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平吉と加代と和子と閻魔?

ここは昭和四十年代の大阪のいわゆる下町、天王寺界隈。慌て者だが器量と度胸のいい四十代半の奥さん『加代』が最愛の旦那さん、庭師『野田平吉』を無事あの世に送り届ける物語です。


すっかり涼しくなった初秋の晩、自宅で今まさに胃がんを患い死の淵を彷徨っている平吉、女房加代は往診で治療に来ている医者の様子を心配そうに傍らで見守っている。

天王寺駅から四天王寺と反対方向に数分歩くと小さな家が密集し上から見下ろすとまるで遊園地の野外迷路の様に路地が入り組んだ住宅地があり、そのほぼ中央付近の築二十年は経っているだろう古びた5軒つづきの長屋の真ん中が平吉と加代の住まいで、太平洋戦争の戦火も免れて、車も入れない昔ながらの下町の風情を未だに残す、人通りもまばらな静かだけが取柄の人情溢れた場所にひっそりと建っていた。

2階はあったが看病に何かと便利な1階の玄関からひとつ奥の6畳間で、所々破れている小さな衝立の向うに平吉は医者と加代に見守られていた。

『先生、どうですか?何とかこの人を助けてもらえませんか?』

診察を終えて洗った手を加代から渡されたタオルで拭きながら、ずり落ちたメガネを右肩で器用に上げているのは、平吉が子供の頃から診てもらってる親の代から続く近所の伊藤医院の伊藤圭三院長。体は親ゆずりの大柄で、ヘリンボーン柄の上着にきれいに洗濯はしてあるが、すっかり小さくなったボタンの取れたよれよれの白衣を着ていた。

『あんたの気持ちは痛いほどわかるけど、もうどうにもならんわ。今できる事は苦しんでるのを和らげてあげるしかないで。』

『先生、この人ほんまに、ほんまに助かりませんのん?』

『そうやなぁ、今の様子やとわしは今夜か、明日の朝がヤマやと思うな。』

伊藤の言葉を聞くや否や、加代は血相を変えていきなり両手で伊藤先生の首を掴んだ。

『ちっ、ちっ、ちょっと・・・待って。急に何すんねん、手を離してぇな。これ、加代さん。ゴホッッ、ゴホッ。どないしたんや?』

いきなりの加代の行動に伊藤は成すすべもなく、首を絞められながらやっとの事で叫んだ。

『せやかて先生、うちの人がこんなに苦しんでるのにほったらかしにして、今夜か明日の朝か ら山に遊びに行くんですやろ?』

伊藤は加代の腕をつかんでやっとの事で首から引き離し、肩を大きく上下させて呼吸を整えながら、

『ビックリするがな。急に首を絞めてくるんやから。無茶したらあかんで。ほんまに。そうか?なるほど、そう事やったんかいな。まぁ、あんたの早とちりは有名や。死んでも直らんわな。ええか、ワシがヤマと言うたんは、平吉っつぁんの命が今夜か明日の朝までもつかどうかってことや。今夜がヤマ場っちゅう事や。誰がこんな時に山登りになんか行くかいな。』

『えぇーっ?山登りと違いましたん?そうとは知らずに早とちりですみません。大丈夫でした?先生に対して大それたことして、ほんまにすんませんでした。けど、山違いでホッとしましたわ。』

加代は、顔を赤らめて乱れた髪を手で直しながら、恥ずかしそうに答えた。

『何を安心しとるんや?これ!加代さん。あんたの旦那さんの命があと僅かなんやで。危ないんやで。わしの誤診やったらええんやけど、まず間違いないな。』

『そうでしたわ、先生。ウチの人もうあきませんの?私、何もしてあげられませんの?』

加代は我に帰って、今度は伊藤の白衣の袖にしがみつきながら目を潤ませて聞いた。

『もう、これ以上手の施しようが無いんや。せめてこれ以上苦しまんようにしてあげる事しか、今のわしには出来ひんわ。それよりな、加代さん。今あんたに出来る事は、手をしっかり握って名前を呼び掛ける事やで。』

『ええっ?今ですか?』ビックリしたように加代は言った。

『そっ、そうや。』意外な加代の反応に、伊藤はおそるおそる答えた。

『・・・はい、わかりました。先生がどうしてもって言わはるのでしたら・・・・』

顔を赤らめ、下を向きながら加代は伊藤先生の手を握り恥ずかしそうに名前を呼んだ。

伊藤は予想はしていたものの、やっぱりなぁ・・と、半ばあきらめ顔で、

『加代さん。あんたの様な町一番の器量良しに手を握られて名前を呼ばれたら、どんな男でもクラクラッとなるわ。わしなんかこの年になってしもうて、馴染みの「居酒屋さゆり」の五十がらみのおかみに無理言うて握らしてもらうのが関の山や。こんな時や無かったら嬉しいねんけど、・・・。違うがな。アンタ、平吉さんの手を握って名前を呼んでやりって言うたんや。わしの手を握ってどうするんや。・・・・ほんまに慌て者やな。』

『やっぱりおかしいと思ったんです。けど、先生を励ましてウチの人が治るんならって思って、勇気出したんですわ。ごめんなさいね。でもほんまに治るんなら私何でもしますよ。先生言うて下さいね。』

『そうか、そうか。慌てもんのアンタやけど、平吉への献身的な看病は前々から見てて感心してたんや。寝食忘れるくらいの看病してたもんな。ホンマそんなん見慣れてるわしでも涙が出るほどや。前に比べてすいぶん痩せはったし、よう頑張ったな。』

『大切な人が病に苦しんでるのに、傍にいてる女房がしっかり看病するのは当たり前です。けど、痩せたんはスイミング教室に通ってたからですわ。女はいくつになっても綺麗でいたいですから。ホンマに痩せてます?ウエストのこの辺なんかホラ痩せましたでしょ?それに足なんか・・・・』

『ゴホッ、ゴホッ・・』

伊藤の咳払いが無かったらまだまだ続いてました。

『あほらし、褒めて損したわ』

伊藤は加代に聞こえないような声でにが笑い。

こんなやりとりの中、平吉は空気より軽くなった様に今まで寝ていた布団から浮かび上がりフワフワと漂い始めた。次第に平吉は真っ白い霧のようなものに包まれて浮かんでいた。



『ここはどこやろ?あの世の入り口ってとこかいな?それにしても何にもないとこやな。けど、話に聞いたんは綺麗な花が咲き乱れてベッピンさんが仰山おって、酒池肉林みたいな所らしいな。娑婆では仕事に汗を流して、嫌な思いをいっぱいして、やっとこさ生活してきたんや。辛い事ばっかりやったしな。加代には悪いけど、早よ行きたいな。極楽ってとこに。酒やごちそうや・・・・・・・・』

平吉はこれから大変な苦労が待っているのも知らずに喜んでいた。


『加代さん、もう手の施しようが無いんや。残念やけど早よ楽にしてやって天国へイカせてあげるか?それならいい薬あるから注射してあげるで』

本来ならいけないことながら、加代の看病疲れや、平吉の病状を考えて伊藤は意を決して言った。

ところが、

『先生、こんな取り込んだ時に嫌やわ。何を言い出しはりますのん?いくらお世話になってる伊藤先生でも怒りますよ。』

伊藤は、加代のすごい剣幕に驚き、

『ごめん、ごめん。あかん事やったな。平吉は一生懸命に病と闘ってるし、アンタも献身的な看病で少しでも良くなるように願ってるのにな・・・。すまんかったな。謝ります。』

伊藤はそう言うと深く頭を下げた。

『あのぉ、先生?夫婦のことで言いにくいんですけど。この人が楽になるんなら申し上げます。あのぉー、ねっ。私は・・・、ね、』

伊藤は悪い予感に下げていた頭を思わず上げて、加代を見つめた。

『いっつも・・・、イカせてもらってましたよ。あーっ恥ずかしっ!』

『やっぱり!』

伊藤は額をパチンと叩いて思わず呟いた。そして畳に「の」の字を書いている加代に、申し訳なさそうに猫なで声で言った。

『加代さん。すまん。女性につまらん事言わせたな。けど、早とちりするアンタも悪いんやで。平吉を天国にイカせてあげよか?って言うてんねん。それにしても加代さん、アンタ顔に似合わん大胆なこと平気で言うな。こっちが恥ずかしゅうなるわ。』

『ええッ!主人をですか?どうしますのん?ほんまに主人は天国にイケますのん?けど、先生の見てはる前ではいくらなんでも出来ませわ?』

『もう、ええわ。アンタはベッピンでええ女やけど、疲れるわ。ホンマ。平吉も加代さんと世帯持って皆に羨ましがられてたけど、結構苦労があったんやろな。』

伊藤は独り言のように、つぶやきながら妙に納得していた。

『わかりました。先生。この人の為ですわ。覚悟決めました。主人は着物姿の私を色っぽいって気に入ってましたけど、すぐに着替えますわ?』と、まだわかっていない加代。

『まだ言うてるわ。もう好きにしい。』

加代の相手と治療に疲れきった先生、夜も更けてきたんで、容態が急変したら知らせに来るようにと加代に伝えて一旦自宅へ帰ってしまった。


加代は十八で和歌山の田舎から一人で美容師を目指して大阪へ出てきたが、アルバイト先の深夜喫茶で平吉と知り合い、付き合って半年も経たずに同棲、そして妊娠から出きっちゃった婚へとお決まりのコースをたどって現在に至っている。子供は女の子一人で、すでに嫁いでいて加代は平吉と二人で暮していた。娘の名前は早苗、現在二十四才で5歳年上の公務員芦田芳夫と2年前に結婚し、二ヶ月前に男の子を出産して平吉と加代は若いおじいさん、おばあさんになっていました。


『先生呆れて帰ってしもたわ。先生もお疲れやしな。とにかくこんな時は私がしっかりしないとアカン。主人をイカせるのはやめときって先生が言うてはったし、とにかく頑張らんと。けど一人やとやっぱり心細いから娘に来てもらおかな。』

加代は近くに住んでいる早苗に電話して、すぐに来てくれるように連絡した。早苗の家とは自転車で十五分足らずの距離で、早苗はすぐに駆けつけた。

『おかあちゃん、夜中に電話ってビックリするやないの。すぐ来て!としか言わへんから。どうなん?おとうちゃん、アカンの?。死んでしもたん?』

『まだや。今は危篤状態なんやけど、まだ亡くなってない。そんな早く殺さんといて。』

『なーんや、まだかいな。それなら翼のミルクの時間やったのにミルク飲ましてきたら良かったわ。相変わらずおかあちゃんは慌て者なんやから。』

『なんやって言い方ないやろ?ほんま、冷たい子やで。けど、伊藤先生が今夜か明日の朝が山登り、いやヤマって言うてはったから心細くなってな。』

『何が山登り???おかあちゃん、落ち着かなあかんで。そういう事情なら仕方ないわな。けどお母ちゃんの電話で翼を家に置いてきてしもたやんか。明日の朝までは大丈夫なんやろ?うちの旦那はオシメひとつよう換えん人から、翼連れてくるわ。ほんじゃまたあとで。』

早苗はそう言うと、父親よりも何倍も大切な息子の翼を迎えに帰っていきました。加代は頼りの娘もあてにならず、先生の指導の通り平吉の手を握り、名前を叫び続けていました。

この頃平吉は、遥か後ろの方から加代の呼ぶ声が聞こえているような気がしたものの、この先に待っている極楽の楽しい事で頭がいっぱいで、先を急いでいました。


そして夜が明ける頃、平吉の名前を呼び続け、疲れきって深い眠りについていたが、なぜか着物姿になっている加代の傍らで、平吉はとうとう旅立ってしまいました。なぜか平吉の口元には、かすかな微笑みが・・・・(合掌)




平吉に起こされた様な気がして目を覚ました加代は、ずっと握ったままだった平吉の手の冷たさに気が付いた。覚悟はしていたものの、加代は平吉にすがりついて泣き崩れた。しばらく泣いた後、我に帰った加代は平吉の顔を見た。安らかな顔だった。平吉の微笑んだ口元を見て、自分の今までの献身的な看病に平吉が感謝していると勘違いしながら、加代は伊藤先生に電話をかけた。

『伊藤先生、早よ来てください。うちのが、平吉さんが冷たくなってるんです。』

『そうか、残念やったな。アカンかったか。よし、わかったすぐ行く。でっ、わしが行くまで絶対カラダに触れたらアカンで。わかったな。』

と言うが早いか先生は電話を切ってしまいました。

『もしもし?先生。もしもし?体に触れたらアカンて、誰の?って先生も慌て者やな。電話切ってしまわはったわ。どうしょう?触ったらアカンのはどっちやろ?ウチは慌て者やからいつもスカタンな事をして怒られてる。ウチは平吉さんの体に触れたらアカンのやろうと思ってるから、きっといつもの早とちりで逆なんやで。ホンマは私の体に触れたらアカンのや。きっとそうや。そうなるとトイレにも行かれへんで。これはえらいことやわ。先生の言いはる事やから何か理由があるんやわ。でも顔も洗わらへんし、化粧も出来ひんわ。どうしよう、誰か来た

らこんな顔見せられへんわ。』

平吉が亡くなった事の悲しみの涙でクシャクシャの顔のまま、加代は右往左往していた。平吉お気に入りの着物も着崩れて無残にもはだけてしまっている。

『着替えたいけど、体に触らんと着替え出来ひんし、どうしょう?ウチの人はだらしない格好嫌ってたし。何とか着替えて化粧出来ひんかな?』

そんな時、朝の新聞配達のアルバイトから帰ってきた隣の田川さんの長男で大学生の健太が、ちょうど平吉の家の前を通りかかった。中から聞こえてくるドタドタと歩き回る足音に気づき、何事が起こったのかと思わず引き戸を開けて声を掛けた。

『おはようございますぅー。おばさん?どうかしました?』

健太は日頃から加代に好意を持っていて、加代も健太をわが子のように可愛がっており、力仕事などをよく健太にお願いをしたりして、よく家に出入りしていた。

『いあぁ、建ちゃんやないの。入って。入って。建ちゃん今なぁー、ウチの人が死にはったんや。いろいろ心配かけてたけどなぁ。とうとう、イッテしもたんや。』

加代はキョトンとした眼差しで上がり口に座った健太にすがるようにまた泣き崩れた。健太はどうしたらいいのかわからず、ただおろおろしながら加代の肩を支えていた。

『それで伊藤先生ももうじき来はるんやけど、恥ずかしながらこの格好やろ。健ちゃんにも見せられへんねけど、先生からなぜか体に手を触れたらアカンって言われてて仕方ないねん。あっ、そうや、健ちゃん。お願いなんやけど、悪いけど着替えさせてくれへんやろか?アカン?』

加代は息子のように思っている健太なので思い切って頼んだが、健太にしては、憧れている加代の着替えを手伝えるなんて、夢でも無理なこと。ましてや何の前触れも無く今現実となっているので、パニックに陥っていた。

『はい』と答えるより早く、何を勘違いしたのか立ち上がって自分の服を脱ぎ始めた。奥では平吉が相変わらず微笑んだ顔で横たわっているのに・・・。

加代は健太がいきなり支えてくれていた肩をどかしたので、よろけて倒れこんだ。半身を起こして見上げる加代の視線の先には息を荒くして自分を見つめている上半身裸の健太がいた。

『健ちゃんいきなりどうしたん?びっくりするやんか。あっ健ちゃんは脱がんでもいいんやで。私が着替えたいだけなんやで。・・・・(じっと健太を見つめて)それにしても健ちゃん意外と筋肉質でええ体格してんな。胸もたくましいし・・・・』

健太は野球で鍛えた大きな胸を激しく上下させ、鼻息荒く呼吸数も脈拍数も限界まで高くなっているのはご承知の通り。もうじきブレーキが壊れてしまいそうな状況で加代と向き合っております。

『おはよう。やっぱりアカンかったんか。』

先生が駆けつけている最中だったのを覚えておられましたか?ご期待にそえなくてごめんなさいね。

伊藤は玄関でたたずんでいる裸の健太を横目に、急いで平吉が寝ている奥の間へ入っていった。

加代は健太に軽く会釈をして「また後で・・・」とだけ伝えて伊藤につづいた。居場所の無くなった健太は、脱ぎ捨てたシャツを握りしめそそくさと逃げるように出て行った。

『何かわからんけど、ツイテないわー』しきりに首を傾げながら・・・。




加代は伊藤先生から間違いを指摘され、早とちりに今更ながら自分でも呆れた。無事着替えと化粧を済ませ、伊藤の傍らでじっと平吉のやすらかな顔を見つめていた。

伊藤は平吉の死亡を確認して、加代が用意した洗面器で手を洗いタオルで手を拭きながら、これからの段取りを加代に話し始めた。

『ええか。平吉さんは精一杯病と闘い頑張ったけど、力及ばんと亡くなってしまいはった。加代さんも一生懸命に看病したけど、これも寿命や。諦めなしゃあない。泣きたい気持ちもようわかるけど泣いてばっかりいたかて平吉さんは戻って来ないんや。あんたがしっかりせな、平吉さんも安心してええとこ行かれへん。それでな。今からせなあかん事が山ほどあるから説明したげるわ。ええか、よう聴きや。まずわしはこれから病院に戻って死亡診断書を書くから、あと1時間かくらいしたら取りにおいでや。それを区役所に届けて火葬許可書をもらうんや。それが無いと平吉さんを火葬してくれへんで。だいたい葬式屋が代行してくれるけどな。そしてお寺と葬式屋に連絡して葬式の段取りを決めなアカン。どっか知り合いの葬式屋はあるんか?無かったら紹介したるさかい。ここまではわかったか?』

