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書簡  作者: いちはつ
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カメムシ

それから10日ほどたって、再びお茶会の招待状が届けられた。

母と姉は大興奮でドレスを選びに行ったが、イリスは大興奮で庭師小屋に駆け込んだ。最近庭師のおじさんに花の手入れを習っているのだ。

今までイリスは父から動植物の生態を学んでいたが、野生の状態に詳しい父と庭での見せ方を考える庭師とではずいぶん視点が違う。父の、そしてイリスのよき友であったイモムシは、庭師のおじさんにとっては敵だった。そしてイリスは、おじさんの影響で、イモムシがちょっとだけ嫌いになっていた。


「庭にはね、イリスお嬢ちゃん」

「二羽の鶏がいるんでしょ?」

「うちには二羽よりもたくさんいるがね、いないところもいる。だがね、何がいるか以上に大事なのは視点だよ」

「してん?」

「どこから見るか。何を見るか」


今日、イリスは短時間で庭を楽しむコツを習いに来たのだ。小さなイリスの小さな世界では、このおじさんは庭に関して最高の知識を持っていた。


「何を表現したいか。都市の中に自然を描くこともあれば、樹木を使って人工的な秩序を描こうとすることもある」

「じんこうてきなちつじょ」

「王宮の庭園なら、きっと迷路があるだろう。人の背よりも高い生け垣を巡らして、道を作るんだ。一回はいるとなかなか見つからない出口を探すゲームだよ。庭を見る、というより、遊ぶための装置だね」


それはなかなか恐ろしい装置だ、とイリスは思った。普通の人の背より高いなら、小さなイリスにとってはどれだけの高さになるのだろうか。それはきっと、ものすごい圧迫感だ。


「お嬢ちゃんにとっては、迷路は面白くないだろうね。この季節ならバラ園が見ごろだろう」

「バラばかり植えてあるの?」

「そうだよ。とびきりかぐわしくて、大きな花が咲くバラがたくさんあるはずだ」

「それは不思議な感じね」


そうイリスは答えて、窓からタウンハウスの庭を見渡した。それほど大きくはないが、様々な高さの植物が組み合わさって立体的な印象を与える、大好きな庭だ。ここにバラばかりあったらどうだろう、とイリスは考える。それはそれで素敵かもしれないが、今ここにあるような奥行きはなくなってしまうんじゃないだろうか。

そうイリスが言うと、おじさんはにっこり笑って、広い王宮の庭だから見えることもあるし、ここだから見えることもある、と答えた。



いつも通りに青色のドレスを身に着けて、イリスは上機嫌で馬車に乗り込んだ。

つやのあるドレスの生地は角度によっては銀色に見えて、海のようだ。このドレスに身を包んでいると海の中にいるみたいな気分になれる。だからこのドレスはとってもお気に入りだ。


お気に入りのドレスだけでなく、イリスには前回の秘策がある。今回はきっと人を判別できて、イモムシに邪魔されることなくつつがなくおしゃべりをこなし、お庭を堪能できるだろう。上機嫌なイリスに対して、姉は怪訝な顔をしただけで何も言わなかった。



王宮に到着し、やがてやってきた人々の顔を得意げに見渡して、イリスは愕然とした。意気込みむなしく、見分けられたのは姉とフェリクスだけだったのだ。そういえば、そもそも前回のお茶会で瞳の色をちゃんと見たのはフェリクスだけだった。

フェリクスを後ろに連れて堂々と偉そうに歩いてきた男の子がきっと殿下だろうが、男の子が一人しかいないからわかるというだけで、見分けられた数に入れてはいけないだろう。


それでも前回よりましだった。女の子の人数が八人にまで減っていたし、イリスの足元にはさりげなく足置きが添えられたのだ。そればかりか、イリスがちらりとお菓子に目をやると、しばらくして侍従らしき人が近づいてきて、お取りしましょうか、と声をかけてくれた。

じつに順調な滑り出しに、イリスの機嫌は上昇した。



姉が意図してかせずにかイリスの防波堤となっていたようで、イリスはほとんどしゃべることなくお菓子とお茶に集中できた。足置きのおかげで姿勢を保つのが楽だし、お菓子はおいしい。


イリスの幸せは、庭、という言葉聞こえて最高潮に達した。


殿下とその両隣の少女が立ち上がるのを見て、イリスもまた立ち上がった。あまりせかせかしないように、優雅に、しとやかに。足置きから降りるのは少し大変だったが、お菓子をとってくれた侍従が手を貸してくれた。今日は至れり尽くせりだ。

