カブトムシ
殿下とアガタ様は、二人仲良く連れ立って帰ってきた。
帰ってきた方向から察するに、殿下は広い庭をかなり遠回りしたらしい。イリスにとっては羨ましいことだ。今回のお茶会には、お庭を見ましょう、というイベントはないのだろうか。
殿下は無事アガタ様にごめんなさいを言えたらしい。しかし、虫に対する認識は改まっていないらしい。それを会話から読み取ったイリスは、殿下の認定を敵から教え諭すべき哀れな子羊に格上げした。虫嫌いなせいで好きな子を泣かせるなんて格好悪いし、なにより、虫嫌いではお外で遊びまわれないじゃないか。殿下を虫好きにすることを、イリスは心ひそかに決意した。
虫を愛でるための教材としては、カメムシはちょっとハードルが高いだろう。経験値が低い殿下には、もっと親しみやすい教材から入るべきだ。かわいさで群を抜くのはイモムシの後ろ足だが、イモムシが嫌いな人も多いという話を聞く。それならば、イリスの秘蔵のカブトムシの話でもしてあげようではないか。イリスは昨年カブトムシの飼育に成功し、近所の子供たちの間でちょっとした英雄だったのだ。カブトムシが嫌いな少年は非常にまれである、という実感をイリスは持っていた。
イリスが使命感に燃え、教育計画を立てている間に、アガタ様からは感謝の言葉を寄せられていたらしい。気が付いたら、ぜひお友達になってくださいと手を握られていた。イリスはなぜそんなに感謝されるのかがわからなかったが、とりあえず、お申し出は受けることにした。なぜならばまだ公爵家の庭を見ていないからだ。
そんなこんなで公爵家のお茶会はお開きになった。
アガタ様は面倒見の良い方だった。末っ子長女だというから、年下の女の子の面倒を見るのが楽しいのだろう。イリスが王都に定住して間もないことを聞くと、それでは友達もいなくてつまらないでしょうと数日に一度は遊びのお誘いをくれ、アガタ様のお友達を紹介してくださった。期せずしてイリスは母の望む交友関係とやらを広げることとなった。交友関係が何に役立つかこれまでよくわかっていなかったが、イリスは一つうれしい効用を発見した。公爵家のお庭も王宮のお庭も、それからアガタ様経由でお友達になったお家の庭まで、見て回ることができたのである。
ある日のことである。アガタ様は優雅にお茶を飲みながら、イリスが語る各地の風物に目を輝かして聞き入っていた。聞けば、アガタ様は王都から出たことがほとんどないという。遠出と称して郊外に出かけることはあるが、その行き先も王都から馬で高々1時間も駈ければ着く距離の離宮だという。
「もっと外の世界を知りたいわ。でも家を出ることはできないし」
そうため息をつくアガタをみて、イリスはひらめいた。
アガタ様が王都の外を知りたいというなら、自分が国中を旅してそれを報告すれば良いのだ。自分は以前と同じように父について回るだけだから、何の心配もない。母がいないのは寂しいが、今までの経験上、なんだかんだで月に一回くらいは会えるのだ。以前イリスが父の異動先について行くことに難色を示した家族も、公爵家の友人のためと言えばきっと反対できないだろう。
イリスが旅先で見聞きしたものを絵や文にあらわして送る。イリスは大好きな動植物が観察できるし、いろいろな地方の手工芸を学べる。イリスがうまいこと説明できれば、アガタ様は旅に出た気分になって、王都の外の世界のことをたくさん知ることができる。すばらしい案だ。
そして数日後。すっかり定例となったアガタ様のお茶会に、イリスはスケッチブックをかかえてやってきた。あの天才的な計画を提案し、情報を報告する能力を売り込むためにスケッチブックを見せようと思い立ったのだ。
今日のお茶会の出席者はいつもの四人、殿下とフェリクス、アガタ様とイリスである。アガタ様だけでなく、殿下にも売り込もうと思ったのだ。