『いっぺんに言われても覚えられへんけど、まず先生とこへ行って葬式屋さんとお寺さん呼んで、診断書を区役所で火葬するんですね。』

『うまいことスカタン聞いとるな。紙に書いたげる。こうして、こうしてここへ行って、こうして、こうするんやで。・・・・加代さん一人やったら大変やな。早苗ちゃんはどうしたんや?まだ来てないんか?』

『あの子昨日危ないから来てやって電話したら飛んで来たんですが、まだ亡くなってないって言うたら、子供を置いて来たからって帰ってしもたんです。あの子も私に似てて慌てもんですから。』

『それやったら、早く電話してあげて。親の死に目に遭わんのは親不孝やからな。早苗ちゃんが来たら診断書取りに来させてや。そしたら、今から湯灌の準備するからな。ちょっと手伝ってや。』

『先生、それは気が付かんと申し訳ありません。今すぐ用意いたします。お湯は沸いてますので、ちょっと待ってて下さい。』

立ち上がろうとする伊藤を手で制止して、加代は台所へ立ってすぐに戻ってきた。

『貰いもんですがちょうど栗ようかんがありましてん。お茶は渋めで入れますね。ちょっと待ってて下さいね。先生。』

いそいそとお茶の用意をする加代に、先生はまたもや勘違いをさせた自分に苦笑いをしながら、ゆっくりと喋りだした。

『ようかんの準備やないんや。加代さん。説明が足んかったな。ゆかんって言うて、死んだ人の体を拭いて清める事なんや。湯が沸いてるって言うたから、準備がいいなって思ったけど・・・。まぁ、せっかくやからいただくわ。』

伊藤は加代が差し出したお茶をひと啜り口に入れた。

『先生、いややわ。はずかし。また勘違いしてましたんやね。いつもながらスミマセン。そしたら洗面器とタオル用意します。教えて下さいね。いつも体は拭いてあげていましたから、同じでいいんですか?』

『死んでからする湯灌と言うのはちょっとやり方が違うんや。不幸があった時は何でも逆さにするやろ。せやから、この湯灌もまずぬるま湯を作るところから逆さまにするんや。』

『へぇー、逆さまってどうするんですか?まさか逆立ちして入れるんですか?』

『違う違う、普通はお湯に水を入れてぬるま湯を作るやろ。けど湯灌の時はな、水を入れた桶や洗面器にお湯を入れてぬるま湯にするんや。普段と逆やろ?そして拭く時も足から拭くんや。これも逆やろ?だからタオルは何枚も用意してや。髪の毛も綺麗にといて、髭もきれいに剃ってあげるんやけど、髭は死んでからしばらくは伸びるから気が付いたらまた剃ってあげてな。』

『よくわかりました。先生。大切な人やから、時間掛けてゆっくり拭いてあげますわ。もう、してあげられないんですもんね。私と早苗とでしますから、先生はお疲れですからどうぞお帰りになってお休み下さい。ほんまに何から何までお世話になってありがとうございました。』

『わかった。そうしてあげてや。そしてきれいに拭いたら、下着を履かして寝巻きを着せるんやで。この時は襟を左前にして着せたらいいから。ええか、あんたが着るんやないで。さっきみたいに間違えんようにな。』

そう言うと栗ようかんをいそいで口に入れ、お茶を飲み干して伊藤は席を立った。

『先生早くからありがとうございました。あとで伺います。それと先生。勘違いのこと誰にも言わんといてくださいね。恥ずかしいですわ。』

伊藤は玄関で鞄を渡してもらい、加代の肩をポンポンと叩いて、頷きながら帰っていった。

加代からの連絡で早苗が翼を抱えて駆けつけた。加代が娘らしく平吉の傍らで泣いている早苗に湯灌の話をすると早苗は、親譲りを証明するかのように、やっぱり「やかん」を持ってきた。加代から教えられた早苗は、平吉の微笑みながらの死に顔を見て、

『おとうちゃんに「お前もか」って笑われてしもうたわ』

と改めて父親の死の悲しみに半分笑いながら泣き崩れた。


加代は先生に教えてもらった通りにぬるま湯を作り、湯灌をするために平吉の服を脱がし、タオルで拭き始めた。

心を込めて今までの結婚生活を振り返りながら。両足を拭き終わったところで、泣いていた早苗もタオルを持って拭こうとしたが、肝心な部分にさしかかったところで、加代は

『ここはたとえ娘でもアカン。誰にも触らせへん。妻としての最後の役目なんやから。』

『そうやね、もう出来へんもんな。最後やからな。』

『そうやね、最近ずーっと無かったかし、懐かしいわ。』

『おかあちゃん、何勘違いしてるん。変なこと考えんといてや。私がおるんやで。もう、あきれるわ。』

ふたりで平吉を左へ右へと起こしながら背中も綺麗に拭き、先ほど先生から頂いた綿花を細かく割いて肛門や鼻、口の中に詰めた。しかし寝巻きに着替えさせる時に、先生から聞いた襟の左前で親子で意見が違った。

『左が前やから、こっちから見て左が上になるのんと違う?』と加代。

『お父ちゃんの左が上やで。人から見たのを基準にしたら、ややこしいやん。』と早苗。

『それもそうやな。こうか?せやけど、これやったら普通やん。これって右前って言うで。』

『先生男やから、ようわからんかってんわ。こうせな懐に右手が入らへんやん。』

『けど、早苗。おとうさんの右手って私らから見たら左手やで。』

『当たり前やん。何言うてんの今更。』

『ほな左前ってこちらから見たら右前やんな?』

『そうやんか。そうなるよ。だから普段の着方でいいねんやんか、あかあちゃん。』

『そやかて、さっき先生何でも逆さにせなアカンって言うてはったよ。』

『そしたら、裏表反対に着せよか?そんなん見たこともないけど。』

『とりあえず早苗、普段と逆にしようや。間違ってたら私が直すわ。』

『おかあちゃん、ちゃんと聞いとかへんからや。いっつもそうや。相変わらずやな。』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




裸の平吉の傍で、妻と娘が右や左やと揉めている頃、平吉は白いモヤの中から抜けて、向こう岸が見えない程の広い河原にいた。寒くも暖かくもなくそして風もなく、薄暗い空のせいで水平線の境目がよくわからない。草ひとつ生えてなく一面大小さまざまな石で覆われていて、殺風景この上ない。水音が聞こえないのでこの辺りの流れは緩やかなのだろう。しかし上流なのか遥か遠くから地を揺るがすような轟音が聞こえていた。

『ここはどこや?えらい所に来てしもうたみたいやな。』

平吉は舌打ちしながら薄暗い中を目を細めてよく見渡すと、あちこちで子供が小石を積み上げているのが見えた。

しばらく歩いたがいっこうに川岸には着かない。あれこれ考えるうちに、平吉はようやく理解し始めた。

『ははーん、ここが三途の川か。賽の河原っちゅう所やな。初めて来たな。当たり前か。それにしても広い河原やな。河原やのに川はどこにあるんや?水の無い川か?そんな事ないやろ。川って言うにはやっぱり水があるで。さっき大きな水の音も聞こえてたしな。』

ずいぶん歩いただろうか、ようやく川岸のような場所に着いた。ここまで来るのに何人もの石積みする子供達を見た。みんな泣きながらも黙々と石を積んでいた。

『やっと着いたで。三途の川っちゅうとこに。噂どおりの大きな川やな。向こう岸が見えへんで。濁ってるみたいやけど、臭くはないな。こんな川を渡るんはいややな。へど渡らんと極楽に行けへんしなぁ。けど、いったいどこから渡るんやろ?橋なんか見当たらんし、船も無いし。難儀なとこやな。誰かに聞かんとアカンけど、だれもおれへんしな。』

平吉が悩んでいると、遠くから話し声が聞こえてきた。何やら言い争ってるような感じで、声がする方に近づくとだんだんはっきりと聞こえてきた。よく見ると何と漫画に出てくるような、角が一本頭のてっぺんから出ている赤と青の二匹の鬼と熊のようながっしりした体に大きな四角いこわもての顔の男が言い争っていた。

『お前は娑婆で人に迷惑ばかりかけていた極悪人やろ?そんな悪い奴は上流の流れの速い強深瀬きょうじんせを渡るんや。』と赤い鬼が更に赤い顔で言った。

『何でやねん。わしは人の三倍も四倍も渡し賃を渡すって言うてるやろ。お前、いやおたく達、固いこと言わんとこの通り頼んますわ。おたくらはわしを黙って見過ごしたらええやん。』

大きな体を折り曲げて、こわもて男が頼み込んでいる。

『だまれ、規則は規則や。お前だけ特別扱いは出来へんわい。』

青い鬼が遊園地の的当てゲームの鬼のように大きな金棒を振り上げて吼えた。

『そこを何とか、頼みますわ。誰にも言いませんから。閻魔さんにも言いませんから。』

『アホ!閻魔さんの前でウソ言うたら、舌抜かれるぞ。』と赤鬼が青い舌をだして言った。

『やっぱり、母親が言うとったんはホンマやったんや。』

平吉は成り行きを見ながら頷いていた。

『ほな何かい、地獄の沙汰も金次第ってのは嘘かい。』とこわもてが開き直って言うと、

『そんな言葉知るかい。お前らが勝手に作った言葉や。閻魔大王監修の「ど忘れことわざ事典」にも載ってないぞ。』

平吉は先を急いでいるのを忘れて腕組みをしながら聞いていた。

『えっそんな本あるんや。どこに売ってるんやろ?まっ、俺はいらんけどな。しっかし、こいつらの話いつ終わるんや?早よ極楽に行きたいのに。けど、いくらするんやろ?』

平吉はやりとりに興味はあったが、そろそろイライラしてきていた。

こわもての男も一向に話しにならない鬼たちに業を煮やしてきていた。

『何でもええから、早よ渡らしてーや。急いでんねん。向こうに急用があるんや。なぁこいつらどう思う?』

話に聞き入っているうちに、平吉はいつの間にか近づきすぎていた。剛造と目が合って同意を求められて、平吉は後ろを振り返りながら自分しかいない事に気づき、現在の置かれた立場の絶望感に生きた心地もしなかった。

(死んでるんですが・・・。)

平吉はその場の雰囲気で、知らんふりは出来なかったので仕方なく、

『よく事情はわかりませんが、おたくらも儲かるんやし、上には黙っといたらわからへんでしょう?固いこと言わんと船に乗せてあげたらどうですか?急いではるんやし。』

『お前だれや。名前は?名簿で調べるさかい。』

青鬼が閻魔帳と黒地に赤く書かれた帳面を開きながら言った。

『野田平吉です。大阪出身です。』

『野田平吉?の、の、の・・・ああ、あった。あんたは善人でも悪人でもない普通やな。備考に酒と女に注意ってあるな。』

『余計なこと言わんでもええやろ。』

平吉はすばやく突っ込んだが、お構いなしに青鬼が、

『お前も歩きで渡らなアカンで。ただし浅瀬やから安心せい。』

『ええっ?私も船には乗れないんですか?』

『そうや、アカンな。それに何やその着物は。柄の入った着物はアカン。ここでは真っ白い着物でしか船に乗られへんという服装規則があるんや。』

赤鬼がえらそうに腕組みしながら平吉に言った。

『三途の川も堅苦しい規則がありますねんなぁ。と言う事はおたくら冥界の役人でっか?給料制?年俸制?』

『わけわからん事言うな。とにかくあんたらを船に乗せることは出来へんな。わかったらさっさとあっちへ行ってや。おれら忙しいんや。』

赤鬼と青鬼は声を揃えて言った。手で向うへ追いやる仕草もまるで鏡で見ているように全く同じだった。

『おたくら双子でっか?そういえば色違うだけで顔もそっくりやな。』

と、平吉が感心しながら言うと、かぶせるように

『おまえらケチ役人とは話しにならんわ。上と話つけたろか?上の者はどこにおるんや。』

おわもて男は我慢の限界まで来ていた。

『上の方々はお前らと直接話しなんかするかいな。それになんぼ頑張っても規則は規則や、変わらへんで。』

『威勢がいいのは今のうちやで。お前らそのうち地獄を見るわ。』

???????

二匹の鬼は口々にそう言うと、業務に戻った。

諦めきれないこわもて男は、少し頼りなさそうな平吉の方を見やって、

『野田はんて言うたな。わしは若林剛造って言うんや。よろしくな。ここは初めてか?そうやろな。たいていの奴は初めてやけど、わしは二回目やねん。すごいやろ。一回目はここに着いてさっきの奴らと話てたら、急に背中を引っ張られて生き返ったんや。心臓発作やってんけど腕のいい医者に当たったんやろうな。けど今回はアカンみたいやな。心臓悪かったからな。身内に言うといたんやけど、今度もしものことがあったら、いっぱい金を入れてくれるように頼んどいたんや。前もあいつら断りやがったからな。けど金額やないみたいやな。わし、ここだけの話やけどな、泳ぎが苦手やねん。小さい時川で溺れかけたことがあってな、それから怖いねん。おいおいお前、何笑ろてんねん。誰でも苦手な事あるもんじゃい。』

『で、どうしはるんですか?あいつら頭固いし、金ではアカンみたいやし。困りましたな。』

平吉はにやけた口元を無理に直しながら、剛造に尋ねた。

『そうなんや、そこやねん。何とかして船に乗らなあかんねん。何かええ知恵あるか?』

『わし、ここ初めてやからコネもないし、知り合いもおらんしなぁ。』

『そうや!こんなんどうや。ここに来る善人そうな奴をあいつらの所へ行く前につかまえて名前を聞いてなりすますんや。どうや?』

剛造はここでも悪知恵を働かせはじめた。

『あいつらを騙すわけやな。けど、ウソついたら舌抜かれるってさっきの鬼が言うとったけど、まさにここは閻魔さんのお膝元やし、大丈夫かな。』

『大丈夫やて、青鬼の奴がそう言うとったな。そんなんウソやで。迷信やて。そんなんしてるほど閻魔さん暇ちゃうで。そう思わへんか?ええ年してそんなん信じとったんかいな。情けないやっちゃな。』

『アンタこそ水が怖いって言うとったくせに。失礼な奴やな。』

平吉はブツブツ小声でつぶやいた。

『とにかく、これしかないで。やってみようや。』

勝手に仲間にされては困るで。

『ちょっと待って。剛造さんでしたな。わしは泳げるし、普通やから浅瀬歩いて渡れるし、船に乗らんでもええねん。アンタだけの問題やから、わしには関係ないで。』

『平吉さんそんな冷たい事言うなよ。せっかく知り合いになれたんやから、一緒にやろうや。「旅は道連れ世は情け」って言うやんか。』

『そんなん死んでからでも通用するんやろか?とにかく知り合いって言うてもただ通りがかっただけやで。私もおねえちゃんと宴会、いや先を急いでるから、俺のことはほっといて下さい。自分のことは自分でしますから。』

と、平吉は剛造を振り切り、先へ進むためさっきの鬼の所へ戻った。

『さっき普通って言われた平吉です。』

『ああ、さっきの奴の連れか?なんや?』

青鬼は横目でチラッと平吉を見て、嫌そうな口ぶりで言った。

『連れちゃいますよ。彼とは知り合いでも何でも無いし、何の関係もないですよ。』

『まぁ、どっちでもええけど。何や?』

赤鬼がこちらに向き直って左右に大きく開いた口をさらに大きくして凄んだ声で言った。

『さっき、わしは普通やから浅瀬を歩いて渡れって言わはったんですが、どこから渡ればよろしいんですか?』

平吉は何とか鬼たちの神経を刺激しないで、早く渡りたい思いで丁寧なしゃべり方で聞いてみた。

『えーっとな。まずあんたお金出して。』

『へっ?』

『せやから、六文や。』

赤鬼がやはり赤い手のひらを上に向けて、上下に振ってここに置けといわんばかりに言った。

『へっ?六文て?何ですか?それ。?昔の・・・。持ってませんけど。』

『お前、やっぱりさっきの奴の同類やな。ケチつけんのやったら、何があっても絶対に渡らせへんぞ。』

青鬼が金棒を振り上げて叫んだ。

『違います。違います。ケチなんかつけてませんよ。六文の意味がわからんのですわ。昔のお金ですか?』

『昔かどうかは知らんけど、三途の川の渡り賃や。入場券と交換や。』

赤鬼が赤い字で閻魔と書かれた四角い紙を見せながら言った。

『そんなん、持ってません。』

『何やて!持ってない??ホンマかいな。えーっと、あっ、ちょっと待てよ。台帳ではお前ここに来るの一日早いわ。明日来る予定になってるで。せやから、服もおかしいんや。白い服やないからな。明日おいで。その時は首から六文入った袋提げてるはずやから。』

青鬼は帰れとばかりに閻魔帳を片手で前後に振りながら、改めて平吉を下から上へ見ながら言った。

『予約制かいな。ややこしいねんな。』

『お前のここに来るスピードが速すぎるんや。普通はあっちの世界に未練があるから、なかなかここへ来ないもんや。けど葬式ちゅう最中に坊さんに引導とやらを渡されて、やっと川を渡るんや。お前は早すぎるんや!帰れ帰れ。明日おいで。』

赤鬼にまた手で追いやる仕草をされて平吉も次の言葉が出ず、渋々引き下がった。

『一日くらい何やねん。頭の堅い人間、やないわ、鬼やでホンマに。硬いから角あるんやろな。どうでもええけど、それにしても明日になったら何で六文と白い服が手に入るんやろ。とにかく待つしかないんか。』

