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書簡  作者: いちはつ
4/25

ウシ

「イリス、公爵家のアガタ様からあなたにお茶会への招待状が来ているわ」


カメムシ事件から数日後のある昼下がり、部屋に訪れた母にそう言われて、イリスははて、と首をかしげた。公爵家のアガタ様とはどなた様だろう。心当たりがない。姉と自分を間違えているのではなかろうか。イリスと違ってまっとうな方向に社交的な姉は、イリスの三倍くらいの頻度でお茶会を重ねて、順調に人脈を広げているようだ。

きょとんとするイリスに気づいてか気づかずにか、母はにこやかに言った。


「もちろん、行くわよね。目上のおうちですし、失礼のないようにしないと」


かくして、すなわち問答無用で、イリスはアガタ様という人のお茶会に出かけることになった。ミミズのような字でお返事を書こうとするイリスに代わって、母が丁寧なお礼状を書いた。

さらに数日が経ったその日、イリスはいつもの青い余所行きに身を包み、馬車に揺られて公爵家を訪れたのだった。



見渡した限り、今回のお茶会は参加者が少ないらしい。椅子が四つしかないというのは、イリスの経験上最小だ。ところで四回もお茶会を経験したのだ、そろそろお茶会初心者ではなく初級者を名乗って良いだろうか。

今回もイリスの席には足置きが添えられた。どうやらアガタ様は良い人らしい。きっと自分の身分が一番下だと思って早めに来たのだが、到着してテラスにしつらえられた席に落ち着いて間もなく、一人の少女が現れた。少女が述べたところによると、この少女こそが今回のお茶会の開催者であるアガタ様だそうだ。



「マルガリタ様、あなたをお呼びしたのは、」


挨拶も早々にアガタ様は口を開いた。


「この間のお礼を言いたくて」


この間、とイリスは首を傾げた。何かこの人を助けるようなことをしただろうか。というかどこで会ったんだろう。その様子を良いほうに誤解したのか、アガタ様は小さな包みを差し出しながら慎ましい笑みを浮かべた。


「謙虚なのね。……ハンカチをありがとう」


きれいに包まれた青い刺繍の手巾を受け取ってイリスは、ああ、と思い至った。この人はこの間のオレンジ色だ。


「お力になれたのなら何よりです」


適当なことを澄まし顔で言って、優雅にお辞儀する。お気に入りが返ってきてほっとしたのは内緒だ。今の今まで、どこで会ったのか思い出せなかったのはもっと内緒だ。



「実はもう一つ、お願いがあるの」


しばしの沈黙ののち、アガタ様はうつむきがちに言った。


「今日殿下をお呼びしたの。本当はね、殿下とは、昔から親しくさせていただいて……なのに最近冷たくていらっしゃるから、なぜなのか知りたくて」


あの日勇気づけてくれたあなたがいれば、ちゃんと聞ける気がするのよ。そういってはかなく笑うアガタ様を眺めながら、勇気づけた記憶はないけれども、なんだかずいぶんたいそうな役目を担ってしまったものだ、とぼんやり考えた。



なんだかんだでお茶会のお茶はおいしい。お菓子の籠はちょっと遠かったが、足元にある足置きからして、アガタ様のお茶会の関係者は気が利くだろうという気がする。お菓子の籠に物欲しげな視線をやれば、お菓子が手元にやってくるに違いない。奥ゆかしく物欲しげな視線を演出する方法を考えているうちに、なんだか慌ただしくなってアガタ様が立ち上がった。イリスもとりあえずまねをして立ち上がってみた。

そうすると偉そうな男の子がやってきた。ようこそお越しくださいませ殿下などとアガタ様が述べているからきっと殿下とかいう偉い人だろう。イリスは相手がだれかわからないなど思わせないような、自分でうっとりするほど優雅な礼を取り繕っておいた。

殿下の後ろにはフェリクスが控えている。前回は二人、背の高い男の人を連れていたが、今回はフェリクス一人だ。イリスと、アガタ様と、殿下とフェリクス。これで今日のお茶会の面子は出そろったらしい。