両の足で地に降り立ち、いざゆかん、とイリスが面構えを引き締めたときだった。


「きゃあっ」


殿下の周りで小さな悲鳴が上がった。何事、と目をやると、殿下の右隣の少女が左隣の少女のスカートを指さしておかしな虫がとかなんとか言っている。目を凝らすと、オレンジ色のシフォンの上に何か虫がいるのが見えた。

使用人らしき人が慌てて近づき、手を上げるのを見てイリスも慌てて声を上げた。


「お待ちください」


人々の視線が頭上をさまよってから落ちてくるのを気にも留めず、イリスはスカートを確認した。やっぱり、カメムシだ。イリスは割と目が良いのだ。


「この虫、叩くと臭いをだしますの。ですから刺激しないようにしませんと」


それではどうすれば、という顔をした使用人とオレンジ色のスカートの間に、イリスは入り込んだ。カメムシを知らないなんてこの使用人大丈夫か、と思わなくもないが、もしかしたら街にはあまりいないのかもしれない。


カメムシを服からとるのは簡単だ。シフォンのスカートを軽く叩いてカメムシを歩かせ、その方向に布巾を置いてやるだけだ。布同士、似たような感触だから、さして疑わずに布巾の上まで歩いてくれる。その布巾を持って、飛ばないように刺激しないように気を付けながらちょっと離れたところに放してやればそれでおしまいだ。



カメムシはイリスの手で無事生け垣の裏に放たれた。

しかし、イリスが短い脚でせっせと走っている間に、事態は悪化していたらしい。風の便りに聞こえたところによると、どうやら殿下が、虫つきなんかほっとけだか虫なんかばっちいだかなんだか言ったらしい。イリスは割と耳が良いのだ。


イリスは憤慨した。必ず、かの無知蒙昧の殿下をこらしめなければならぬと決意した。

だってイリスは知っている。虫がいなければ実がならない植物があるし、実がならなければイリスの大好きなアップルパイは食べられないのだ。


しかし文句を言おうとも殿下はほかの少女たちを連れて行ってしまった。姉もいない。おいて行かれたのだ。薄情な姉である。もしかしたら見えなかったのかもしれないが。文句を言う相手を探すためにイリスはきょろきょろとして、そして憤慨はいったん置いておくことにした。

オレンジ色が泣いていたからである。



イリスはポケットから手巾を出した。もちろん、カメムシをとった布巾とは別のものである。あれはティーテーブルにこっそり戻しておいた。

ちなみに前回、尺取虫とアンズの橋渡しをした布巾も、前回のティーテーブルに返しておいた。もしかしたらきれいに洗濯されて、今回のお茶会に使われているかもしれない。


この手巾は手作りのお気に入りである。父の仕事で北のほうへ行ったとき、近所のおばちゃんと一緒に作ったのだ。おばちゃんが紺色のチェーンステッチで描いた縁起文様に沿ってイリスが青色のチェーンステッチを刺して、さらにその内側をおばちゃんが水色で刺した。イリスのステッチが多少がたがたなところもおばちゃんが器用にカバーして、よく見なければ上出来だ。



そのお気に入りの手巾を人の鼻水だらけにするのは本当はちょっと嫌だったが、イリスは黙ってオレンジ色の上のほうに向かって差し出した。泣いている女性にはいつでも手を差し伸べる。ノブレスオブリージュである。相手のほうが目上だから、なんだか誤用な気もするが、とりあえずイリスは自分の行動に納得した。

オレンジ色の上のほうをよく見てみたら、鼻水などたらさずにはらはらと涙だけをこぼしていたので、自分の行動をさらに褒めたたえた。


オレンジ色は手巾に気づくと少し目を見開いた。イリスがさらに手を伸ばしてとれ、という怨念を込めると、怨念が伝わったのか、オレンジ色はありがとう、と言って受け取り、ほほ笑んだ。はかなげな笑みだった。その笑顔があまりにも、泣き顔以上に悲しそうだったから、イリスは言っておいた。


「虫はかぐわしい花に惹かれるのですわ」


それからリンゴの花の受粉と、イチジクの中で生涯を終えるコバチの話と、ついでにアップルパイのおいしさを語ろうとしかけたがやめておいた。もしかしたらこれ以上虫の話は聞きたくないかもしれない、という可能性に思い至ったのだ。

それにオレンジ色がなんでだかわからないけれどもっと泣いてしまった。これは失敗したかな、と思いながらイリスはオレンジ色が泣き止むまでそばに立っていた。ちょうどオレンジ色の後ろに、こんもりしたクローバーがあったので、葉っぱの上のV字模様を観察しながら時間をつぶした。

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