平吉は思わぬ障害に河原に座り込んだ。




その頃加代は早苗とようやく平吉の着替えを済ませ、先生から聞いた手順で近所のお寺へ住職を呼びに行った。お寺は家から歩いて2〜3分の小高い丘の上にある浄土宗「西方寺」。今にも崩れそうな昔は白かっただろう漆喰の塀に囲まれて、下町ならではのごちゃごちゃした家並みの中でも、一際目立つ尖がった屋根の狭い本堂。手で押せば容易く倒れそうな山門。加代は足早にその山門をくぐり、住職を探した。

住職は八十五才の高僧で耳が遠いし足も悪く、最近まで持病の心臓病で入院していた。六十になる息子さんはいるのですが、あまり檀家に対しては態度が横柄で評判が良くないので、いつまでも住職を譲れずに至っている。あいにくお寺は留守で無人だった。息子かお嫁さんのどちらかは居るはずなのだが。

お寺の中をあちこち探し回ったが人の気配がなく、しかたなく帰ろうと山門を出たところで、住職が嫁さんに手を引かれて帰ってきました。

朝のお勤めを終えてから毎日通ってる市立病院へ、息子が留守の為に嫁さんと行っての帰りだった。

『ご住職、えらいことなんです。』

加代は帰ってきた住職に走りよって挨拶も忘れてしゃべりだした。

『今帰ったところですわ。ようおまいり。』

住職は境内の中に置かれている木製のベンチを指差し、手のひらをベンチの方に向けて先に加代に座ってるように合図しながら、ゆっくり山門をくぐった。

『お参りに来たんやないんです。今朝ウチの平吉が亡くなったんです。』

『まぁまぁ、ご苦労さんな事ですな。中へお入り。お茶でもどうです?』

住職は耳がたいそう遠く、耳元でしゃべらないと中々会話が出来ない状態でした。

『ウチの平吉が死んだんですーっ!』

加代は住職の耳元で大声で叫んだつもりだったが、

『なんやて、ウチの塀が何やて?うちの塀はな、江戸時代に作られた上漆喰のええもんやねん。あんた目が高いなぁ。』

『塀と違います!平吉!野田平吉です。』

『ええっ?あんた男はんか?まぁ、綺麗な男はんなや。平吉いいなさるんか。で、何の用や?』

『うちは加代ですがな。住職、しっかりしてくださいな。旦那が死んだんです。すぐ来て欲しいんです。』

『ほぉ、それは気の毒に。旦那さんが亡くなりはったんかいな。まだお若いやろうな。まぁまぁ、折角来なさったんやから、お茶でもどうや?』

やっと通じたみたいですが、加代は自分でも顔が紅潮しているのがわかるくらい血が逆流していた。そしてさらに大きな声で

『私の主人が今朝亡くなって、お葬式を頼みたいんで来たんです。すぐに来てくれますか?』

『えっ?どこに行くんや?』(まだ聞こえてないみたい)

『行くんや?って、ウチですがな。』

『ウチて、あんたどこのお人やったかいな。』(漫才のネタみたいな展開です)

『もう、いやですよ。お父さん。そこの野田さんです。野田加代さんでっせ。野田さんすんませんな。最近ボケがだいぶ進んでまして、耳も遠いしでご迷惑をおかけします。』

嫁さんが思わず口を挟んだ。

『ああ、加代さんかいな。いつまでもベッピンやな。この界隈一の器量良しや。ようおまいり。』

やっと通じたが、まだ半分しか伝わってない。

『おまいりに来たんやないんですよ。さっきから言ってるように、ウチの平吉が今朝亡くなったんです。すぐに来ていただけますか?』

『平吉てあんたの旦那はんの平吉か?』

『はい、そうです。』

『おー、そら大変や。最近見んかったが、悪かったんか?庭の木とかまた見てもわなアカンのに。残念やな。ほんなら用意できたらすぐ行くわな。ちょっと待っててや。息子おらんから、嫁さんに手引いてもらって行くわ。』

『そうですか。ほな無理言いますけど、すぐにお願いしますわ。』





お寺で思わぬ時間がかかってしまい、急いで帰ると帰りが遅いと早苗が玄関口でイライラしながら待っていた。

『どこまで行ってたん!お寺さん呼びに行くのに何時間かかってるん!』

『留守やったし、しばらく呼んでも返事ないから、帰ろうと思たら帰って来はって、耳遠い人やから話がすんなりと進まんしで時間かかったんや。どうしたん?表で誰を待ってたん?』

『町内会の人がさっき来て、お通夜と葬式の日程を聞いて来はったで。回覧板回さなアカンから決まったらすぐに連絡して欲しいって。で、葬式はいつ?』

『まだ決まってない。班長さんが来はったん?』

『名前は聞いてるけど班長さんかわからへん。メモに書いてるさかい。お寺はんは?』

『もう来はるやろ。お茶菓子何かあったかな?お寺はんに出さなあかん。無かったらそこの詠菓堂で買うてきて。あっ、電話鳴ってるわ。早苗出て。』

『もしもし、芦田ですが。』

早苗が慌てて自分の姓で電話に出た。

『芦田違うよ。野田やんか。』

『そうやった。もしもし失礼しました野田ですが。はい・・・はい・・・。』

『おかあちゃん、おかあちゃん、伊藤先生や。早よ診断書取りにおいでって。』

『あっ、忘れてた。今から行ってくるわ。』

『せやけど、今からお寺はん来るやろ?どうすんのん。私はわからへんからね。お寺はん来るまで待っててよ。』

早苗は電話機に向かって何度もペコペコしながら、

『もしもし、すみません。何せ取込んでまして。すぐに伺いますので、もうちょっとお待ちいただけますか?』

『あー忙しいわ。私と早苗だけではどうにもならへん。こんな時平吉さんが居てくれたら。どこいったんやろ。こんな忙しい時に。もう!』?????????


ピンポーン。

『あっ、お寺はん来はったわ。早苗、何かお茶受けのお菓子買ってきて。早よ、早よ。』

『わかった。でもどっち先に行ったらええのん?診断書?饅頭?』

『饅頭頼むわ。それと線香切らしてるねん。せやから線香も頼む。あっ、すみませんね、ご住職。お疲れのところ帰って来はったすぐに来てもらって。』

『とにかくわかった。適当に買うてくるわ。』

『住職さん、ひとりでお越しやったんですか?お嫁さんは?』

『嫁はもうだいぶ前に死んでしもたわ。あんたみたいな器量良しやったんやけどな。あれは忘れもせえへん、えーっといつやったかな・・・・・』

『わかりました。ご住職。ひとりで来られたんですね。帰りはお寺までお送りしますわ。とにかくお経をあげて欲しいんです。お願いします。』

『ほい。ほい。そうやった。枕経せんとな。布団あるか?』

『布団と枕ですか。・・・はい。ありますけど・・・、お休みになるんやろか?』

『ご飯は焚けたか?ほんで団子も用意できたか?』

住職は仏壇に灯明をつけながら加代に話しかけた。

『食事もしはるんや。何も用意してないわ。昨日から平吉さんにかかりっきりやったしな。そういえば私も昨日の昼から何も食べてないわ。どうしよう。困ったわ。今からご飯炊いても間に合わへんし。饅頭よりもお団子が好きらしいし。こんなに世話のかかるお寺はんやったかな?』

住職は慌ててる加代にはお構いなしに、自分で仏壇から経机、香炉、燭台、花立てを平吉の枕元に移動させ、懐から引磬(いんきん)を取り出しチーンと澄んだ音を鳴らして念仏を唱え始めた。

『加代さんおるか?』

あまりに遅いので、伊藤医師が診断書を届けに来た。

『待ってても一向に来る気配ないから持ってきたで。診断書。』

『先生。えらいすみません。わざわざ来てもろうて。取りに行かせてもらうつもりがお寺はんが来られて、早苗には先に買い物に行ってもらってるんです。』

『早苗ちゃん来てるんか。そうか、そうか。はい、診断書。左側の死亡届はアンタが書かなあかんで。みとめ印もいるから用意して、葬式屋きたら渡して手続きしてもらいや。』

『わかりました。先生に足運んでもろうて、ほんまに申し訳ないです。』

『そんなん、かめへんけどな。アンタも早苗ちゃんが来てくれてるけど、ほとんど一人でせなあかんし忙しいやろ。本屋に行くついでがあったし、持ってきてあげただけや。』

『ありがとうございます。ところで、知らんもんで恥ずかしいんですが、今お寺はんが枕と布団とご飯とお団子用意するよう言うてはったんですが、休憩してご飯食べはるんですやろか?』

『西方寺の住職やな。それにしても最近特に弱ってきはったな。声も聞き取りにくいし。あーあ、えらい咳き込んではるな。大丈夫かいな。もう結構年いってはるからな。』

『せやけど、息子さんは評判良くないし、住職も頑張らんと仕方がないしね。』

『ああ、息子な。賢仁(けんじん)かいな。小学校から同級生やけど、子供の頃は大人しかったんやけどな。いつからあーなったんやろな。』

『それより、先生。用意したほうがよろしいんですね。やっぱり。』

『たぶん住職言うてたんは、座布団と平吉さんに一膳飯と枕団子をお供えしいやってことや。住職が食べるんやないで。』

『そうですか。良かった。先生来てくれはって助かりましたわ。危うく恥かくところでしたわ。ありがとうございました。何も知らんもんで。』

『はな、わしは帰るで。乗りかかった船やし、わからんことは何でも聞きにおいでや。』

帰ろうと玄関を出たところで、伊藤は加代を手招きで呼んで小声で、

『そうや、言い忘れたけどな、お寺はんに布施渡さなあかんで。』

『えっ?布施?布施って・・・・』

『地名やないで、お・ふ・せや。お礼の事や。』

『はい、はい。いつも参ってもらったとき、半紙に包んで渡してるアレですね。』

『そうや。なんぼ位かな?わしの両親の時はかなり前やし忘れたわ。直接聞いてみたら?』

『聞いても失礼ではないんですね。はい、そうします。助かりました。ありがとうございました。』

先生と入れ替わるように早苗が帰ってきた。

『先生出て行きはったけど、ひょっとして診断書持って来てくれはったん?』

『そうや。遅いから買い物ついでに来てくれはったんや。』

『良かった。助かったわ。はい買うてきたで。饅頭と線香。』

住職は相変わらずお経か唸ってるのかわからないような枕経をあげている。加代は診断書に記入する為に見当たらない老眼鏡無しで小さい字と懸命に闘っている。早苗は炊飯器をセットして一休み。

意外と大きく鳴らした住職の引磬(いんきん)の音にビクッとして、二人で同時に忘れていた平吉の方を見た。

その時加代は住職が座布団なしに枕経をあげていた事に気が付いた。加代は早苗にお茶と饅頭の用意をさせて、自分は慌てて住職に座布団を出して、診断書を書き終えて住職の後に座り手を合わせて平吉の成仏を祈った。早苗もお茶の用意を済ませ加代の横に座った。

『さっき伊藤先生言うてはったけど、お布施なんぼ渡したらええかな?』

加代は早速早苗に相談してみた。

『わからへんわ。さっぱり。第一、おかあちゃんがわからんのに、ウチがわかるはずないやん。』

『そうやな。住職と息子さんの二人で来てくれはると思うけど、二人で5万でええかな?』

『おかあちゃん、住職私らの話聞こえてるで、ホラ、何万何万って聞いてはるやん。』

『ナンマンダ・ナンマンダ・ナンマンダ・・・・・・』

加代は住職は耳が遠い事も忘れ、早苗との会話が聞こえたのと早合点して、後から住職に話しかけた。

『確かに何万かって聞いてはるな。住職?5万程でどうですか?』

『ナンマイダ・ナンマイダ・ナンマイダ・・・・・・』

『あのぉ、二人で五枚です。』

加代は住職が必要に繰り返す「ナンマイダ・何枚だ・・・」の声にいちいち返答していた。

『7枚です。7枚は少ないですか?あのう・・・もうちょっとですか?』

『ナンマンダ・ナンマンダ・ナンマンダ・・・・・・』

『十万って言わなアカンみたいやわ。おかあちゃん。』

『十万です。十万・十万円ですぅ!』

『ナンマイダ』

『あきませんかぁー?ほんなら十二枚。』

『ナンマンダ』

『十三万ですかぁー?』

『ナンマイダ・ナンマイダ・・・・・』

『聞こえてはるんかな?それとも少ないんかな?けど、これ以上やったらお葬式で首くくらなあかんようになるわ。』

『ナンマンダブ・ナンマンダブ・ナマンダブ・ナマンダブ・・・・』

加代、手を擦り合わせて、

『十五万でなんとかしてください。お願いします。』

その時枕経が終わり、住職にっこり笑ってうしろを振り返ったが、まだ必死に手を合わせて拝んでる加代達の姿を見て、

『もうええで。アンタらのその気持ちは十分に伝わってるで』

『では二人でお願いします。』

『はぁ?二人っちゅうのは、何やな?あーあ、お寺の人数か?』

『はい。それでお布施はさっきのでよろしいですね。』

『何?さっきのお布施?何のこっちゃ。布施は気持ちでええがな。なんぼでもええで。えっ?さっきわしが決めたって?』

『えっ?違うんですか?じゅうごっ・・・・』

と、言いかけて横で早苗が目配せしながら大きく咳きばらいをした。

『あのぅ、ウチはご承知の通り、あんまり大したお礼が出来ません。ですので、お二人で十万円くらいでいいですか?』

早苗は年齢こそ若いが、案外しっかりした話ぶりです。

『どなたさんかな?ひょっとして娘さんか?こんなベッピンな奥さんや娘さん残して、さぞかし心残りやろな。平吉も。』

早苗はベッピンという言葉に妙に照れながら畳の縁を指でなぞっていた。

『わしと息子でお参りさせてもらいます。布施はこんだけでええよ。』

住職は片手を広げてお茶をすすった。

ありがとうございました。加代と早苗は揃って畳に額をつけるようにお寺はんに平伏した





『で、日取りはどうなってんのや?』

住職がお茶をすすりながら聞いてきた。

『いろいろバタバタしてて、何も決まってないんです。どうしたらいいですか?』

加代は足の痺れを我慢しながら答えた。

『葬式屋は呼んだんか?』

『まだです。』

『葬式屋に斎場取らさなアカンねん。はよ呼びや。』

『ご近所でこの前しはった「こう・・何とか社」ってとこにお願いしようかと思てますが、ご住職はどこでもええのんですか?』

『「こう・・何とか」って、高級社か?』

『たしかそんな名前でしたわ。』

『ほな、寺から言うたげるわ。わし帰って嫁さんに電話させるから、ちょっと待っときや。』

『はい。お願いします。えっもうお帰りですか?そしたら私がお寺まで送りますわ。』

『いや、いや、アンタは忙しい身や。ここを離れたらアカン。わしはこのベッピンの娘さんに手を引いて送ってもらうわ。』

『ベッピンやなんて、喜ばしても何にも出ませんよ、住職さん』

住職は懐紙に包んでもらった饅頭を懐に、早苗に手を引いてもらって嬉しそうに帰っていった。

住職が帰った後すぐにお寺から葬儀社に連絡した事と忘れ物について加代に電話があった。

『そしたらな、早速高級社に連絡したさかい、すぐに行きよるわ。日取りはアンタの都合でええからな。それとインキンあるか?』

『はい、ありがとうございました。えっ、えーっ?インキンですか?調べないとわかりませんが、ウチにですか?』

『そうや。』

『インキンをどうしはるんですか?』

『商売道具なんや。探してくれるか?』

『インキンですよね。あの、例の、・・・・』

『そう、インキンや。結構使い込んでるけどな。』

『・・・・・・・』

『・・・私は無いと思いますが・・・・』

『いいや、絶対お宅や。確かにあったんや。』

『えーーっ?いつ見たんですか?私は離れて座ってましたけど・・・』

『枕経の時、握って叩いてたやろ?』

『握って叩いてたんですか?そんなことしてはったんですか?わかりませんでしたわ。(ははーん、ウチの人のや。さっき綺麗に拭いといてあげて良かったわ。けど主人インキンやなかったと思うんやけど。)』

『とにかく見つけたら、悪いけど届けてくれるか?』

『届けるんですか?インキンを。』

『たのんますわ。裸のままでええさかい。』

『はっ、裸でですか!さっき服着替えさせたのに。』

『はぁ?着替え?普段着でええよって頼んますわ。』

『あっはい、わかりました。』


加代はおかしな依頼に首を傾げながら電話を切った。その時、

ピンポーン

『すんません、こちら野田さんでっか?』

『そうですけど、どちらさんですか?』

『西方寺の紹介で来ました、高級社田中ですが。』

田中はこの道二年の二十五才の若手社員。高卒で印刷会社に勤めていましたが、給料の事で上司と喧嘩をして辞めてしまい、条件のいいこの仕事を選んだ。仕事は中途半端で、未だに会社からは大事な仕事を任せてもらってなかったが、全員出払っていて仕方なく田中が行くことになった。今日は当直明けで疲れていた。上司の指示で仕方なくやってきたが、平吉の小さな家を見るなり、「こらぁあかんわ。」とため息まじりに小さく呟いていた。

『あー、はいはい、もう来てくれはったんですか。』

加代は玄関の小さな鏡で、髪と化粧をチェックして引き戸を開けた。

『失礼します。田中です。』

田中は加代をチラ見して、顔を軽く上下に動かした簡単な会釈をしてキョロキョロ見渡しながら中へ入った。入るなり調度品や雰囲気を見渡して、加代に聞こえないように舌打ちしていた。