「先日のお茶会では見苦しいところをお見せしまして……」


席について、まずアガタ様が口にしたのは謝罪の言葉だった。


「すてきなお茶会でしたのに、雰囲気を壊してしまって申し訳ありません」


そして申し訳なさそうにまつげを伏せる。イリスの知っているノブレスオブリージュ、ちょっと誤用、によると、高貴なる存在は下々のちょっとした不始末など鷹揚にゆるすものである。たぶんとっても高貴なる存在な気がする殿下なら、笑って許すだろう。女の子が虫をつけていたなんて、そもそも怒るようなことじゃない。イリスだったらむしろ喜んで観察する。カメムシは臭いからちょっと嫌だけど。

イリスの予想に反して、殿下はそっぽを向いた。


「変なものでも食べたんじゃないのか、あんな変な虫が寄ってくるなんて」


それを聞いたアガタ様の顔が泣きそうにゆがんだ。殿下が偉い人なのは知っているが、イリスは我慢ならなくなった。イリスのノブレスオブリージュによると、泣いている女性には手を差し伸べるべきなのである。ついでに言うと、鳴いている虫にも手を差し伸べるべきなのである。


「カメムシは光のあるところが好きなんですのよ」


イリスは言った。殿下は敵だ。虫に対する悪印象を矯正せねばならない。


「あの時、アガタ様はお日様色にきらきらしていらっしゃいましたから。それに虫が一匹ふれたくらい、そんなに大騒ぎすることでもありませんわ。わざとではないことですし、アガタ様を責めることではないでしょう」


イリスはそこで言葉を切った。本当は、私よりずっと大きな体をして虫をこわがるなんて、なんて大人げないのかしら、とさらに責めたてようかと思ったのだが、よく考えたら年上とはいえ殿下も子供だから大人げないという批判は合わないと思ったのである。いっそう優れた罵倒の言葉がないものかと探しているうちに殿下が反撃を開始した。


「だが今まで王宮であんな虫を見たことはなかったぞ。アガタが連れてきたんだろう」


それは殿下の経験値が低すぎるだけでしょう、と言おうとしたイリスは口を閉じた。

ついに耐えきれなくなったのか、アガタ様が泣きながら席を立ち、庭にかけ去ってしまったのである。



「気になる子いじめて喜ぶなんてどこの子供ですか、殿下」


額に手を当ててため息をついたのはフェリクスである。


「うるさい」

「この間のことを謝りたかったんじゃないですか。自分の口から謝りたいから黙っとけとか俺に言っといて何やっているんですか。小さなイリスにすっかり負けているじゃないですか」

「うるさいぞフェリクス」


いかにも呆れた、というフェリクスの口調に、殿下は声を荒げた。だが殿下とずいぶん気やすい仲であるらしいフェリクスは、気にした様子もなく言葉をつづけた。


「うるさいうるさい言っている暇があったらさっさと追いかけてきてください。じゃないと俺が行っちゃいますよ。いいんですか?」


うるさい、と殿下はもう一回言って、庭に駆けだした。

それはアガタ様が走り去ったのと逆の方向では、とイリスは思いつつ、まあ同じ庭の中にはいることだしいつかは巡り合えるか、と考えて興味をなくした。そよ風が吹いて、バターの芳醇な香りが鼻をくすぐったのである。焼き菓子の入った籠は、イリスの手の短さを考えると、イリスからは少し遠かった。イリスの物欲しげな視線に気づいてかフェリクスは籠を手に取ってイリスの前に置き、自分はイリスの隣に座った。知人だけになってすっかりくつろいだ気分になったイリスは、遠慮なくフィナンシェにかじりついた。


ちなみに、イリス基準では、知人とは2回以上言葉を交わした人である。アガタ様は前回ほとんどしゃべっていないからノーカウントで、今日しゃべったから次回以降知人になる予定だ。殿下とは今回もまともな会話をしていないから道のりは遠い。フェリクスは、前々回イモムシにまつわる高尚な会話をしたうえに、前回も軽い世間話程度だが言葉を交わした仲だから、文句なしに知人だ。イモムシの話で意気投合したことだし、むしろ親友と呼んでも良い。



「フィナンシェおいしい?」


どうやらフェリクスもあの二人は放ったらかすことにしたらしい。やはり親友である。だいぶ身長差があるけれど、友情に身長は関係ないはずだ、きっと。そう思いつつ笑顔になったイリスを見て、俺も食べよっと、とフェリクスはマドレーヌに手を伸ばした。