殿下の教育は順調だった。イリスのカブトムシは、高貴なる立場といえども一人の少年である殿下の心を確かにつかんだ。イリスが以前出会った少年たちと同じく、殿下も最初は成虫にしか興味を持たなかった。イリスが危惧した通り殿下はイモムシがさして好きではないようで、カブトムシの幼虫はイモムシのような姿で地中にいると説明すると、嫌なことを聞いたという顔をした。しかし、イリスはあきらめなかった。会うたびに少しずつ根気よく、幼虫から成虫に変態する昆虫の神秘を語った。その甲斐あって、今や幼虫の話もよろこんで聞く立派な昆虫少年に育っていた。
イリスがカブトムシを育てた経験をもつことを、殿下は羨ましがっていた。しかし残念ながら、カブトムシの卵がいたかもしれない土の塊は、イリスの手元にはない。そんなものをドレスと一緒の馬車にのせないで、と姉と母から怒られ、引っ越しの時に近所に配ってしまった。きっと近所の少年たちは大切に育ててくれているだろうけれど、あれがあれば殿下の教育もはかどったのに、とちょっとだけ恨めしく思う。
ただ、実物はいなくても、イリスにはスケッチブックがある。飼育日記を兼ねたスケッチブックを使えばよりいっそう幼虫の面白さを伝えられる。そして殿下はイリスの天才的なスケッチを讃え、イリスの天才的な計画を支持してくれるに違いない。
果たして、スケッチブックを喜んだのはアガタ様よりも殿下だった。カブトムシが地中につくる蛹室、イモムシから徐々にできあがる成虫の体型、イリスの拙い言葉だけでは伝わりきらなかった神秘が、こまめに記録された図と合わせることで伝わってきたのだ。
殿下はイリスの提案に賛同した。海には昆虫以上に格好良くて、予想もつかない生き物がいるに違いない、というイリスの主張を聞いて興味をそそられたのだ。しかし、一方で、自分と特定の令嬢がしばしば文通をするのはいろいろとまずいのだ、と悩む様子を見せた。
「それなら、俺に手紙をくれたら良いんじゃないかな」
そう言ったのは、思い悩む殿下を面白そうにながめていたフェリクスだった。そしてイリスと文通するのは楽しそうだ、と笑った。イリスはその案を検討し、それは良い案だ、と賛同した。教え諭すべき殿下と違ってフェリクスは親友だから、余計な気を使わなくて良いし、堅苦しい挨拶も書かなくて済む。殿下宛の手紙を書くと聞いたら、母は代筆のために侍女を同行させろと言い始めるかもしれないが、フェリクスならば大丈夫だろう。殿下の教育に関しても、親友であるフェリクスが良いように取り計らってくれるだろう。
「何か面白いことがあれば殿下にも読んで差し上げますし」
そうフェリクスが言ったことで、殿下も賛同した。これで、世間を知らない高貴そうな人に世界を教えるために文通をする、という大義名分は立った。
さて、次の課題は父の説得である。海辺の街テッラ・マリティマに出張している父に、迎えに来てもらわねばならない。この難題はアガタ様が、私にも時々お手紙ちょうだいね、と言いつつ引き受けてくださった。アガタ様のお父さまである公爵が、父の勤める植物園の園長と懇意にしている、と言うのだ。
計画はすこぶる順調に、実行に移されていった。
その日イリスは、子爵家に帰るなりもっともらしい顔をして、親友と友人と迷える子羊のために旅に出ねばならない、と家族に告げた。母は目を見開いて何事かと問い、姉は理解できないというように頭を振った。
十日ほど経って、父が突然海辺の出張先から王都へ帰ってきた。
「まあお父様、もう出張は終わりですの?」
「いや、イリス、君に関して園長様から手紙があったんだよ。君を連れていくように、とね」
いったい何をしたんだい、と父は苦笑した。
イリスはすました顔をして、ちょっとしたノブレスオブリージュですわ、とうそぶいた。おそらく完全に誤用である。が、響きが格好良いからそれで良いのである。
こうして、イリスは旅に出た。そして、親友と文通を始めたのだった。