田中は加代に案内されるまま上へあがった。

『えー、早速ですがご遺体は?』

『あ、あー遺体ですか。こちらです。どうぞ。』

田中は平吉のそばまで案内されて平吉のいる場所を確認し、その後加代の方に向き直って名刺を加代に差し出した。

『田中です。』

『田中さんですか。何もわかりませんので、よろしくお願いします。』

『わかりました。奥さんですか?どこか話できる所あります?こんなところでは話できませんでしょ。』

『ここではあきませんか?この人のそばに居てやりたいんです。』

加代は少しムッとした口調で言った。

『狭いし、机も無いし、出来んことはないけど、あればどっか椅子のある所で話しませんか?』

加代と早苗はお互い目を合わせ、少し堅い口調で

『なにせ狭い家やし、汚い部屋ですけど、ここでお願いします。』

『はいはい、わかりました。ほんなら、まず診断書出してくれますか?』

田中は仕方なく平吉に背中を向けてドカッと鞄を置いてあぐらをかいて座った。

加代は田中の顔をキツイ眼差しで見据えながら、書き上げた診断書を田中に渡した。

『これですね。書いておきましたけど、間違いないですか?』

『んーと、えーっとね。あっ電話番号書いといて下さい。ここに。』

『これでよろしい?』

『はい、いいです。ところでもっさんは?』

加代は田中が気に入らなかった。横柄な態度やしゃべり方で、だんだん気分が悪くなっていった。

『今朝亡くなったんですが。』

『いや、いや、故人さんやなくて、もっさんですわ。』

加代はムカッとする気持ちを一生懸命に抑えた震えた声で答えた。

『ちゃんとわかるように話してください。おっさんて聞こえましたわ。もっさんって?』

『いえ、もっさんやのうて、もしゅさんです。喪主になる人は誰ですか?』

『喪主なら私がするんですやろね。』

『おたく、奥さんですよね?息子さんはいてはらへんの?』

『おりません。』加代の表情がますます固くなってきた。

『そうでっか。そしたら奥さんが喪主やね。わかりました。』

そう言うと田中は用紙を取り出して加代の前に差し出した。

『そしたら、ここに名前書いてください。漢字で綺麗にたのんます。』

『・・・綺麗によう書かんわ。あなた代わりに書いてください。』

『字を間違ったら私の責任になるんで、おたくで書いてください。』

怒りで手が震えていたが加代は黙って書き込んだ

『これでよろしい?綺麗に書いたつもりですが。』

『平吉さんの吉は、下が短い吉ですな。奥さん綺麗に書けるやないですか。』

田中は白い歯を出して笑って答えた。加代は早苗が手で×と合図を送っている方を見て頷いた。

全く同感であった。

『田中さん、葬儀の仕事して何年ですか?』

加代は声を低くしてゆっくり話し出した。

『5年ですが、何か?』

田中は思わずウソをついて経験不足と思われないようにつくろった。

『若いのにえらいねぇ。けど、』

加代はこのままでは大切な平吉の葬式が台無しになるような気がして、更に続けた。

『田中さん、5年もこの仕事してはるにしては成長してはらへんねんな。よう5年も続けられたんですね。あんたはここへ来て、仏さんに手を合わされました?何もわからんと思って適当に対応されてませんか?いつもそうしてはるんですか?それと、女二人だけやと思ってか知らんけど、横柄な口の聞き方やね。言いにくいですけど、帰ってもらえますか?あなたには大切な人の葬儀をして欲しくないです。きつい事言うてごめんやけど、帰ってもらえますか?』

田中は加代の言葉と早苗の怒った顔を見て、半ばあきらめ顔でカバンを閉めながら答えた。

『そうですか。わかりました。帰りますわ。せやけどあんまりわがまま言いはると葬儀社に嫌われまっせ。』

『これ、足代です。』

加代は早苗が手渡した半紙にくるんだ500円札を差し出した。

『そうですか。おおきに。』

当然のように田中はポケットに仕舞い込んで、診断書等書類を置いて足早に帰っていった。帰り際にも平吉に手を合わせる事も無く。





『おかあちゃん、あっさり帰らしてからにぃ。もっと言うたったらええのに。失礼な奴やわ、ほんまにぃ。で、次はどうすんの?早よせんと葬式の段取り出来へんで。』

『伊藤先生に相談してみるわ。』

加代は電話で伊藤院長にいきさつを話し、葬儀社を紹介してもらうことにした。伊藤は同級生が経営している少し離れているが、隣りの区にある公友社に連絡し、すぐに営業社員二名が野田家に到着した。経験十二年のベテラン社員「小林」と経験三年の助手「秋田」は早速野田家のチャイムを押した。

『伊藤先生よりご連絡頂きました公友社より参りました。』

加代の前で丁寧にお辞儀をして、

『小林と申します。同行しておりますのは秋田でございます。よろしくお願いいたします。ご主人様を亡くされ、ご愁傷様でございます。我々に出来ることは何でもさせて頂きますので、ご遠慮なくお声掛け下さい。』

加代は普段聞きなれない丁寧な言葉使いに戸惑いながら、二人の名刺を預かり中へと案内した。

『故人様はどちらにおられますでしょうか?』

小林と秋田は二人並んで、持って来た荷物を置いて加代に静かに聞いた。

『こちらにおります。どうぞおは・・お入りくださいませ。』

日頃使い慣れてない丁寧な身のこなしと言葉使いをしてギクシャクしている加代を見て、早苗は思わず苦笑した。

小林と秋田は平吉が安置されている奥へ案内された。仏壇と故人に正座して丁寧に合掌し、改めて加代のほうに膝を向けた。

『この度は誠にお寂しい事でございます。奥様はさぞお疲れの事と存じますが、何分にもこれからの決め事が多くございます。早速で申し訳ございませんが、お話に入らせて頂きます。同席されますご親族様がおられましたら、どうぞご一緒なさってください。それと同行しております秋田のほうで、白装束へのお召し替えをさせていただきますがよろしいでしょうか?また枕飾りともうしまして、故人様の枕元でお灯明やお線香のご用意をいたしますがよろしいでしょうか?』

『あっ、はいはい。何もわかりませんのでお願いいたします。着替えは秋田さんがして頂けるんですね。私はただ立っていればいいですか?白装束って初めてですわ。』

『奥様の着替えは、男性の私共では出来ませんので、今は故人様のお着替えをさせていただきます。』

加代は丁寧な言葉に緊張しながらも、いつもの早とちりで平吉と自分を間違ってしまったと気付き顔を赤らめながら、小林の恥をかかせない配慮に感謝した。

『ところで奥様、御宗旨は何ですか?』

『園芸です。お花が好きなんですよ。それが何か?』

『そうですか。いいご趣味ですね。ところで、ご宗教は何ですか?』

『えっ、あっ宗教を聞かれてたんですね。わたし御趣味と勝手に聞き違えてました。宗旨って宗教のことでしたん?ごめんなさい。宗教はねぇ、たしか浄土宗です。すぐ近くの西方寺さんの檀家です。』

『わかりました。浄土宗ですね。宗旨によっての飾り方違いますから。』

加代の早とちりにも小林は優しい眼差しで答えた。

『えらいむつかしいんですね。無学なんで教えてくださいね。』

加代は親切な対応の公友社の社員たちに安堵し、ふと昔に聞いた事を思い出した。

『人が死んだらお金を入れてあげるんですね。小林さん。』

『はい。三途の川の渡し賃と申しまして、一文銭を六枚入れますが、火葬ですので燃えない硬貨は入れられませんので印刷した六文銭をご用意しております。これでございます。どうぞご安心ください。』

『なんかそれを聞いて体の力が抜けるくらいホッとしました。ほんと不思議な気分です。ウチの人も安心したんかなぁ。ありがとうございます。』





賽の河原で惨めな思いをさせられ、鬼に帰れとまで言われていた平吉は、あたりをふらふら歩いていた。ここでは、まるで体重が倍以上重くなったように体が重くて、居心地の良い所ではなかった。極楽に行くのにこれだけ苦労させられるんやから、よっぽど極楽はええ所なんやと期待しながらも、はたして確実に極楽へ行けるのかと不安がいつまでも付きまとっていた。寝てしまえば楽なんだろうけど、不思議に眠ることも出来なくなっていた。

どこを見ても変わらない風景の中で、ふとまわりを見渡すと、前にチラッと見かけたが急いでいた為に見逃していた子供が石積みする姿があった。擦り切れたボロボロの衣装をまとった子供たちが、小さな石を塔のようにあちこちで積み上げていた。子供たちの表情は苦痛でゆがみ、母親や父親の名前を呼びながら会いたい恋しいと泣いていた。手足や体は血だらけで痛々しい限りであった。

その中で高く積み上げてあと一つ積めばで出来上がる石の塔があった。もう少しで完成というところで、さっきの鬼達よりふた廻りも大きい、大きな棘がいっぱい付いた黒い金棒を持った鬼がやってきて、せっかく子供たちが苦労して積み上げた塔を大きな金棒で容赦なく壊した。平吉は唖然と眺めていたが、横にいつからか先ほどの剛造が立っていた。

『あれは娑婆世界で親より先に亡くなった十歳にも満たない子供らばかりや。親より先に死ぬのは大変な罪なんやて。ワシらの罪より重いってわけや。特に十歳以下の小さい子供らはここに集められて、ああやって石を積んでは鬼に壊されるのを永遠に続けさせられるんや。正直見てられへんでぇ。可哀想すぎてなぁ。こう見えても気は優しいんやで。自分で言うのもなんやけど。』

『助けてあげられんもんなんですか?』

平吉は目を細めて残酷な行為を眺めながら尋ねた。

『手助けしたらえらいことになるって鬼が言うとったで。即地獄行きやて。ワシらごときが手助けしてもどうにもなれへん。止めとき止めとき。』

『けど、見てられへんやろぉ。あんな惨い事この世のものやないで。・・・ここはあの世やけど。』

『一人つっこみ入れんといて。』

『こんなことにこそ、アンタの持ってきたお金使ってあの子ら助けられへんやろか。』

涙が出るほど辛い気持ちなのに、なぜか泣くことも出来なくなっていた。

『無理や。わしも前回来た時同じこと思うたけど、さっきの奴らがどうにもならんてあっさり言うとった。辛いけど冥界の定めなんやそうや。わしらの力ではどうにもならん。見たら辛いから出来るだけ見んこっちゃ。』

『何か方法があるはずやで。あいつらにとり合えず聞いてみるわ。』

『アカンて。やめとき。それより早よ向うに渡ろうや。』

平吉は剛造が止めるのを振り切って先ほどの二匹の鬼の所へ駆け込んだ。

『おい、お前ら。お前らの仲間が子供らが一生懸命積んだ石の塔を、壊して廻っとるやないか。何とか止めるように言うたってや。』

『何やあんたか。確かえーっと、平吉やったな。おっ!衣装が白になったな。六文もぶら下げとるやないか。向うへ行くんやな。』

平吉は鬼に言われて着物が白くなって、手足にも旅姿の手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)が着いてるのに気がついた。首からは袋を提げていて、ジャラジャラと硬貨が入ってる音がしていた。(紙のお金はこの世界に来ると本物に変わるようです)

『あっ、ほんまや。いつの間に変わったんやろぉ。不思議なこっちゃなぁ。』

平吉は体のあちこちを目で確認しながら首を傾げていた。

『けど、今そんなことに驚いてる場合と違うんや。アンタらあれを何とかしたってーや。』

『あれってあの子供らか。あの子らはな、親に産みの苦しみと別れの悲しみという二重の苦しみを与えた罪でここに集められてるんや。それでいつ終わるかわからん石積みをさせられて、泣き叫びながら親不孝を嘆くんや。だーれも止めることはできへんのや。』

『止めさせるなんて変な気を起こさんと早よあっちへ渡りや。もう行けるんやでぇ。』

平吉は何とかして救えないものかと再三頼んだが、全くとりあってくれませんでした。

諦めて鬼たちに背を向けてとぼとぼ歩きかけたところで、赤鬼が声を掛けてきた。

『方法は無いこともないんやで。』

青鬼が慌てて赤の口を塞いだ。

『おい、余計な事言うなよ。俺らえらい目に合うで。辞めさせられたら大変や。』

『けど俺らも見てて辛いやろ。青よ、お前もいつも何とかならんのかって言うとるやん。平吉やったな、あんたに出来るとは思わんけど、唯一あいつらを救えるのは地蔵菩薩様に頼んでここに来てもらって、あの子らを菩薩様の慈悲の力で救ってもらうしか方法ないねん。菩薩様は最も弱い立場の人を救済するお方なんや。あの方はお一人で娑婆世界とこの世界の入り口を守っておられるから、大変忙しいんや。俺らもまだお会いしたことないねん。』

青鬼の手を振りはずして答えた。

『娑婆世界が非常に荒れてて、お前らがおった世界や。戦争や殺人、事故なんかでいっぺんに大勢の人間がこの世界にやってくる。閻魔様も困っておられて、ご自分の分身である地蔵菩薩様に救済の命令を下されたらしいわ。わかるか?』

『わかったみたいやが、やっぱりわからんわ。とにかく地蔵さんに助けてもらえばええんやな。よう言うてくれた。お前ら悪い人間いや鬼様と違うと思ってたんや。』

『何が鬼様や。さっきはぼろクソに言うとったくせに。なぁ青よ。』

『ホンマや。調子ええ奴や。ただ地蔵菩薩様にお会いするのは奇跡に近いで。まぁ無理やろうな。諦めて見んふりしてあっちに渡った方がええで。お前がなんぼ頑張ってもどうにもならん事やと思うけどなぁ。』

『とりあえず閻魔さんはどこ行ったら会えるんや?』

『とりあえずって閻魔様を軽々しく呼びやがって。罰があたるぞ。場所はなぁ、地獄界やけど。けど行ったら戻って来れるかな?地獄はすごい所やぞ。先輩に聞いたんやけど、八つの地獄があってどれも苦しみばかりの所や。お前もこれからの裁判によっては地獄に落ちる可能性はあるで。』

『裁判?』

『そうや。お前のこの世界での行き先が裁判で決まる。七回あるんや。娑婆での行いによって、下は地獄から上は天上界まで6つの行き先が決まるんや。せやから娑婆に残った人が、「逮夜(たいや)」って言うてお前が天上界へ行けるように裁判の前の晩に拝むみたいやで。お前は普通で来てるからよっぽど頑張らんと天上界には行かれへんかもな。まぁ、地獄に行く確立も低いやろうからから安心してええで。』

と赤鬼が親切に教えてくれている。

『ふーん。そうなんや。そうか。悩むわ。』

平吉は腕組みしながらしばらく悩んでいた。

『ちょっと、ちょっと、お前待てや。何を悩んどるんや。変なやっちゃな。ややこしい事考えたらアカンでぇ。わしら忙しいんや。頼むから早よ向うへ渡れや。こっちの奴も一緒に連れていってもええから。』

青鬼は閻魔帳を剛造に向けて平吉に言った。

『よし!わかった。決めたで。乗りかかった船や・・・』

『船には乗られへんで。歩きや、歩き。』

赤鬼はタイミングのいい突込みを入れた。

『わかっとるわい。あんなに辛い思いをしとる子供らを黙って見過ごすことは出来へん。地獄でもどこでも行って閻魔さんに会って、地蔵さんを連れてくるんや。』

平吉は六文銭を差し出して走り出した。剛造も大きな体を無理やり平吉の体の陰に押し込んで走り去った。

『なぁ、青よ。ここも変わってきたな。若い人がよう来るようになってきたし、いっぺんに何万人も来ることもあるし、あんな変わり者もたまに来よる。』

『そうやで。おれ等こき使われてるでぇ、ほんまにぃ。今度閻魔様にお願いして労働条件の見直ししてもらおうや。過労気味やもんな、俺等。』


加代は公友社の小林と秋田との打ち合わせを始めていた。式場は?参列者の人数は?粗供養は?等々もちろん喪主を務めるのは初めてだったので、どう決めたらいいのかわからない事ばかりだった。早苗と二人で小林のアドバイスを参考に何とか形が見え始めていた。

『ところで、小林さん。お寺さんの事でおかしなこと聞きますけど、笑いません?』

加代は思い出したかのように小林に話し始めた。

『はぁ?おかしなことですか?ええ、もちろん笑ったりしませんけど。何ですか?』

『小林さんええ人やし、他言しないと思うし、勇気出して言いますわ。実はお寺さんが平吉、主人のインキン持って来なさいって言うてはるんですわ。それも裸でええさかいって平気で言わはるんですよぉ。どう思いますぅ?せっかく今秋田さんに綺麗に着せてもらってるのにですよ。ちょっと変でしょ?最初は私のイ・・、みたいな言い方やったんで驚いたんですが、聞いたら握って叩いてはったとか・・・(赤面)、どうしたらいいでしょうかね。』

『えぇ?インキンですか?それってひょっとしたら、これの事と違いますやろか?』

小林は平然と、お寺さんが忘れていった引磬(携帯用のおりん)を加代に差し出した。

『へぇー、これがインキンって言うんですか?さっき忘れて帰りはったんやねぇ。気付かんかったわ。それならそうとお寺さんもチーンて鳴るやつやって言うてくれはったらええのに。知らんもんやから、インキンて言うたらてっきりあのインキンかと思いましたわ。ああこれなんですね。ええ勉強になりました。小林さん物知りやね。』

『そんなことはないですよ。この仕事していたら、よく聞く名前ですから。普通お知りになってないですよ。専門用語ですから・・。わかりました。ちょうど帰りにお寺様にご挨拶に伺う予定ですので、私が責任持ってお届けいたしますよ。』

『そうですかぁ。ありがたいです。助かります。甘えさせてもろうてよろしいですか?』

『もちろん、いいですよ。秋田君、引磬をお預りしてください。ちゃんとお届けしておきます。ところで奥様、葬儀の受付はどなたにお頼みされますか?』

『どなたに頼めばいいんですか?』

『だいたいはご近所や町内会の方が多いですね。』

『わかりました。さっそくお願いにあがりますわ。教えていただいて良かったですわ。』

加代は小林達を見送って、早速隣の田川さんの奥さんに助けを求めた。大学生健太の母親で恭子さん。加代より若かったが、化粧ッ気のない大きな顔と、70キロは優に超えていようかと思われる体で、見るからに貫禄があり、年下には見えなかった。

