ムラサキクンシラン
十五になった冬の終わり、イリスは王都へ向かう馬車の中にいた。温暖なシルウァ伯爵領から王都へ続く道は、冬の間にもそれほど雪が積もらなかったのだろう、すっかり乾いた地面を見せていた。それでも時折窓から見える木陰に、冬将軍が名残を惜しむかのように置いた雪の塊が見られることもあった。
この春から、イリスは侍女として王宮に上がることとなっていた。アガタ様のお輿入れに合わせて、王宮の侍女を増やすことになったのだ。行儀見習いとして貴人のそば近く侍ることは、良家の子女の常であった。またアガタ様の強い求めもあった。王宮に上がれば間違いなく、アガタ様の侍女の一人として、話し相手になったり、化粧を手伝ったり、衣装を選定したりすることになるだろう。一番最初以外の役割は、できる気がしなかったが。
父から王宮に出仕する話が来て間もなく、アガタ様からの久しぶりの手紙が届いた。その前の二、三の手紙と違って、形式ばった文章の行間に、イリスへの気遣いが仄かに漂っていた。アガタ様らしいあたたかさに、イリスは手紙を読むまでに強張っていた指の緊張を解いたのだった。そこに綴られていたのは、気の置けない話し相手として王宮での暮らしの手助けをしてほしい、王太子妃としての知見を広めるために様々な情報を届けてほしい、という依頼だった。そしてそのために、父の出張に合わせて各地を訪れることも、忙しい季節でなければ許可すると書かれていた。王宮の庭園に好きに出入りできるよう取り計らうとも書かれていた。
イリスにとっては願ってもない好待遇だった。だから、侍女として王宮に上がることに否やはなかった。
それに、もう理解していた。自分が断れる立場にないことも、自分の世界を描いた小さな箱庭から、出なければならない時が来たことも。
雪融けとともに、戦争の噂は消えていた。
王宮に出仕するようになったイリスには覚えることがたくさんあった。主に人の名前だ。王宮に訪れたアガタ様に悩みはないかと問われ、イリスはそれが悩みだと答えた。アガタ様は昔と同じ笑顔で、生きものの名前ならあんなに簡単に覚えるのに、と笑った。
だって、とイリスは思う。生きものは見た目が全然違うから簡単に見分けられる。トンボの翅は四枚で、ハエの翅は二枚だ。だけど、人間はみんな二本足で、二本の腕があって、二つの眼がある、おんなじような見た目じゃないか。だからお仕着せを着た女中なんか、ひと月経っても見分けられない。見分けられないから名前を覚えたところで呼びようがない。だから名前を覚える意欲も湧かない。とっても論理的だ。
その不適性を見抜かれてか、イリスは間もなく配置換えの憂き目にあった。イリスの仕事は、アガタ様のお輿入れに備えて運び込まれた衣装の管理と、各部屋に花を飾ることになった。これならばなんとかなる、とイリスは安堵した。行事ごとに適した衣装を選べと言われると厄介だけれど、当面は管理だけだから、今あるドレスの色を覚えておけば何とかなる。それにもう一つの仕事は得意分野だ。王宮の園丁ともとっくに仲良しになっていたし、来客に合わせた花を温室から見繕うのは楽しい作業だった。
この日も、来客が来るという殿下からの要望に応えてイリスは花を選んでいた。
「今日は珍しい人が来る予定なんだ」
殿下はすっかり大人びた頬に隠しきれない笑みを浮かべて言った。珍しい人、とイリスは首をかしげた。珍しいも何も、イリスは人の名前と顔に対する記憶力がよろしくない。だから、どんな人もいつだってある意味では珍しい人なのだ。だってそもそも覚えていないのだから。そんなイリスを見ながら、殿下は意味ありげに笑みを深めた。
聞けば、その客は隣国から来るという。芸術を愛することで有名な隣国からの客ならば、装飾には特別こだわらねばならぬだろう。たしか先日その国から訪れた客は、今の流行は華やかさよりも洗練された粋な装いだと言っていた。それならば、豪華なバラやはかなげな霞草、あるいは色とりどりのかわいらしいガーベラより、茎がすっと伸びた植物が良いだろう。カラーかユリを単色でそろえて、葉とともに飾り、瑞々しさを演出しようか。
それを園丁に告げると、それなら良い花がある、と温室の一角に連れていかれた。丸く咲いた真っ青な花に、イリスは目を輝かせた。
「アガパンサスですわね!すてきだわ」
「高さと迫力がありますから、一種類だけを小粋に飾るならちょうど良いでしょう」
細口の花瓶に数本活けるか、広口に束で挿すか。細長いガラス器と合わせても良いだろうし、敢えて丈の低い器でアンバランスさを出しても良いかもしれない。葉の艶がきれいだから一緒に飾ろうか、それと葉を合わせないほうが長い茎が引き立って面白いだろうか。
胸を躍らせながら花を抱え、殿下の応接室をノックしようとした手を、イリスはふと止めた。扉の向こうから甘えるようなヨウムの声が聞こえたからだ。