「イリスはお金よりも貝のほうが好きかと思ったけど」


フェリクスは貝殻の形の焼き菓子を一口かじると、イリスの手元の金塊型の焼き菓子を眺めながら言った。


「そうですわね。どこかの古代文明のように貝殻をお金にしたらお金も好きになると思いますけれど。ですが私、お菓子としてはこのフィナンシェの厚みが好きなんですの」

「ああ、しっかり噛み応えある感じ?」

「そうですわ。この感じがたまらないんですの」


あっという間にマドレーヌを食べ終えたフェリクスは、それを聞くとフィナンシェも食べたくなるな、と籠に手を伸ばした。


「フェリクス様の手の上ですと、お菓子が小さく見えますわね」


イリスがちまちまと食べる焼き菓子を、フェリクスは数口で食べてしまう。なんだか負けたような気がする、とイリスは考えて、すぐにすばらしい解釈を発見した。


「つまり私のほうがたくさん食べられて幸せってことですわね!」


見方を変えてみると、すなわち相対性理論に基づいた見解を述べてみると、体のサイズに対するお菓子のサイズはイリスのほうが大きいのである。だからイリスの勝ちなのである。突然勝利宣言をされたフェリクスはびっくりして、それから破顔した。


「イリスは本当にお菓子が好きだなあ」


なんだか前にも似たようなことを言われた気がする、と思いながらイリスはもちろん、とうなずいた。


「大好きですわ!とくにアップルパイが好きですの!」

「アップルパイか。イリスは北のほうに行ったことがあるの?」

「ええ、二年ほど前に住んでいましたの」

「向こうのアップルパイはおいしいよね。甘すぎなくて」

「ええ。私一度、手作りしましたのよ。バターから」


そう言ってからイリスははっとした。姉が言うには、家事を自らやるのは貴族らしくない所業なのだ。使用人が少ない転々生活では身の回りのことくらい自分でやるのが普通だったのだが、金がなかったわけではなかったらしい子爵家が定住してから、台所に下働きの女中が入り、身の回りを世話する侍女というものが現れて、自分でやるべき家事が減ったのである。手を動かすのが好きなイリスにとってそれは悲しいお知らせだった。しかしもしかしたら、家事をしていた、というのは家にとって恥ずべきことなのかもしれない。


「バターから?ってパイ生地をつくったの?」


予想外に、フェリクスは眉を顰めるわけでもなく食いついてきた。イリスは、フェリクスが親友であることを思い出した。親友ならば、イリスの趣味をあざ笑ったりはすまい。親友だということはイリスの勝手な思い込みだが。


「いいえ、バターを作ったのですわ。北にいたとき、ちかくにウシがたくさんいましたの。そこでバターの作り方を教わったのです」

「バターって作れるものなの?」

「つくれますわ。牛乳のいいところをとって、……いいところをどうやって選ぶのかわからないのですけれど、とにかくそれを振り続けるのです。しばらくするとバターが固まってくるのですわ」


そのバターを使って、水車小屋のおじさんから挽きたての小麦粉をもらってきて、パイ生地を作ったのだ。ところが今よりもっと小さかったイリスの手では小麦粉をこねるのは重労働だった。早々に脱落したイリスの代わりに家政婦がパイ生地をこね、イリスは自分専用の小さなナイフでリンゴの皮をむき、時々こっそり口に運んだ。パイ生地を寝かしている間にリンゴをかるく煮込み、ちょっと味見をする。それから麺棒で生地を伸ばしてはたたみ、丸い形に成型する。煮たリンゴとシナモンを入れた上に、パイ生地の切れ端を編みながら乗せていく。余ったリンゴをつまみ食いしながらオーブンでこんがり焼けば、アップルパイの完成だ。

アップルパイについて語り続けるイリスの様子を、フェリクスはびっくりしたように見ていた。時折リンゴの受粉と虫の関係に関する崇高なる議論を交えながら、二人のお菓子談義は続いた。そして、殿下がアガタ様とともに帰ってくる頃には、籠はすっかり空になっていた。

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