『奥さーん?すんませーん。あっ今よろしい?実はねぇ、今朝主人が亡くなりましてぇー。』

『ホンマえらいことになりましたねぇ。健太から聞きました。奥さん頑張って看病してはったのに、残念なことですわ。お手伝いすることがあったら何でも言うて下さいね。そうそう奥さん何も食べてないんと違う?今朝の残り物しかないけど、良かったら上がって食べはりません?食べんと倒れますよ。』

(恭子さんならそうかもしれないけど)

『ええ、ありがとうございます。でも今は何も喉通りませんし、お言葉だけで十分ですわ。気を使って頂いてすみません。』

『いいえ、いいえ。せや、おにぎりでもしてお持ちしますわ。あっ、そうそうアンパンがありますわ。これでもかじって・・・』

『また、落ち着いたら食べますわ。すんません、失礼しました。』

『そうですか?食べて体力付けんと。これから大変ですからね。』

加代は恭子の一方的な食べ物の話ですっかり用事を忘れてしまい、帰りかけたところで思い出した。

『そうそう、肝心なこと忘れてましたわ。田川さん。受付はどうしますって葬儀屋さんに聞かれたんやけど、どうしたらいいんですか?』

恭子は去年まで班長をしており、町内会の事には結構詳しかった。

『ああ、受付ねぇ。わかりました。けどひょっとして今晩が通夜ですよね。そしたら町内会は出られへんかもしれませんわ。役員さん達の親睦旅行にさっき出掛けはりましてん。ウチのも行きましたんで見送りに行ってきて、帰ってきたとこですわ。1泊で白浜ですわ。せやけどどうしましょ?今晩と明日と受付せなあきませんもんなぁ。会長さんも行きはったし。』

『ええっ。ほなどうしたらいいでしょうね。どなたもおられなかったら頼みようがないですもんねぇ。』

『そうは言うても、なにせ今日がお通夜やからねぇ、何とか空いてる人集めますわ。最悪アカンかったら私と健太でしますから安心しといてください。今から早速頼んできますわ。おうちに連絡しますから、待っててくださいね。』

『お忙しいのにすみませんねぇ。私じゃ何もわかりませんので田川さんに頼るしかないんです。よろしくお願いします。』

『任せといてください。平吉さんにはいろいろお世話になってますねん。ええ人やったもん。奥さん。寂しいやろうけど、気をしっかり持って頑張ってね。ほな、行ってきます。あっ、これアンパン持って帰って下さい。』

無理やりアンパンを持たせて恭子は出て行った。他の人も自分と同じように、食べることに一日の三分の一の時間を使っていると思っているらしい。お節介だが現在では加代の頼みの綱であった。


しばらくして恭子が帰ってきた。やはり町内会の役員は全員出掛けたらしい。

『奥さん。あちこち当たったんですけど、やっぱり慣れた役員さんは誰もいませんでしたわ。それで、隠居しておられる山口さんとこのお父さんと、児玉さんと島田さんのご主人がそれぞれ定年でヒマしてはるからお願いしてきました。何とか人数はいけると思います。』

『ありがとうございました。朝からごめんなさいね。』

『いいえ、いいえ、お易い御用やわ。ところで、今からお茶するんですけど、ご一緒にどうですか?頂き物ですけど栗ようかんありますねん。』

『栗ようかんですか。大好きですけど、することがたくさんあるし、またよばれますわ。』

『うん。いつでも来てくださいね。それじゃぁ。』





平吉は長い時間川に浸かっていたが不思議と寒さは感じなかった。勢い良く走り出したものの、あたりは漆黒の闇ばかりで、方向さえわからなくなりそうでした。川なので流れを横切るように進めば向こう岸にいつかは着くのでまだ救いでした。向こう岸は一向に見えず、剛造と共に浅瀬とはいえ膝まで水に浸かりながら歩いていた。

不思議と疲れは感じなかった。もう何日歩いただろうか。腹もすけば食事の回数で一日がわかるが、ここでは空腹感も無く、朝日が昇ることも無いので全くわからなかった。

ようやくかなり遠くからだが、かすかなしゃべり声が聞こえてきた。耳を澄まして聞くとしわがれた老婆のような声が一番良く聞こえた。岸が近づいているのは確実で、二人は水を跳ね上げながら小走りで急いだ。

やっと声が聞き取れる所まで岸に近づいた。

『さっさと身包み脱いでしまえーっ。お前の罪が染み込んだ衣をなぁーっ。』

二人は立ち止まり暫く聞き耳を立てて様子をうかがっていた。

『おい、剛造はん。なんか追剥ぎみたいな奴がおるみたいやで。聞こえるやろ、身包み剥がされとるで。』

『うん、聞こえるな。この世界でも追剥ぎてあるんやな。』

『とにかく岸についてから考えよ。わしと剛造さんの二人おったら何とか逃げられるやろ。』

ようやく岸にたどり着いた平吉と剛造は、山に向かって歩き出している人(死者)に声を掛けて聞いてみた。

『ああ、あれは奪衣婆だつえばや。着ていた衣を衣領樹えりょうじゅという木に掛けて、罪の重さを枝のたわみで計るんや。わしは絹の軽い衣装やったし、ほとんどたわみが無かったんですわ。ひょっとして無罪放免で天界に行けるかもって言うてましたわ。ただし、もし枝が曲がるほど重かったら、即地獄行きらしいですよ。つまり、閻魔さんのお世話になるって事ですわ。おたくらこれからですか?ここは避けて通れないですよ。空いている内に早く済ませはったら?では私は次の裁判所に向けて旅しますわ。あっ、そうそう、持ち物もここで没収されますよ。隠しておくなら今でっせ。それではええ旅を祈ってます。』

『そうですか。ありがとうございます。ええ所行きなはれや。』

平吉は手を振って見送った。

『おい、大丈夫か?わしら。何かやばい結果になりそうな予感やで。』

剛造は話を聞いていて、横から肘で小突きながら平吉に耳打ちした。

『わしは悪いことしてなかったさかい平気や。お寺にもよくお参りしてたし、人に迷惑も掛けてない。罪なんかあるわけない。』

そう言いながら平吉は辺りを見渡して奪衣婆の居るところを探していた。

『・・・・・・』

ふと平吉は黙り込んで元気のない剛造に目をやった。

『どうかしたんでっか?ひょっとして落ち込んでない?似合いまへんで、アンタはそんなキャラやないでしょ。』

『あのなあ、見た目で決めんといてや。わしなぁこれまで、自慢やないけど裁判とかで勝ったためしないねん。娑婆ではアンタみたいに善人やなかったし、きっと重いやろな。地獄行きは間違いないなぁぁ。』

剛造は深くため息をついて空を見上げた。

平吉は腕組みをして、剛造の話を全く無視して考え込んでいた。

『アンタ、おい平吉さん。人の話聞いてんのぉ?わし、地獄行き決定やろなぁ?なぁーって。』

平吉は剛造に肘で小突かれて我に帰った。

『えっ、ああ、何?地獄行き?剛造さんが?うん、まぁ、間違いないやろうな。』

『せやろ?やっぱりなぁ。どうあがいてもアカンわなぁ。』

しかし、平吉がニンマリして剛造の大きな肩をポンと叩いて、

『そう、クヨクヨしなさんな。柄でもないでぇ。そんなん剛造さん、やってみないとわかりませんよぉ。でねっ、剛造さん、折入ってお願いがあるんですが、聞いてくれますか?』

『同情してもらっても結果は変わらへんわ。で、何ですか?』

『実は、衣装を私のと交換してくれませんか?』

『何やて?交換?』

剛造は目を丸くして尋ねた。

『くわしい事は後で。とにかく今すぐ交換してください。』

『これは何かたくらみありそうやな。まっええわ。わしは今以上悪くなることはないからな。ほなはい、これ。』

『はい、剛造さんはこれを着てくださいね。』

平吉も自分のを脱いで剛造に渡した。

『よっしゃ、これでええかな。それにしても平吉さんのは小さいなぁ。まるで子供の衣装みたいや。』

平吉は剛造の腰辺りを指差して、

『あんたがでかすぎるんや。すべてな・・・』

『これか?これも娑婆では随分役に立ったけど、ここでは宝の持ち腐れやなぁ。それと、お金仰山持ってきてるけど、全部没収さてるって今言うてたな。どっか隠さなアカンけど・・・。せっかく持ってきたのに取り上げられてたまるかいな。』

『それは、剛造さんの「お宝」と一緒に隠したらどうですか?そこまでは調べへんやろ。早よしいや。向うから役人みたいなちっさい鬼がわしらを連れに来たよったで。』

剛造は急いで有り金全部をふんどしの中へ仕舞い込んだ。


やがて平吉たちは脱衣婆のところに連れて来られた。

『全部脱ぐんやで。後がつかえてるんやから早よしいや。』

しわがれた聞きにくい声でしゃべっていた。よく見ると奪衣婆は、やはり黒く醜い鬼顔で婆さんだけに角は短かったが・・・。目は小さく窪みがかなりある奥目だったが、眼光は鋭く赤く輝いていた。よれよれのくすんだ色の衣をまとい、手足は細くまさに骨と皮だけだったが、脱がせた衣を力強く掴むと懸衣翁(けんえおう)という同じような顔をした爺さん鬼に渡して、衣領樹という木に掛けてもらって、しなり具合を見ていた。

『甲やな。名前は?』

懸衣翁は剛造に低い声で聞いた。

『若林剛造です。でっ、甲ってなんですか?』

剛造は不自然な「内股」で答えた。例のお金をすばやくふんどしに隠したらしい。

『甲は甲・乙・丙の甲や。罪が軽いクラスや。まぁ、地獄行きはないな。閻魔様とかの後の審判結果によるけど、上の方には行けるやろな。』

『ホッホッホンマでっか?夢みたいや。このわしが地獄行かんでもええんや。』

懸衣翁は口から青白い火の玉を吐き出して、それをはるか闇の中へ吹き飛ばした。これが次の裁判の判断材料になるもので、現在のファックスの様に次の管轄所に送信した。

『はい、次は?』

『よろしゅう、たのんます。ところで、今 閻魔さんって言いました?閻魔さんにはどこに行けば会えるんですか?』

平吉は場所に似合わない造り笑顔で懸衣翁に尋ねた。

『後がつかえてるんやで。名前は?何て?閻魔様?閻魔様は閻魔王庁にいてはる。』

『その閻魔王庁はどこにありますの?』

『アンタさっきからうるさいな。黙って早よ脱ぎいや。閻魔王庁かいな?閻魔王庁は地獄の須弥山(しゅみせん)の麓にあるで。名前は?』

『平吉って言います。野田平吉です。』

平吉は着ていた剛造の衣装を脱いで、奪衣婆に渡した。剛造は平吉の衣装を着ていたが、相変わらず股間を気にしながら内股で成り行きを見守っていた。

『アンタは丙や。はい次。』

衣領樹に掛けられた平吉の衣装は、地面に着くほど枝をしならせていた。それを見て懸衣翁は無愛想に言った。


『わからんな。何でや?』

剛造は平吉に駆け寄って言った。

『詳しい説明はあとでな。とりあえす、先を急ぐからアンタはそのまま行ってや。』

平吉は剛造を見る間も惜しんで懸衣翁より受け取った衣装を身に着けながら言った。

『そんなんしたら平吉さんは、わしの代わりに地獄で閻魔さんに・・・・! ん?ちょっと待ってや。そうか、わかったで。そうなんや。アンタってすごい人やな。けど、アホやなぁ。ほんま、考えられんわ。しかし、こうなったからには頑張ってや。陰ながら応援してるで。』

剛造は平吉の手を両手でしっかり握り、唾を飛ばしながら感激していた。

『応援してくれるんなら、アンタが隠している例の物、渡してくれる?』

平吉は真近にある剛造のごっつい顔から、自分の顔を遠ざけながら剛造に下半身をチラチラ見て目で合図した。

『よっしゃ!何でも持って行ってや。あんたのおかげで地獄行きを免れたわけや。こんなんで済むんならお安いこっちゃ。』

剛造はふんどしの隙間からお金を取り出して

『はいこれや。手ぇ出して。』

『ちょっ、ちょっと待ってや。手で直接はなぁ。今ふんどしから出したやつやろ?まだ温かいやろ?何か気持ち悪いなぁ。』

『何が気持ち悪いねん。お金に変わりないで。それに、俺ら死んでるんやから温かくないで。

ほれ、早よ見付らんように受け取ってや。』

『しゃーないな。はい、確かに受け取りました。ほなこれ使わしてもらうで。急ぐから先に行くけど元気でな。ええとこ行ってや。』

剛造は妙に清々しい笑みを浮かべて手を振っていた。平吉は譲り受けたお金を懐に入れて、川と反対方向に走り出した。





平吉は方向もわからないまま、とにかく誰かに会って閻魔王庁への近道を聞こうと進んでいると、明かり一つ無い闇の中に白く光っている洞窟があった。近づいてみると意外と広く中は岩肌そのままで、壁面には青白い火の玉が六ヵ所に浮かんでいて明るく照らしていた。壁面の下には腰の高さぐらいの平らな石の上にいろんな巻物が置いてあった。「地獄・極楽ガイドマップ」とか「鬼卒への昇進試験攻略本」「解説付き地獄百景」とか書かれた布が吊るしてあったので、どうやら書物を売っているみたいだった。平吉は何気なく中を見渡して、

『これ、みな売ってるんですか?』

平吉は入り口の隅に四角い石に腰掛けて、こちらを無愛想に見ている赤鬼に尋ねた。

『そうや。立ち読みはアカンで。返品も受付へんで。買うんか?買わへんのやったらそこは入口で邪魔やからあっち行ってや。』

『お金いるんですか。川渡る時払って来てるからお金持って無い場合どうするんですか?』

『そうや。ここは普通お前らみたいな死出の旅人は来んのやけど、アンタは何で来たんや?それにお金持ってないんやろ?』

店番の鬼が立ち上がって平吉を見下ろしながら詰め寄ってきた。

『お、お金ならありますよ。ほら、ここに。ね、落ち着いて下さいよ。』

平吉は赤鬼をなだめて座らせてから、改めて尋ねた。

『どんな人が買いに来るんですか?』

『人と呼ぶかどうかは知らんけど、天上界の方から来た方とか、ワシらみたいな役人や。』

『そうなんや。私らみたいなんは珍しいんや。』

『そうや、初めてや。死出の旅は流れが出来てるから、はぐれる事無いからな。』

『そうですか。まぁ、ややこしい事は抜きにして、閻魔王庁の場所がわかる地図か案内書みたいなのありますか?』

『なんや、買うてくれはるんかいな。毎度おおきに。ってのはおかしな言い方かな。それはな、この「地獄マップ 須弥山」の中に書いてあるわ。』

赤鬼は横に置いてある巻物の一つを取って言った。

『それなんぼですか?』

『二文や。最近須弥山も賑わってて、よう売れてんねん。在庫はこれが最後やで。』

『買う前に中身を見て確かめたいねんけど、見てもいいですか?』

『それはアカンな。中を見たら買うてもらわんと。どうする?やめとくか?』

『んー、どうしょう。買うても初めての場所やからわからんかったらアカンしな。けど、無かったらわからへんし。悩むなぁ。』

『どうするんや。買うの?買わへんの?どっち?』

『ちょっと待ってや。なんぼあるか見てみるわ。んーとイチ・ニィ・サン・・・・・』

平吉は赤鬼に背を向けてお金を数えていた。赤鬼は立ち上がると平吉よりかなり背が高く、肩越しに覗き込んでいた。

『結構持ってるな。えーっ五十文もあるんかいな。ほな安いもんや。買うやろ?』

しばらく考え込んでいたが、思い切って平吉は答えた。

『わかった。もらいますわ。』

『へい、毎度おおきに。』

赤鬼にお金を渡して手に入れた須弥山の地図を早速広げてみた。

『えーっとこれやな。えらい細かい絵が書いてあるな。明るいとこでないとわからへんな。ちょっと火の玉貸して。』

平吉は鬼に火の玉を近くで出してもらって、改めて地図を見た。

『おい、ちょっと、これアカンで。こんな字読めへんやろ。これどこの国の言葉や。』

『それか?それは古い仏教の言葉で「サンスクリット語」って言うんや。この世界の者はみんな読めるで。あんた読めへんの?』

『読めるわけないやんけ。それならそうと早よ言うてくれな困るで。返すわこんなん使われへん。ちゃんと平仮名かカタカナで書いてるやつ無いのん?』

『返品はええけど、お金は返しませんで。最初にアカンって言うてたやろ。それに在庫はこれだけや。他はないで。』

『今 ちょっと見ただけやん。あんたも見てたやろ?全部もまだ見てないのに、返品や返品。お金返して。』

『アカンって言うてるやろ。聞こえてへんのんか?』

『詐欺みたいやのぉ。そんならみんなに言うてきたるぞ。おーい、ここは詐欺師の店やから買うたらアカンでーって。』

『言いがかりやで。おい、アンタ。素行が悪いなぁ。裁判の役人に報告するで。』

『せやかてどうしても閻魔さんに会わんとアカンね。閻魔王庁に行きたいんや。何とかしてくださいよ。たのんますわ。』

『なんぼ頼まれてもアカンもんはアカン。』

赤鬼は平吉の言葉には全く耳を貸さず、また座り込んでいた。

『頑固な奴やな。そしたら、そのサンタクロース語か何か知らんけど、その言葉解るようになる辞書か何かないんかいな。』

『あるで。サンスクリット翻訳辞典。』

『お前最初から計画的やったんとちゃうか?卑怯やぞ。足元みやがって。それいったいなんぼやねん。』

『これはちょっとするで。八文や。買うか?』

『買わな地図読まれへんのやろ。きつい商売しとるな。』

『お前らがおった娑婆では「地獄の沙汰も金次第」って言う格言があるんやろ?知らんかったんかいな。』

『お前が言うな!よけい腹が立つわ。ところでこれはわしらがわかる言葉で書いてあるんやろなぁ?』

『もちろんや。漢字で書いてあるで。』

赤鬼は人間の片手では持てそうにない程の大きな辞書を平吉に手渡した。

『ほな、しゃぁーないなぁ、ほれ八文。』

『毎度ありー。』

『これは重たい本やな。辞典見ながら地図見るの大変やのぉ。けど、しゃぁないわ。どれどれ、見やすい辞典かいな。』

平吉は辞典を広げたが、見るなり顔を真っ赤にして地団駄ふんで悔しがった。

『漢字ばっかりやーーっ。お前、また騙しやがったな。これ中国語とちゃうんかい!』

『内容は知らんで。漢字で書いてあるやろ?ウソは言うてないで。』

赤鬼は涼しげな顔で言い放った。

『そうかい、わかったわい。ここでは誰も信用出来へんっちゅうこっちゃな。こんな読めん本いらんわ。神も仏もおらんのか。ホンマに。』

平吉は店番の赤鬼に本を投げつけて真っ赤になりながら悔しがった。

『お前なぁ、ここをどこやと思っとるんや?ジ・ゴ・クやで。地獄の入り口やで。神や仏はずーっと上の方や。残念でしたな。』

赤鬼はみごと騙し取ったお金を傍らに置いてある骨壷のような入れ物の中にチャリンチャリンと入れて、平吉が投げ返した本をニヤッといやらしい笑みで受け取り、元の場所に並べていた。