来客は午後と聞いている。殿下は公務中で、アガタ様は今日はまだいらしていない。今いるのは侍従だけのはずだ。キュイが懐いている侍従などいただろうか。イリスは動揺を押し殺して、扉をいつも通りに叩いた。それに応えて、扉がいつも通りに開かれる。いつも通りに応接室に入って、イリスは動きを止めた。
窓辺でヨウムと戯れていた人と、目が合ったのだ。
「フェリクス様」
最初に襲ってきたのは、たぶん喜びだった。それからむねがぎゅうっと苦しくなって、目頭が潤んだ。嬉しいはずなのに、笑うことができない。そんな自分の心を、イリスはどこか遠いもののように感じていた。
「イリス?」
落ち着かない心を抑え込んで昔のようにフェリクスにかけよろうとしたイリスは、二歩、三歩と足を進めて再び歩みを止めた。記憶の中のフェリクスの声と、少しだけ違う響きを感じたからだ。逆光が彼の表情を隠していて、イリスには自分の感じた違和感が何なのかわからなかった。
ヨウムを窓枠に残して、フェリクスはイリスのそばまで歩み寄った。そして戸惑ったようにイリスのこめかみあたりに指を伸ばし、そのまま昔よくやっていたようにイリスの頭を撫でようとして、そして戸惑ったように指を離した。所在なげな長い指を、イリスは不思議そうな目で見つめた。
「フェリクス様、どうなさったの? おなかでも痛いのではなくて? 旅の途中で変な食べ物でも食べたのなら教えてくださいませ、今度そちらに伺う際にはうっかり食べないように気を付けますから」
心の中にわだかまる違和感をごまかそうと、イリスは適当に話し始めた。そんなイリスの言葉に、フェリクスはくしゃりと顔をゆがませた。
「ああ、イリスだ」
「ええ、イリスですわ。お手紙を出せないほど遠くに行ってらっしゃる間に、大親友の顔をお忘れになったの?」
イリスは昔のように憤然とフェリクスを睨みつけようとして、違和感の正体に気が付いた。
この数年で、イリスの背はぐっと伸びていた。もちろん、いつか越えてやると宣言したフェリクスの長身には届きそうもなかったが、平均的な女性の身長に届くか届かないか、というところまで来ていた。自分の身長が伸びることはずっと昔から予想していたはずなのに、予想外な距離にフェリクスの顔を見て、よくわからない気恥ずかしさを覚えたイリスはたまらず目を伏せた。
変わってしまったのはフェリクスの態度ではなく、己の容姿なのかもしれない。イリスの外見の幼さは鳴りを潜め、子供特有の頬の丸さも手の柔らかさも消えて、かわりに腕も足も少女らしくしなやかに伸びていた。身長は近くなったというのにフェリクスとの距離が広がった気がして、大好きな海色の瞳を見る勇気がなくて、イリスは腕の中の花束をぎゅっと抱きしめた。
午後の来客は隣国の貴婦人であった。フェリクスとも親しいらしい客人が殿下の応接室で歓談している間、イリスはアガタ様のものになる予定の衣裳部屋でぼんやりとドレスを数えて過ごした。やがてアガタ様が登城すると、その侍女としてアガタ様に伴われて応接室へ向かった。貴婦人はアガタ様の挨拶を受け終えると、イリスに目を留め、花瓶に活けた花を褒めた。イリスは慎ましやかに膝を折った。
午後のお茶会は殿下の応接室で和やかに執り行われた。貴婦人の話に笑顔で相槌を打つフェリクスは、イリスの知らない余所行きの顔をしていた。
貴婦人が晩餐の準備のため貴賓室へと戻られると、殿下とアガタ様も国王陛下と相談があると言って退室していった。ほかの侍従や侍女はそれぞれの仕事へと戻り、部屋にはすでに今日の仕事を終えたイリスとフェリクスだけが残った。
困った、とイリスは思った。話したいことはたくさんあったはずなのに、すべての言葉が抜け落ちてしまったかのようだ。だいたい、とイリスは靄のかかったような頭で考えた。帰ってきたのなら手紙をくれればよかったのだ。なのに予告もせず突然現れるなんて、イリスがどれだけ手紙を待ち望んでいるか想像しなかったのだろうか。殿下もアガタ様も、フェリクスが来ることを知っていたようだった。なぜ教えてくれなかったのだろう。イリスが子供だからだろうか。でも、イリスは大人に近づいた。その証拠に、背はこんなに伸びた。なのになぜ、イリスは蚊帳の外だったのだろう。
「イリス」
どんな顔で何を話したら良いのか、決めかねるイリスにフェリクスは声をかけた。
イリスが弾かれたように顔を上げると、フェリクスはどこか泣きそうな表情をしていた。
「向こうを向いてくれるかな」
それに従って後ろを向いたイリスの髪に、フェリクスの手がそっと触れた。沈黙の中に、手櫛で髪を梳くような感触がかすかに届いた。今日のフェリクス様、なんだか変ですわ、とイリスはたずねるでもなく呟く。そんなことない、とフェリクスは自信なさげな呟きを返した。




