのでも、まあなんとか生きてるしね。それじゃ、だめかなぁ?」
一瞬、きょとんとした彼女だったが、すぐに可笑しそうな顔をし、ちょっと声を立てて笑った。涙は消えていた。
「じゃあ、もし私が、あなたを好きになっていたら、私を置いて離れていったりはしなかったし、嫌いなハイヒールも履かなくてよかったね」
「そういうことになるね」
裕二は、彼女が笑ったので、ほっとして陽気に答えた。なんとなく、ふわりとした空気が流れた。
タクシーが駅前のロータリーに現れて、ドアが開いた。
もう行かないと、と裕二は言った。
彼女は、裕二の方をまっすぐ向いて、言った。
「待って、なんだか迷惑をかけちゃったし、話も聞いてもらえてすごい気持ちが楽になった。ありがとう。お礼というか、お願いというか、最後にひとつ聞いてくれますか?」
いいよ、と裕二は言った。
「彼がくれた、このテクノスの時計、あなたに貰ってほしいの。この時計は、やっぱり私には似合わないと思うし、かといって、捨てることもできない。あなたは、高級時計は苦手なんでしょ。私の代わりに、このテクノスの時計を使ってほしいの。もちろん、気に入らないなら捨ててもらってもいいけど、一応、一年間、ずっと私が身につけていたものだから・・・」
わかった、受け取るよ、と裕二が答えると、彼女は、腕時計のベルトをほどいた。時計に隠れていた彼女の手首が、白く露わになって、裕二はなぜだかどきりとしたが、顔には出さず、黙っていた。
彼女は、しっかりと両手で時計を差し出し、裕二はそれを受け取った。
「さようなら」
歩道橋を下り、改札を抜ける時、裕二は少しだけ彼女の方を振り返ったが、明かりの方向のせいなのか、彼女の姿はもう見えなかった。
タクシーに乗り込んだ裕二は、運転手に、行き先の宿の名前を告げ、車のシートに揺られて、しばらく黙って時計を眺めていた。
タクシーの運転手が話しかけてきた。
「先ほどの女性は、お知り合いですか?」
「いや、名前も知らないんですよ、ちょっとした勘違いと偶然で」
「へえ、親しそうに見えましたけどね。こんな田舎の駅で、よほどの偶然ですね」
ほどなく、タクシーは宿に着いた。
「おいくらですか?」
「2980円です」
・・・第2話につづく