成すすべも無く平吉はうなだれて外に出た。

『この先どうなるんやろ。わし一人で出来ることなんかしれてるしなぁ。全く情けないわ。ホンマに。いったいどっちに行けばいいんや。全くわからへんわ。』

空を仰ぎ見てもただ闇ばかりで、平吉は冥界に来て始めて孤独と絶望感に包まれていた。






その頃加代は通夜を迎えていた。親族や町会、平吉の仕事仲間やお得意様が集まって、にぎやかな通夜であった。

場所は近所の集会所で、中は平吉を安置した祭壇を中心に多数の人たちが入って、身動き取れない状態でした。開始時刻の十分前になり西方寺住職が到着し、準備はすべて整った。

しかし、受付では慣れない対応で右往左往していた。

『児玉はん、ちゃんと香典帖に書いてもらわな困るで。これ、歯抜けになってるやん。抜けてる番号があったらアカンねん。どこかに紛れてないか探さないとあきまへんで。粗供養もここで渡すんやから、渡し漏れが無いようにしてな。ほんで・・・・・・・・。』

そのうち時間になり住職が鳴らすリンの音で、通夜が始まった。

加代は今朝平吉が亡くなってからの一日を、聞きにくいお経と木魚の音をBGM替わりに振り返っていた。時たま鳴るリンの音にふと我に返ったりしながら・・・・・。

 (はぁーっ、なんや夢見てるみたいや。今 平吉のお通夜してるんやなぁ。こんなにぎょうさん来てくれはって、アンタも結構顔広かってんや。ウチ、ちょっと惚れ直しましたわ。元気にしてはる時は難しい人やったけど、これからは張り合いが無くなるやんか。せや、早よ死んだ罰として、ウチはこれから好きなことさせてもらうで。ひょっとして彼氏出来たりして・・・・へへ。)

加代があらぬ空想をし始めた時突然騒がしくなって、加代はニヤけた口元のヨダレを拭いながら周りを見渡した。

平吉の古くからの友達で、「憲ちゃん」と平吉が呼んでいた、野澤憲次が仰向けになってアワを吹いていた。住職は聞こえないのか無視しているのか平然とお経を続けていたが、中に坐っていた者はみんな憲次を囲んで心配そうに覗き込んでいた。参列していた伊藤医師が、どこにでも持ち歩いている往診鞄の中から聴診器と懐中電灯を取り出して診察していた。

『動かしたらアカンで。大丈夫やから。心配せんでいいからな。だれかこの人の知り合い居てへんか?おお、あんたか。てんかん持ちやったんか?ふん、そうか。わかった。』

『先生、どないですか?治りますか?』

『うーん、ここでは十分に診察出来へんけど、たぶんてんかんやろ。』

加代は伊藤の傍から心配そうに見ていた。

『かんてんですか?たくさん食べはってんねぇ。ひっくり返るほどやもんね。よっぽどお好きやったんですねぇ。ウチはこんなになるまで食べられへんわ。』

伊藤医師はいつもなら加代にちゃんと教えていたが、今回は無視した。いっこうに痙攣が治まらなかったからだ。

口にタオルを押し込んで舌をかまないようにしながら、痙攣の治まりを待っていたが、長く続いた。危うい事態に伊藤医師が救急車の手配を頼もうとした時、急に憲次が喋りだした。

『加代、加代、加代、どこや?加代、どこにおるんや?』

それまでの痙攣がウソみたいに治まって、憲次は横たわったまま加代の名前を呼び続けた。

加代は伊藤医師の指示で憲次の手を握りながら語りかけた。

『はい、ここに居ますよ。アンタなん?平吉さんか?ウチはここでっせ。そばに居てまっせ。』

憲次は加代の言葉に大きく頷いて、すーすー寝息を立てて眠った。ところが加代には突然平吉の声が頭の中から聞こえてきた。さっきの賢次の声ではなく、間違いなく平吉の声だった。

『加代か?良かった。お前に会えて。憲ちゃんの手を握ったままで聞いて欲しいんや。絶対放したらアカンで。放したらここにおられへんからな。そしてしゃべったらアカンで。思っただけで通じるから。』

『はい。』

加代は平吉の言うとおりに、賢次の手を握りしめながら心の中で答えた。

『今わしは地獄の入り口におるんや。』

『えーーっ?』

地獄という言葉に加代は思わず手を離しそうになる位驚いた。

『何で、アンタが地獄に行かなアカンの。何にも悪い事してないやん。』

『これには深いわけがあるんや。話せば長いから後で説明する。とりあえず今から言う事を、よー聞いといてや。』

加代は憲次の手を握りながら目を閉じている。周りの人たちは成り行きを見守っているしかない状態であった。

『わかりました。ちゃんと聞こえてるから。』

『今からお前をわしの居る所に連れて行く。』

『えーーーっ?』

更に加代は驚いた。見守っている人達は、加代が何度ものけぞるので、何か悪い物が憑いたんと違うか?とかザワザワと口々にしゃべっていた。しかし、住職は変わりなく読経を続けている。

『そんなに驚かんでええで。こっちへ来るって言うても、お前が死ぬわけではないんや。お前の魂が抜けてくるだけや。』

『そんなん、死ぬのと一緒と違いますのん?』

『違うで、お前の魂が抜けても、体はちゃんと生きてるんや。そして、お前が何年こっちに来ていても、娑婆ではほんの一瞬やねん。刹那(せつな)って言うらしいわ。だから他の人は全く気付かんうちに体に魂が戻ってるから何の心配もないんや。安心してこっちにおいで。』

加代は平吉の言う事に心を傾けて、一生懸命理解しようと努力した。しかし、突然地獄やら、刹那やら魂やら言われても、なかなか理解できなかった。

『アンタの言うことやから間違いないと思いますけど、突然なんでどうしたらええかわからへんわ。そもそも何でウチがそっちへ行くのん?』

『そうやな、理由を言うてなかったな。せやけどこのままゆっくり説明も出来へんから、こっち来てから言うわ。簡単に言うと人助けや。困ってる子供らの魂を救う為や。』

加代は決断した。やっぱり平吉は悪い人間で地獄へ行ったんやない。人の為によっぽどのわけがあるんや。と理解した加代は、

『わかりました。ウチで役に立つんなら、例えこのまま死んでもええよ。アンタと一緒におれるんなら安心や。で、どうしたらええのん?』

『すまんな。こんなこと頼んで。こっちへ来たらゆっくり説明するわな。そしたら、お前はそのまま目をつぶってたらええ。もうじきわしの手が見えてくるから、その手につかまってたらええ。引っ張っていくから。』

加代はこうして平吉がいる冥界へと旅立っていった。





加代は平吉の手に導かれて冥界に入った。そこは想像していた地獄とは全く違っていた。加代は少し古びてはいるものの民家の土間に立っていた。農家の家みたいに広い土間だった。そして加代の視界に一番早く飛び込んできたのは、土間に面した部屋で囲炉裏の火に手をかざしている平吉の姿だった。

『アンタ!生きてたんやね。』

そう言うが早いか、加代は平吉のそばに駆け寄り、平吉の背中に抱きついた。

『加代、会いたかったで。相変わらず元気そうやな。よう来てくれたな。ありがとうな。』

そう言って、平吉は肩に乗っている加代の手を取り、加代のほうに向き直った。

『けど、正確には俺は生きてないんやで、死んでるんや。冥界やから生きてるけど・・・・。なんかややこしいな。とにかくあの世に来たんやけど、することが出来てな、まだこうして中途半端になってるんや。』

涙で濡れた顔を袂から出したハンカチで拭いながら

『わけはゆっくり聞かせてもらうけど、それよりここは誰の家?こんなところに家があるて聞いたことないで。アンタ、まさかええ人出来て、世帯持ってるとかや無いやろね。』

『そんなヒマないわ。アホらしい。けど、一人では住んでない。二人で住んでるねん。』

『ほれ、やっぱり女の人と住んでるんやね。アンタの女癖は死んでも治らんって、よう言われてはったけど、その通りやね。』

『まぁ、生きてる時には苦労かけましたな。よう辛抱してくれました。おおきに。』

『礼を言うてる場合と違いますやろ!ちゃんと説明して下さいな。』

『ああ、そうやった。実はこの家はわしのやねん。驚くのも無理ないけどな。わしが死んで今までかなりこっちで苦労したんや。お前らの世界ではわしが死んであまり時間が経ってないと思う。せやけどこっちでは時間の感覚が無いからはっきりわからへんけど、かなり月日が過ぎてると思う。せやから話せば長いんや。まぁ、座り。お前が思てるような事ないから安心しい。今からゆっくり話するから。実はな・・・・・・・・・。』

平吉は加代を囲炉裏の前に座らせて、これまでの事を話し出した。






平吉は騙された本屋をあとにして、とぼとぼ方向がわからないまま歩き出した。先のことを考えていたが、真っ暗な冥界で聞く人もおらず絶望感で元気なく足を引きずっていた。かなりの時間歩いていたが、須弥山や閻魔王庁の手がかりは全く見つからなかった。通り過ぎる死者たちは、次の裁判の場所へ無意識に導かれている為、迷う事無く歩いて行けるが、平吉は自ら地獄へ向かっているので方向すらわからないでいた。右も左もわからない状態で、長時間彷徨っていると、どんな人間でも自虐的になってしまい、目的も使命もすべてどうでもよくなってしまうものであるが、平吉も類に漏れず目的など、どうでもよくなってきていた。

『いったいわしはここで何をしてんねやろ?黙って流れに乗ってたら今頃ええとこで酒飲んでべっぴんさんの顔見て美味しい料理でも食べられたやろうに、ホンマあほやったわ。あの時子供らさえ見んかったら良かったのに。あーぁ、もう死にたいわ。』

そんな時、平吉は遥か下に火山の様な燃え盛る炎が見える崖の上に立っていた。自虐的になっていた平吉は、そこから下に見える炎に向けて躊躇なく足を踏み出した。はるか下は、まさに地獄の炎だった。あっと言う間に平吉は地獄の炎へ向けて吸い込まれていった。


しかし、ここは冥界である。一度死んだ者が、もう一度死ねるわけがなく、平吉は炎に突っ込み苦しい熱い思いはしたものの、夢だったたかのように突然また元の場所に立っていた。何度か試みたが、結果はすべて同じであった。何度も試みる内に、平吉は落ちながら周りを見渡す余裕が出てきた。よく見ると、下にはボロボロの着物を着て、鬼の番人に逆らうことも出来ず嘆き苦しんでる亡者がたくさんいた。地獄に落ちるって言うのは、結局死ぬ事も許されず、過酷な試練を繰り返し繰り返し永遠に続けなければならない事であった。特に自殺した者は死ぬより苦しい思いが課せられる。

平吉はまだ地獄へ行くことさえも許されていない、冥界では中途半端な存在であった。そこにそんな平吉の様子をずーっと見ていた人がいた。正確には人ではなく鬼であったが、平吉に興味があるようで実は三途の川を渡った時から平吉の後ろを気付かれないように付いてきていた。平吉は誰かに見られているとは夢にも思っておらず、死ぬことも出来ない不憫な自分の境遇に絶望していた。

見かねたその鬼がしばらく考えた後、平吉の近くへ歩き出して、そして声を掛けた。

『もしもし?』

平吉は孤独からとうとう幻の声まで聞こえてきたのかと振り向きもせずうなだれていた。

『もしもーしっ。』

今度ははっきり聞こえた。

『誰や。わしに何か用か?』

平吉は振り返り声のほうへ歩き出した。

『あんた、困ってはるやろ?どや?助けたろか?』

『アンタいったい誰や?声は聞こえるけど姿は見えへんで。』

『ほなこれでどうや?』

鬼は火の玉を口から吐き出して自分の顔を照らした。

『何や、鬼か。また騙しに来たんか?わしを困らしておもしろいか?』

『騙しに来たんやないで。助けたろか?』

『お前らに助けられた日には、天と地がひっくり返るわ。』

『そうや、それええ方法やん。ひっくり返ったら、わしら上におるから神様になるやん。ひっくり返して。』

『何でもええけど、お前らに構ってるヒマないねん。あっち行って。』

『けど、困ってるんやろ?助け欲しないか?』

『欲しいけど、鬼は信用出来ひん。もう騙されるのはごめんやさかい。』

『うちは騙さへんよ。逆に助けたろって思ってるんやで。わたし姿はこんなんやけど、元々人間やってん。名前は和子って言います。』

『ほら、もう騙してるやないか。何が「和子って言います」やねん。和子って女の名前やで。お前はどうみても男やろ?ええっ?今気が付いたけど、鬼には性別ってあるんか?女の鬼っておるんか?』

和子と名乗る鬼は、娑婆でたくさんの人間を騙し、多くの人を不幸のどん底や自殺へと追い込んでいった罪で交通事故で亡くなったのちに地獄へ落とされたのだった。冥界に来ても人を騙すクセは治らずに、鬼たちを騙しては地獄へ行くのを何とか助かろうとしていた。しかし、閻魔様がそれを許すはずもなく、地獄の最下層まで落とされてしまった。そこは重力が百倍以上も働く究極の場所で、立ち上がることも出来ずに這いつくばったまま灼熱や刃の雨、針の地面を鬼に鞭打たれながら永遠に苦しまなければならない最悪の場所だった。和子はさすがに諦めかけたが、悪知恵は滅びず鬼たちを騙したり、色仕掛けでせまったり、あらゆる手を使ってこの冥界まで戻ってきたのだった。

閻魔様もこの不祥事に烈火のごとく激怒し、関わりのあった鬼たちを全て殺した。和子は姿を変えて閻魔様から逃れるために、親しくなった鬼の子を身ごもりそして生まれたばかりの鬼の子を喰らって今の鬼の姿に変えたのだった。そして和子は閻魔様からの追跡は逃れたが、二度と人の姿には戻れなくなった。

鬼の姿になった和子は、なぜか醜い姿とは正反対の美しい心を持つようになった。自身の醜い魂が姿として表に出ることによって、心の中に残された慈愛の念が和子を仏の気持ちを持つ鬼に変えていた。そして和子は自主的に閻魔様に申し出て、今まで犯してきた数々の罪をお詫びし、自ら極刑を願った。閻魔様は和子の改心にいたく感銘し、裁きとして永遠に冥界に留まり今までの罪を償う為に、鬼の役人たちを監視して不正をなくす事や迷う死者たちを正しい道へ導く事を命じられたのだった。

『そうなんか。しかしまぁ、何と醜い姿になったものやなぁ。声もそうやが、鬼の中でも最悪の不細工な顔やな。』

『そんな無茶苦茶言わんといて下さい。自分でもそれはようわかってます。人間の姿やった頃は結構美人て言われてモテたんですよ。』

『せやから、いろんな人を騙せたんやな。美人は得やな。』

『今となっては自分の過去が恥ずかしいです。』

平吉はいろいろ和子の話を聞き、閻魔様のイメージがかなり良くなってきた。そして次第に和子に親近感を覚えた。

平吉は今までの自分の状況を話してみた。

『やっぱり平吉さんはええ人やね。賽の河原で変わった衣装の人が迷い込んで来たって聞いて、ずーっと見てたけど、こんなとこに来てそこまで人の為に動く人なんていないわ。』

『わしもあの子供等の姿を見るまでは、全然そんな気は起こらんかったけど、見てしまったら黙って見過ごすことは出来へんようになったんや。何とか協力してくれるか?』

『協力はするけど、地蔵菩薩様に会った事ないし、どこに居られるかも皆目検討もつかへんわ。やってみないとわからへんけど、かなり難しいやろうね。』

『それはわかってる。けどここまで来た以上後には引けへんのや。無理を承知で頼むわ。』

『わかりました。全力で会える方法探してみるわ。とりあえず閻魔王庁に行って閻魔様に聞いてみる?』

『ホンマか?閻魔王庁へ行くのにさんざん苦労したけど、そんなに簡単に行けるんか?』

『簡単やないよ。何百も山を越えて行かなあかんし、須弥山に着いてもすぐに会えるとは限らへんよ。アンタ、覚悟は?』

『さっき言うたように、もう後には引かれへんし、今はとにかく前に進むしかないねん。』

『わかった。そしたら早速行こか?』

こうして平吉は和子と須弥山へ向けて旅立った。





ここまで加代に話したところで和子が帰って来た。加代は死んでないのでまだ鬼の姿は見えない。見えなくて幸いかもしれない。見えたらあまりの恐ろしさに腰を抜かすどころの騒ぎではなく、もし見えてしまったらその場で冥界から娑婆に帰れなくなってしまう。つまり本当に死んでしまうのである。

『今話してた和子さんが帰ってきた。お前には姿が見えへんやろ?今お前の前に立ってはるで。』

『そうなん?主人がお世話になってます。加代って言います。この人難しい人やからお世話大変でしょう?何かご迷惑掛けてませんか?』

『おい、おい、まるでこちらの世界の愛人に挨拶してるみたいやないか。和子さんとは全然そんな事ないで。姿見えへんから言えるけど、見たらそんな言葉出えへんぞ。とにかく恐ろしい顔してはるんやから。』

『あんた、なんぼなんでもそんな失礼な言い方アカンで。和子さんは過去はどうであれ、今は綺麗な心を持った女性なんやから。なぁ。』

和子は加代にやさしい言葉をかけてもらい、気恥ずかしそうに答えた。

『はじめまして。奥さんですか。ありがとうございます。気遣っていただいて感謝します。ウソでもうれしいですわ。けどホンマ綺麗な方ですね。平吉さんのような素晴らしい人やから、やっぱり美人の奥さんがお似合いですね。』

『美人やなんて。和子さん目悪いのんとちがいますぅ?シワも増えたし、それにもうウチおばあちゃんですもん。褒めてもらっても何もでませんよぁ。』

加代はまんざらでもない顔で、うれしそうに答えていた。

『ところで和子さんはどこに行ってはったん?』

加代は見えない和子の方へ話しかけた。

『はい、閻魔王庁から帰ってきたんです。今、閻魔大王のお慈悲で訪れる人の案内係やらしてもらってます。』

『今聞いてたら閻魔王庁ってすごく遠いんでしょ?和子さんはここから通ってはるんですか?』

『はい、通ってますよ。閻魔様から「通い手形」を頂いていて、これを持っていると「閻魔風」っていう風に乗れて、あっという間に王庁に着くんです。帰りも同じです。』

『へぇー、風に乗るって何かメルヘンチックやね。閻魔さんのイメージとちょっと違うけど。それに閻魔さんて実在の人物なんですねぇ?子供を怖がらすための大人が作った空想の人物と思ってました。平吉さんから聞いてビックリしてたんです。』

『はい、とても偉大なお方です。娑婆でのイメージと全然違いますよ。』

『ところで、和子さん。ウチの人とはこちらの世界でどんな暮らしをしてるんですか?』

声は低くとても女性には思えないし、見えない姿も平吉からおぞましい姿だとは聞いていたが、加代は気持ちは女性という点でやはり一番気になる事を和子に尋ねた。

『こちらでは奥様には申し訳ないですが、平吉さんの身の回りのお世話をする事でここに住まわせていただいてます。もちろんそれだけですので、ご安心下さい。と言うても、姿が見える平吉さんが私を見て変な気持ちになるとは到底思えませんし。奥様に私が見えたらとても冷静に私と話は出来ないと思います。見えなくて良かったです。』

『そうですか。でも何でそうなったんですか?』

『ほな和子さんから話してくれるか?出会ってからすぐ須弥山へ向かったところまで話ししたんや。』

『はい、私からお話します。ではその続きですが・・・。』






平吉と和子は何百もの山を越えて須弥山へ向かった。途中たくさんの関所を通り、その都度鬼の番人にいろいろ尋問されたが、すべて和子がうまく説明してくれて、なんなく通ることが出来た。平吉一人では間違いなく先へ進めなかったはずだったが、和子がうまく切り抜けてくれてようやく須弥山の近くまで来た。

(注釈 須弥山〔しゅみせん〕とは仏教世界での中心にあり、高さは約132万Kmでコップを伏せたような形をしていて、周囲も約130万Kmある。須弥山は三層の円のほぼ中心にあり、下から風輪〔ふうりん〕・水輪〔すいりん〕・金輪〔こんりん〕と呼ばれている。それぞれ太陽系ほどの大きさを持ち、人間界はこの金輪にある4つの島の内、南にある閻浮提えんぶだいにある。「金輪際こんりんざい」という言葉は金輪の端を意味し、これ以上は無いという意味から打ち消す言葉として使われている。須弥山の中腹には持国天じこくてん広目天こうもくてん増長天ぞうちょうてん多聞天たもんてんの四天王という言葉の語源である四大天がいて、さらに頂上には三十三天がいて一番上に帝釈天の宮殿があるとされている。頂上の少し上の中空には悟りの少し手前の「有頂天」とよばれる領域がある。)

閻魔王庁は須弥山の南側にあり、深い朱色の直径十メートルはあろうかと思われる2本の太い柱に挟まれて、同じく朱色の先がかすむ程の高い重厚な門が入り口だった。王庁自体の大きさは見た目ではまったく端が見えないほど大きく、いかにも閻魔大王という大きな人物の館という風貌であった。建物の周りには誰もおらず、不気味な静けさの中にたたずんでいた。

『どうやって中に入るんや?』

平吉はあまりの大きさに固まっていた。

『もうちょっと待ってたら門が開く。』

和子は一度訪れたことがあるので平然と答えた。

しばらく待っていると、背後の闇の中から急に数百とも思われる死者達が門の前に現れて、一斉にきれいな行列ができた。平吉と和子は王庁の前にある巨石の影に隠れた。するとあの大きな門が、冥界中に響き渡るような大きな軋むような音と共にゆっくりと左右に開きだした。なんと門を開けていたのは、平吉の膝よりも低い青と赤の2匹の小さな鬼だった。

『なんと力の強いチビ鬼やのぉ!さすが閻魔さんの王庁やな。あれが門番なら閻魔さんてどれだけの力持った人なんやろなぁ。』

『しーっ!黙って!閻魔様は並のお方やないで。それより見てみ、ここに来る死者はみんな神妙な顔付きやろ?どんな判決が出るか今から心配してるんや。アンタは地獄行きがほぼ決まってるみたいなもんやから、開き直ってるけどな。』

『なんでや?みんなここに居るっちゅう事は、地獄に来た人等とちがうんか?』

『アンタ声が大きいわ。見つかるやんか。並んでる人らは、5回目の裁判の判決を受けに来ているんや。最後の審判で天界に行く死者も中には居てるかもしれへんで。』

和子がしゃべっているのに平吉は並んでいる列を目を凝らして見ていた。

『あっ、剛造さんや。剛造さんが並んどるで。ちょっと行ってくるわ。』

岩の陰から飛び出ようとする平吉を和子は必死で腕をつかんで止めた。

『アンタ!何するねん。アンタが今ここで番人に見つかったら、大変なことになるで。アンタ1回も裁判受けてないやろ?普通はいきなりここに来れないんや。みんな5回目の裁判に来てるんや。アンタがここに居ることで閻魔様にウソをついた事になるんやで。今は辛抱しといて。』

平吉は和子の鬼としてのすごい力で引き戻された。

『痛いなぁ、もう。お前女のくせしてえらい力しとんな。さすが鬼やな。わかった、わかったからその手を離してや。爪が食い込んで痛いやろ。わかった。もう勝手な事せえへんから。ところで、あれが前に話した剛造さんやねん。今はええ顔しとるなぁ。これまでええ調子で来てるからやろな。』

『ホンマやな。本来アンタ平吉があそこに居るはずやったんやから。アンタみたいな阿保はこの冥界中探してもおらんわ。』

和子は腕組みし、ひとり頷きながら答えた。

白い着物の長い列の終わりが王庁の中に吸い込まれて消えたのを確かめて、和子は門番の赤鬼の方に片手を上げながら近づいて行った。赤鬼の前で大きな体を窮屈に折りたたんで、和子は何事か耳打ちしていた。そして話し終わると和子は平吉を手招きして、門の前に呼び寄せた。

平吉は妙に照れながら和子のそばまで進み出た。

『只今ご紹介にあずかりました平吉っちゅう者です。どうか内密に閻魔様にお目通しお願いします。』

『この人かいなぁ。ふーん。』

赤鬼と青鬼は下から平吉を興味深げに見上げ、少し離れたところに移動して、和子を呼び寄せた。

『お前今度は何を企んでるんや?こんな普通の男に何があるねん。』

赤鬼と青鬼は向かい合っている和子の横から、チラチラと平吉を見ながら尋ねた。

『何にも無いよ。ただ閻魔大王に助けられて、冥界の役に立つように命じられてるやろ。で、あちこち見て回るうちにあの男が冥界に来て、妙に気になったからついて行くうちに、さっき言うた様な大それた事を考えよったわけなんや。で、本を売ってる所で例の如く騙されて、にっちもさっちもいかなくなって死なれへんクセに灼熱地獄に飛び込んだりしてたから、人助けが使命やし、ここは助けなアカンと思って人肌脱いだわけや。決して企みなんか無いで。人聞きの悪いこと言わんといてや。失礼やで。』

『そうか、まぁ、アンタも散々悪いことしてきたもんな。この辺で何か役に立つ事しとかんと、閻魔様の立場もお前を助けた手前ヤバイもんな。わかった、何とか閻魔様の秘書に言うてみるわ。けど、期待はせんといてや。』

そう言うと二人の鬼は、和子達に門を入ってすぐ左にある番人室に一旦入るよう指示した。平吉は和子に手招きされて、あちこち触ったり見上げたりしながら中へと入っって行った。

入った所は門番の担当者が、来庁者の対応や扉の開閉の為に待機する部屋で、殺風景な室内には書棚があるだけだった。書棚の中には本屋で騙された見たくもない文字、サンスクリット語で書かれた書物や書類が無造作に置かれていた。チビ鬼たちが居なくなり和子と二人だけだったので、平吉は遠慮なく書棚に向い、一冊を取り出してパラパラとめくってみた。所々に図解はあるが、やはり何が書いてあるか読めない。

『それは「娑婆への渡航解説書」って本や。冥界の中でも限られた技を習得した者が娑婆に出られるんやけど、そのやり方が書いてある。行っても決して娑婆世界には住めないから、行ってもしやぁないけどな。』

『それはどんな技なん?』

『詳しくは知らんけど、心を無にして自分の魂を自由に飛ばせる技らしいよ。』

『ふーん。どこで修行したらそんな技身に付くんや?』

『須弥山中腹の四天王が住む世界の入り口に大きな白い龍がいて、その龍の髭を煎じて飲めば身に付くと聞いてるで。』

『へぇーそうなんや。何か難しそうやな。これは何の本?』

平吉はその隣に置いてある本を指差して和子に聞いた。

『ん?えーっとな。ああ、「浄玻璃(じょうはり)の鏡」の取り扱い方や修理方法とかを書いた本や。これはアンタには全く関係ないわ。』

『じょうはりの鏡って何や。』

『それは、この王庁の一番奥の評決の間にある鏡で、連れてこられた亡者の娑婆での生き様が映像で流れるようになってるんや。それで、その亡者がウソをついてるか閻魔様が判断して、もしウソなら・・・・。』

『もしウソなら?』

『舌を抜かれる。閻魔様が抜くんやないよ、鬼卒(きそつ)っていう鬼のエリートがいて、そいつに即抜かれる。逃げられへんよ。両手を入れる穴の開いたドーナツ状の板を首に巻かれて、両手は使われへんし、鬼卒が大勢いてとても逆らえへんよ。』

平吉はしばらく考えていたが、「はっ」と息を呑んだかと思うと和子に

『えらいこっちゃ。その話がホンマやったら、さっきの剛造さん、舌抜かれるで。あの人の生き様はアンタと変わらん位凄いって本人から聞いてたんや。せやから衣装変えてわしがここにおるんやけど、奪衣婆の所では甲の評価やったから、地獄へ行かんでもええってすごく喜んでたんや。けど、そのウソもここでばれる。ばれたら舌抜かれるんやろ?こらぁ大変や。どうしたらええんや?』

和子は平吉の話に同じくびっくりして、すばやく本を取り出すと赤い大きな目を更に大きく見開いてあちこちめくって調べ始めた。

『アカン。どこにもウソの映像流す方法なんて書いてないわ。使い方とか掃除の仕方とか、万一故障した時の予備機の接続方法とか・・・。元々そんな使い方なんか絶対ないから書いてあるはずないもんな。』

平吉は和子の言葉を止めるようなしぐさで、

『ちょっと待った。今、予備機って言うたよな。そんなんあるの?ここに。』

『あるんやろな。ちゃんと本にその使い方書いてあるで。えーっと、たしかこのへんに、あっあったここや。予備機は本機と違って簡易タイプで、本機は前に立つだけで過去が映し出されるのと違って、予備機は付属している人毛を束ねて作られた線を、王庁の図書館にある娑婆の人間全員の記録が収められた水晶玉が入ってる「魂比幽樽(こんぴゅうたる)」という大きな樽に繋いで、鏡に映ってる亡者の顔を識別して、魂比幽樽から取り込んだその人の過去が映し出される仕組みらしいで。』

『それや、その方法なら何とか乗りきれそうやで。』

『どうゆう事?』

平吉はキョトンとしている和子に耳打ちした。






『なるほど、それなら何とかいけそうやね。けど、誰がすんの?』

平吉は人差し指だけをまっすぐ伸ばして、目の前にいる和子の鼻先に押し付けた。

『やっぱりな。嫌な予感はあったけど、やっぱり私やろな。私しかいてないもんな。わかった。何でもするで。アンタの言う通りにする。』

『頼むわ。ここではアンタしか頼る人おれへんから。お願いします。早速やけどな・・・。』

平吉は和子から本に書かれた内容をさらに詳しく聞いて、失敗すれば命取りになるので綿密な計画を立てた。

『まず、本機を故障させなアカンけど、それは和子さんがわしの持ってるこのお金で鬼卒を買収してもらって、浄玻璃の鏡の裏から水晶玉の下に水を入れて欲しいんや。これで水が乾くまでしばらくは使えへん。買収は得意分野やろ?頼んまっせ。』

『まぁ、得意といえば得意やけど、アンタの大切なお金をこんな事に使ってもええの?』

『構わへんよ。それに元々これは剛造さんのお金やし。あとは剛造さんの審判に間に合うようにするだけや。大丈夫やろか?わしはアイデア出すだけで動くのはアンタやから気の毒やなぁ。』

『何かアンタといたらエライ事に巻き込まれそうやけど、乗りかかった船やし行くとこまで行くわ。結果的にはええ事してるんやし。頑張るわ。』

『よっしゃ、頼むで。けどタイミングが難しいんや。何か審判室の鬼卒と連絡できる方法ないか?』

『それは簡単や。私ら鬼は角で意思の伝達が出来るんや。王庁の中ぐらいの距離なら大丈夫やと思う。買収した鬼卒に剛造さんの番が来たら私に知らせさせるわ。』

『わかった。そしたら早速買収する奴を見つけて来て。万事はアンタのその太い腕に掛かってるんやから。』

『失礼な。ウチは姿こそ鬼やけど、実際は魅力的な・・・・。』

『わかった、わかった。後で暇があったら魂比幽樽で娑婆のアンタを見るさかい。とにかくあなただけが頼りなんやから。』

『はいはい、わかったよ。番人の鬼達が帰ってきたら、ウチがしばらく用事で出掛けたとでも言うて適当に誤魔化しといてな。』

『そうするわ。和子さん、アンタの目がキラキラ輝いてきたな。きっと綺麗な心がそうさせてるんやろう。そのうち姿もだんだん綺麗になってくるかもな。頑張ってや。』

和子は平吉からお金を受け取って王庁の中へ消えていった。平吉は番人が帰ってくるのを待ちながら計画の見直しをしていた。


『へぇー、平吉さん、アンタ閻魔さん相手に凄いことしてはるねんな。生きてはる時はそうは見えんかったのに。さすがウチの旦那さんやわぁ。それに和子さんも親身になって平吉さんを助けてくれてはるんですねぇ。ありがとうございます。』

加代は和子がいるだろう方を見上げて頭を下げた。

『いえいえ、そんなん、奥様が頭下げんといて下さい。ウチの中にあった悪の心で迷惑を掛けた方達への少しでも罪滅ぼしになればと思ってるんです。私の為なんですわ。せやから、奥さんはウチに礼なんか言わんといて下さい。礼と言いたいのはこちらなんですから。』

和子は加代には見えないが、平吉と加代の方を向いて涙を流しながら深く頭を下げた。

『まぁ、加代には見えへんけど、和子さんは涙流して礼を言うてるで。ほんで続きやけどなぁ。』

平吉は続きを加代に話しだした。和子は二人が話している姿を目を細めて眺めていた。





和子が番人室を出て行ってすぐにさっきの鬼たちが帰ってきた。

『あれ?和子は?どっか行ったん?』

『はい、ちょっと用事で・・としか言わんかったけど、すぐ戻るって出て行きましたわ。ところで、閻魔様へのお目通しはどうですやろ?』

平吉はさっと話題を変えて、和子への注意を逸らした。赤鬼は平吉の前に腰を下ろして、平吉にも座るように手で合図した。

『平吉って言うたよな、アンタ。閻魔さんの秘書に言うてみたけど、すぐには無理みたいや。ここしばらくは審判が混んでいて一日中審判室から出られないほど忙しいんやて。せやから日時がわかったら和子さんに連絡しますって。けど、こんな事は前例がないから会ってもらえるかわからへんとも言うてた。今はこれ以上無理みたいや。』

『そうですか。わかりました。えらい無理言いましてすみませんでした。おおきに。期待して待ってますわ。で、和子さんが戻るまでここで待たせてもらってもいいですか?』

と言いながら、平吉は二人の鬼にそっとお金を手渡した。

『こんなんしてもろうたら困るやんか。俺らそんなつもりで頼まれたんと違うのにぃ。えっ?どうしてもって?まぁ、アンタがどうしてもって言うんならとりあえず預かっとくわ。おおきに。』

鬼たちはすばやく受け取った。

『この部屋は遠慮いらんから、和子が戻るまでゆっくりで構わへんで。俺らはそろそろ門を開ける時間やから出て行くわ。』

そういって鬼たちは出て行った。一人になった平吉は事の成り行きに不安を感じながらも、今のところ何も出来ない状況に焦りを感じていた。

その頃、和子は長い通路を小走りに審判室へ向かっていた。途中に待合室を覗いて、剛造がまだ順番待ちをしているのを確認していた。剛造は現在自分の置かれている状況など知る由も無く、天界への階段を上り始めている事に上機嫌で、回りにいる心配顔の亡者達に迷惑を省みず大きな声で話しかけていた。

和子は待合室の5部屋先にある審判室の前に着いた。扉を開けようとすると、中から急に扉が開いて亡者にかける首枷を手に一人の鬼卒が出てきた。その鬼卒は危うく和子にぶつかりそうになるのを、素早い身のこなしでかわした。

『おっと、びっくりするやないか。ここに立ってたら危ないで。おおっ!和子やないか。どうしたんや?閻魔様に用事か?』

和子はその鬼卒を見てほっとした。数人いる王庁の鬼卒の中でも、比較的落としやすい部類の鬼、つまりいわゆる鬼卒の落ちこぼれで、何とか言うことを聞いてくれそうなお人好しだった。

和子は鬼卒のパンツのポケットの中へ、さっき平吉から預かったお金を数枚差し込みながら、耳打ちした。鬼卒は聞き終わるとポケットの中へ手を入れて、枚数を確認しながらニヤッと笑いながら頷いた。そして今度は和子に耳打ちして和子の頷きを確認してから待合室へと向かった。和子は鬼卒の肩を軽く叩いて、図書室へ行くために通路を引き返した。

和子は図書室に着いて調べ物があるからと入り口の係員に断って、先が見えない程長い廊下を奥へと走って行った。聞いたとおり魂比幽樽は図書室の一番奥にあって、ジーン、ジーンと低い音を規則正しく響かせながら佇んでいた。その樽は直径5キロメートルは軽く超えていると思われる大きさで、高さはその倍ほどあり、初めて見た和子はその大きさに息を呑んだ。

しかし、剛造の審判までにはそんなに時間は無く、和子は早速鬼卒に聞いた手順で扉の鍵を開けて中に入った。

中は下から上まで棚で仕切ってあり、水晶の玉が規則正しく並べられていた。この中で平吉と剛造の水晶を見つけ出すのは、感覚の鋭い鬼の能力を持ってしても並大抵ではなかった。時間が無いので和子は最大限のスピードで隅から隅まで走って二人の名前を探した。

鬼は強靭な体と鋼のような強力な筋肉を兼ね備えており、人の数十倍のスピードで走ることが出来る。和子は大きく見開いた目で水晶に刻まれた名前を探した。しばらく探していたが中々見つからなかった。

和子が大きく肩を揺らして一息ついていた時、魂比幽樽の発する音が急に大きくなって、並んでいる水晶の中を幾筋もの光の帯が、目にも止まらない速さで樽の中を走り始めた。

『あいつめ、うまいことしよったな。予備機が動き出したんや。それなら、連絡が来る前に平吉と剛造の水晶を見つけ出して入れ替えんと、計画が水の泡になる。』

和子は意を決して両手を胸の上で交差させて、そのまましゃがみ込んで全身の力を角の先に集中した。これは鬼に備わった「光角探こうかくたん」という特殊な能力で、角の先から出る意識の光で一瞬に光が当たってる物の情報を読み取ることが出来る。しかし、長時間使うと体力を消耗してしまうため、しばらくは全く動けなくなる。命がけの能力なので、よほどの事がないと使わないが、和子は躊躇することなく使った。

和子は呼び寄せた情報で平吉と剛造の水晶の場所はわかったが、二人の水晶を交換するにはかなりの距離を動かなければならなかった。和子はかなりの体力を使い倒れこんでいた。わかっていたものの、これほど体力を奪われるとは思ってもみなかった。しかし、命を掛けてでも成し遂げなければいけない事は十分にわかっていた。力を振り絞って立ち上がると、まず平吉の水晶へ向かって足を引きずりながら歩き出した。途中何度も倒れそうになったが、棚が密集していたおかげで倒れずに進めた。もし倒れれば、和子は意識を失って立ち上がれなかっただろう。

「和子さん、あと二人で剛造の番やで。用意できたか?」

買収した鬼卒から知らせが届いた。返信する力もないまま、やっと和子は平吉の水晶にたどり着いた。その水晶をかかえると、今度は剛造の水晶の場所へ向かった。今の和子にとっては気の遠くなる距離であったが、ここで諦めることは出来なかった。棚の柱に捕まって水晶を大事に抱えながら和子は一歩ずつ進んだ。

「和子さん、おーい、次が剛造でっせ。もしもーし、和子さん大丈夫でっか?もぅ、返事してーや。」

時間だけがいつもと変わらず過ぎていった。「もう間に合わないかもしれない」和子の中で諦めが芽生えてきた。全力で進んでもいっこうに剛造の水晶に近づけない。

『もう終わりや。ごめんやで平吉さん。アンタの役に立てなかったわ。堪忍してや。』

和子の悲痛な叫びでも時は止まってくれない。

『もうじき始まるなぁ。』

剛造の水晶はだいぶ大きく見えるようになってきた。それでも普通に歩いても3分は掛かる。閻魔様の調べは、早い人で2分程で終わる。前の人の調べが長引いてくれることを祈りながら和子は朦朧としてくる意識の中で前へ進んだ。

「今から剛造やで。返事してーなぁ。もう知らんでぇ俺。」

この連絡が来たと同時に和子は意識を失って前に倒れこんだ。和子は倒れながら無意識に水晶玉を放り投げた。投げ出された水晶玉は放物線を描いて剛造の所へ向っている。そして光の帯が四方から剛造の水晶玉に近づいてきた。光の帯が剛造の水晶玉に届く寸前、和子が投げた平吉の水晶玉が剛造の水晶玉に当たり・・・・・・。






審判室では嬉しそうな表情で首枷をはめた剛造が浄玻璃の鏡の前で立っていた。予備機に替わっていた為、少々時間は掛かるが娑婆での行いが映し出された。剛造の番になり浄玻璃の鏡が輝きだして早送りを見るように閻魔大王の前で剛造の映像が流れ出した。

閻魔大王はしばらく映像を眺めていたが、閻魔帳に目を落として、そしてゆっくり剛造の方を鋭い眼光で睨んだ。

『若林剛造』

閻魔大王の地の底から冥界全体に響き渡るような恐ろしい低い声で剛造はビクッと体を震わせて、恐る恐る大王の方を見上げた。

『お前の娑婆での所業はこの浄玻璃の鏡で明らかである。しかし映されたお前の所業はこの閻魔帳の評価とは明らかに違う。鏡によるとお前の所業は一番下の地獄行きに値するが、閻魔帳では天界行きとなっておる。浄玻璃の鏡はウソ偽りは一切無いはず。これをどう説明するのか、言ってみるがよい。』

剛造は閻魔大王の一声一声の凄みに慄きながら、一体どうなっているのかわからなくなっていた。

『わ、わ、わ、わ、わ、・・・・・・。』

声にならず剛造は首枷をしたままその場を回転していた。

『若林剛造。そなたの虚偽の行いは言語道断。申し開き無き場合、五体を切り刻んで、地獄最下層で永遠に苦しみを与え続ける罰を与えるが、それでもよいな!』

閻魔大王は手にした(しゃく)を震わせて、真っ赤な吊り上った大きな目を見開いて更に響き渡る大きな声で剛造に言い放った。

結局、和子の命を掛けた平吉の作戦も失敗に終わった。和子の手を離れた水晶玉も剛造の水晶には当たったが、入れ替わる程の勢いも無く虚しく床に転がったのだった。和子は倒れたまま微動だにせず横たわっていた。


平吉は番人室にじっとしておられずに、図書館へ和子を探しに行っていた。幸い剛造の騒動で係員が持ち場を離れていてすんなり入れた。やがて魂比幽樽の片隅で倒れている和子を発見した。

『おい、和子さん。どうしたんや?大丈夫か?しっかりしてーや。おい、目ぇ開けてーや。和子さん。』

頬を軽く叩きながら、和子を起こした。

『ご、ご、ごめんなさい。間に合わなかったみたい。』

と、それだけ言ってまた気を失った。床に転がっている平吉の水晶玉が、平吉の視線の中で青白く輝いていた。

平吉は和子をその場に寝かせて、すぐに審判室に向かって走っていった。前もって番人室で王庁内の見取り図は頭に入れていた。

審判室入り口では鬼卒が平吉を阻止していたが、和子の名前を出すと平吉に道を開けた。

平吉は審判室に飛び込んで行って、勢い余ってそのまま閻魔大王の前に出てしまった。平吉の横には体全体を震わせ、更に蒼白になっている剛造がいた。平吉は剛造の様子からすべてを察し閻魔大王に向かって土下座をして、そのまま大声で訴えた。

『すべては私の一存でしたこと、この者に一切責任はございません。どうか私に罰を与えて頂いて、ここにいます剛造さんをお助けください。この通りです、お願いします。』

平吉はひれ伏してあらん限りの声で嘆願した。

『お前は?何をしておる?鬼卒、鬼卒、すぐに連れ出せぃ!』

閻魔大王は平吉に一瞥したが、すぐに鬼卒を呼び寄せた。

平吉は連れ出される前に何とか話を聞いてもらう為に、大王の注意を引こうと一言大声で叫んだ。

『すべては賽の河原の哀れな子供たちの為にした事でございますーーっ。』

平吉の悲痛な叫びを聞き、閻魔大王は鬼卒を手で制止して平吉の方に大きな体を乗り出して尋ねた。

『それが今回の不祥事の原因か?詳しく説明するがよい。』

平吉は素早くその場に正座し直して、静まりかえった審判室で呼吸を整えて落ち着いた声で話し出した。

『お聞き頂きありがとうございます。実は私が賽の河原に着きまして三途の川を渡ろうとしておりましたら、あちこちで年端もいかない子供達が石積みをしておりました。苦労して積み上がったかと思うと、大王様の手下の鬼が大きな金棒で壊して回っているのを目撃しました。娑婆では産みの苦労を掛け、また別れの苦労も掛け、親に散々な親不孝をして何の功徳も積んでいないから、川も渡れず賽の河原で石を積んで娑婆で出来なかった功徳を積んでいるのはわかるのですが、永遠に続けさせるには忍びない。彼らも好きで親不孝したんやないんです。生きていれば味わえるべき、楽しい至福の時間を味わうことも出来ないでいるんです。死んでまでそんな苦労はさせたくないと決心して、鬼に邪魔をさせない方法や、あの子らを成仏させる方法が無いか考えたら、閻魔大王様、あなたにお会いしてあなたの分身であられる地蔵菩薩様に救っていただくようお願いするしかないと聞きまして、ここへ来るためにこの剛造さんと衣装を交換して私がここへ早く来れるように策略しました。しかし、結果的にこうなってしまい閻魔大王様や剛造さんに大きな迷惑を掛けてしまいました。ですから私を剛造さんの代わりに罪を償わさせて下さい。私を地獄へ落として下さい。どうかお願い致します。』

そう言うと、平吉は再び深々と頭を床に付く位下げ、大粒の涙が平吉の両頬から床に落ちた。

『ようわかった。名前は何という。』

閻魔大王は静かな低い声で言った。

『はい、野田平吉と申します。』

平吉は頭を下げたまま答えた。

『野田平吉。こちらを見よ。・・・平吉よ、話はよくわかった。そなた今涙を落としたな。本来地獄へ堕ちる者は地獄では涙すら出ない。泣くことも許されない所であるにもかかわらず、涙を流したのは慈愛、博愛に満ちたお前の心が流した涙なんじゃ。その者をここで裁くことは出来ない。野田平吉。ここから立ち去れぃ。だが地蔵菩薩とは、わしも長く会ってはおらん。もし先ほど申した子供の救済を望むなら、この冥界で待つしかない。出現を望むしかない。そなたは地蔵菩薩が現れて、子供らの救済を成し遂げられるまでこの冥界に留まるがよい。ただし、この閻魔に背いたその時は、極刑が待っておるぞ、覚悟せい。』

『はい、わかりました。ありがとうございます。ありがとうございます。』

平吉は閻魔の慈悲に何度も頭を下げて心から感謝した。

剛造はあまりの恐怖からか頭の先からつま先まで真っ白になり、(くう)を見つめたまま立ち尽していた。

『で、この所業はお前一人では到底出来まい。協力者がおるはず。だれか申してみよ。』

『はい、以前閻魔大王様から救って頂いたと聞いております、和子と言う者です。今、魂比幽樽の中で気を失っております。彼女も私が無理に協力させた者です。どうかお慈悲を。』

『ああ、あの和子か。いろいろ善行を重ねておると聞いている。今回の件もお前のその行いを手助けするものと判断し、咎めはしないでおこう。そしてお前がその偉業を成し遂げられるまで傍に居て協力させよう。一緒に行動するがよい。わかったな。ではこの件はこれで落着。』

閻魔は平吉と和子を王庁から追放した。追放とは形ばかりで、冥界に平吉が留まりやすいように家を用意させ、状況を把握するために和子を王庁勤務とした。剛造は平吉の望みどおり地獄には落とさずにもう一度人間として輪廻させ、今度は一生を他人のために捧げるよう心を改めさせ、インドの僧として生まれさせた。





『と、言うことなんです。おわかりいただけましたか?』

平吉は加代にこれまでの経緯を説明し終えた。

『そうなんですか。さすが私の旦那さんや。改めて尊敬しますわ。けど、そんな大それた事出来るんですか?』

平吉は大きく頷いてた。

『あんたここにはどれくらいいてるんですか?』

『そうやなぁ。わかれへんねん。一日の区切りが無いし、眠たくならへんからな。』

『そうなんや。眠らんでもええの?』

『そうや、夜って無いもんな。けど、おそらくだいぶ居てるよ。娑婆ではあんまり時間経ってないやろうけど。』

『そうやで、わたしがここへ連れて来られたのはお通夜の時やったんよ。』

『そうかいな、お通夜してたんか、俺の。仰山来てたか?』

『うん、いっぱい来てはったよ。あんたが乗り移った憲次さんも他のお友達もたくさん来てはったよ。』

『そうか。ほっとしたわ。』

『で、アンタ。私を何でこんなとこまで呼び寄せたん?』

『ああ、それをまだ話してなかったな。』

平吉は自分を見つめている加代にニッコリ微笑みながら話しだした。



平吉は和子を伴って、閻魔が用意した日本風の古びた民家に居を構えた。住むと言っても死んだ人間なので、家具や家電、食品など生きていた時のように色々な家財道具は一切必要としない。家のある場所は以前はるか昔に地蔵菩薩が降り立ったと言われている六道に通じる道端だった。ここで地蔵菩薩の出現を待つわけであるが、いつ現れるか閻魔様でもご存じないし、気が遠くなる程先になるかもしれなかった。

しばらくここに慣れるまで平吉と和子はじっとしていたが、閻魔王庁に行っている和子は別として、平吉は変化のない毎日にだんだん飽きてきた。

平吉は地蔵菩薩に関する色々な情報を集める為に、時間のある限り外へ出て行っていろんな鬼に聞いたり文献を調べた。読めなかったサンスクリット語は和子のおかげで何とか読めるようになっていた。

そしてある日、地蔵菩薩が娑婆によく行っておられる事を聞き、待つより自分で探しに行くほうが早道と知り、以前閻魔王庁にあった「娑婆への渡航解説書」のことを思い出して和子に持って帰ってもらい詳しく調べてみた。それによると和子が前に言ったように須弥山中腹の四天王が住む世界の入り口にいる大きな白い龍の髭を煎じて飲めば身に付くと書いてあった。

平吉は和子に事情を話し、もう一度須弥山へ連れて行ってもらった。和子は閻魔王庁の仕事があるので、平吉一人では心細かったが仕方なく和子を見送った。


須弥山は前述の通り、端が見えない程広大な山で、ほとんど垂直に近い絶壁で覆われていた。

『こんなんどうして登るんやろ。道も無いし、道具も無い。こんなん飛んで登って行くしかない方法ないなぁ。』

平吉は遥か上空の見えない頂を見上げて深い溜息をついて思案していた。周りも見渡す限り岩だらけで閑散として

いた。しばらく歩いてみることにした平吉は今までの自分を振り返っていた。

『こっちの世界に来てからわしは色んな経験してきたけど、これで良かったんやろうか?ましてこれから生きてる頃は考えもしなかった聖域に向かって行くんやから、大それた事をしてるんやないかな。けど、閻魔様にも報告したし、ウソはつかれへんしな。うん、弱音を吐いてるヒマ無いんや。一刻も早く子供らを救ってあげんとな。』

平吉は自分を励まし奮い立たせて改めて遥か上空を見上げた。





                                                                                                                                                                                                                                                             


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